人間万事塞翁が丙午 青島幸男 

 

人間万事塞翁が丙午 (新潮文庫)

人間万事塞翁が丙午 (新潮文庫)

 

 

青島幸男直木賞受賞作品

人間万事塞翁が丙午」は青島幸男の小説で、著者の母をモデルとしている。日本橋の堀留町にある仕出し弁当屋「弁菊」が舞台。書名は主人公ハナがが丙午に生まれたことによる。戦中から戦後にかけての下町の生活を講談調で記述しているのが特徴。タイトルは中国のことわざ「人間万事塞翁が馬」のパロディ。第85回直木賞受賞。

 

タイトルの読み方

今回は本の内容というよりもタイトルのお話です。パロディになった、中国のことわざである「人間万事塞翁が馬」について。読み方は「にんげんばんじさいおうがうま」あるいは「じんかんばんじさいおうがうま」と、どちらでも構いません。では、この本のタイトルは「にんげんばんじさいおうがひのえうま」になるわけで、最後の馬「うま」が丙午「ひのえうま」になっていること。丙午の説明はのちほど。

 

人間万事塞翁が馬」の意味

これは、幸せや災いというのは予想ができないものだ、という意味です。
もう少し補足すると、幸せだと思っていたものが不幸の原因になったり、禍(わざわい)のタネだと思っていたことが幸運をもたらすこともある、ということ。単に、塞翁が馬(さいおうがうま)ともいいます。

 

故事の由来

むかし、中国の北方の塞(とりで)のそばに、おじいさんが住んでいました。

ある時、このおじいさんの馬が逃げ出してしまったので、近所の人が気の毒に思ってましたが、おじいさんは「このことが幸運を呼び込むかもしれない」と言いました。

しばらくして、逃げた馬が戻ってきました。しかも、他の馬を連れてきたのです。それは、とても足の速い立派な馬でした。

近所の人が喜んでいると、おじいさんは「このことが禍(わざわい)になるかもしれない」と言いました。

すると、この馬に乗っていたおじいさんの息子が馬から落ちて足を骨折してしまいました。

それで、近所の人がお見舞いに行くと今度は「このことが幸いになるかもしれない」と、おじいさんは言いました。

やがて、戦争が起き、多くの若者が命を落とすことになりましたが、おじいさんの息子は足を怪我していて戦争に行かなかったため無事でした。

というお話です。

これは中国の「淮南子(えなんじ)」という書の「人間訓(じんかんくん)」というところに載っていることわざです。禍と思っていたのが幸運の原因になり、幸運と思っていたのに禍の理由になり、さらにそれが幸運となった、というちょっとややこしいお話ですが、ようするに、幸や不幸は簡単には予想できない、ということです。

なお、「塞翁が馬」の「塞」は砦、要塞という意味で、「翁(おきな)」はおじいさんのことです。「塞翁」は、砦のそばに住んでいるおじいさん、という意味。
また、「塞翁が馬」の「が」は「の」と同じで、砦のそばに住んでいるおじいさんの馬、です。
人間万事の「人間」は、ここでは世の中、世間ということなので、人間万事塞翁が馬だと、世の中のすべてのことは、何が幸いして、何が禍するか分からないものだ、ということになります。

例えば「新車が手に入って喜んでたら事故を起こしてしまった」とか「入院したのをきっかけに自分の時間を持つことができた」なんていうことはありそう。いずれにしても一喜一憂したり右往左往しがちですが、人間万事塞翁が馬ということですね。

 

丙午(ひのえうま)とは

ハナの干支が丙午なのも大きな障害だった。
どういうわけか、昔から丙午の女は亭主を喰い殺すだの、火事を招くだのと碌なことは言われない。同じ姉妹の中でもハナは子供の頃から父親にも別の目で見られていた。
生まれ年ばかりは自分で決めるわけにもいかぬが道理。
あたしばかりが何故と理不尽な差別に腹の立てづけ、親を呪った。 (本文より)

 干支のひとつで、丙も午も火の性を表すところから、これにあたる年は火災の発生が多いという俗説があり、また江戸時代以来、この年に出生した者は気性が激しく、ことに女性は夫となった男性を早死にさせるという迷信がはびこった。この迷信は社会に根強く浸透し、そのため丙午生まれの女性は縁談の相手として忌避される不幸を招いた。この干支に生まれたばかりに、将来不幸を招くといわれ、殺されたりしもしたという。ただの迷信なのに、まったく、魔女狩りみたいなものですね。

いま現時点から一番近い丙午は1966年(昭和41年)ですが、この1966年は、人口統計上この1年だけが25%も出生率が低下し、人数が極端に減っている。この年の生まれの人たちのクラスは他の学年の人たちより、1、2クラス少ないという現象が日本各地で見られた。60個の干支の中で最もエネルギーが盛んな干支といわれる。

もう一つの江戸時代に生まれた縁起の悪さは、井原西鶴が書いた「好色五人女」が原因だったという説があります。これは、「好色五人女」の中の登場人物の一人である、恋人会いたさに自宅に放火した「八百屋お七」が、丙午の生まれだといわれていたことから、それ以降、この年生まれの女性は気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮め(男を食い殺す)、自身の死後には「飛縁魔」という妖怪になるという迷信が庶民の間で信じられるようになった、というものです。妖怪になるという迷信は、300年後の昭和になっても存在し、1966年の出生率低下という結果をもたらした。

しかし、丙午は「天馬・神馬」とも呼ばれていて「神様の乗る馬」とも言われており、神社に飾られている白馬のような存在ともいわれている。

*丙午の計算の仕方は、西暦を60で割って46が余る年が丙午の年となるので、1966年の前は、1906年(明治39年)が丙午でした。今後は、2026年、2086年が丙午です。

 

 

 

 

菜の花の沖(一) 司馬遼太郎

 

あらすじ

江戸後期、淡路島の貧家に生まれた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起し、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく。
沸騰する商品経済を内包しつつも頑なに国をとざし続ける日本と、南下する大国ロシアとのはざまで数奇な運命を生き抜いた快男児の生涯を雄大な構想で描く。全六巻。
作者の回忌の名「菜の花忌」は、この小説に由来する。

 

どうして司馬遼太郎は人気があるんだろう

その一つは福田定一(本名)のネアカな性格に起因してるんじゃないかな。生い立ちは、1923年(大正12年)大阪市浪速区で薬局屋の次男として生まれる。
性格は明るかったが学校嫌いで悪童でもあった、とウィキペディアにある。阿倍野のデパートにある書店で吉川英治宮本武蔵全集を立ち読みで読破してしまった。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから... 」と言ったそうである。大阪外国語大学入学の際には歓迎会でガマの油売りをやったりと、破天荒な性格の片鱗がうかがえます。
しかし読書は依然として好み、ロシア文学や司馬寮の『史記』を愛読。当時の司馬は色白でふっくらした童顔だったが、旧制高校には下駄履きで登下校し、教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒の間でも人気者でいつも人が集まる中心にいた、とあります。
というわけで、司馬遼太郎の小説を読んでいても暗さは感じないし、ユーモアさえある。この『菜の花の沖』も主人公の高田嘉兵衛が明るく生き生きと描かれおり、読んでいて気持ちを前向きにさせてくれるのです。
それと司馬ファンには周知の「余談話し」が多いのが特徴です。「余談ですが... 」と脇道にそれて話をはじめ、そしてまた本筋へと戻る。つまり「エッセイ風な本文」、次に「解説風な余談話し」、そしてまた「エッセイ風な本文」という展開で進行していくので分かりやすいし、知識の豊富さもあって引き込まれてしまう。
余談だけど、フィクションをあまり読まない立花隆が司馬ファンというのも頷けます。

 

くだり物

江戸は、関東という商品生産の未成熟地に人工的につくられた都市だった。人口が百万を超え、世界でも数少ない巨大人口をかかえるまちになったが、江戸という都市の致命的な欠点は、その後背地である関東の商品生産力が弱いこと。これに対し、上方や瀬戸内海沿岸の商品生産力が高度に発達していたため、江戸としてはあらゆる高価な商品は上方から仰がねばならなかった。しかも最初は陸路を人馬でごく少量運ばれていたこともあって、上方からくだってくるものは貴重とされた。
「くだり物」
というのは貴重なもの、上等なものという語感で、明治後の舶来品というイメージに相応していた。これに対し関東の地のものは「くだらない」としていやしまれた。これらの「くだりもの」が、やがて菱垣船の発達とともに大いに上方から運ばれることになる。

 

灘の酒

伝兵衛がいった。「嘉兵衛のやつ、こんど、樽に乗るぜ」
「樽に」
嘉兵衛さんが樽に、とおふさはおどろいた。
「そうじゃない、樽船(樽廻船)だ。おふささん、もっとよろこべ」
「樽ということに?」
おふさには、よくわからない

樽廻船とは「灘の酒」を専門に積み、西宮を出て、紀州まわりで熊野灘をゆき、やがて太平洋の波を突っきって江戸までゆく船をそう呼ぶ。船乗りにとってほまれの航路だった。
灘の酒だけは、独立して船団を組織した樽廻船が用意された。樽廻船の成立は、享保15年(1730年)で、この少し前に、酒を入れる大きな樽が発明されたということだった。樽は中国にも朝鮮にもない。日本でも古代にはなかった。桶もなかった。江戸期に桶は大いに発達した。「酒、す、醤油、油を桶に入れれば遠くへ運べるではないか」と考えた者があり、桶に打ちこみのふたをした。それが樽である。これでもって灘の酒を江戸へ大量に運ぶことができるようになった。樽の出現が、江戸期の商品経済を大きく変えたのです。余談ですけど、江戸初期は、江戸では醤油すらつくられていなかったのです。 

 

菜の花の沖(一) (文春文庫)

菜の花の沖(一) (文春文庫)

 

 

 

 

ユリイカ 特集 米原万里

 

また米原万里かと言われそうですが。2009年に発行されたユリイカ1月号が、ほぼ全ページに渡りロシア語通訳そして作家の米原万里が特集されています。この1冊は古本屋で見つけたもので、ほぼ定価に近い値段。もう少ししたらプレミアがつくかも。


この特集号には数多くの写真が掲載されている。鎌倉のペレストロイカ御殿や良き時代の家族写真、ソビエト学校でのアーニャとの一枚、プラハ時代の万里とユリ、バリバリの共産党員だった頃の父と、東京外語大の学生時代、ゴルバチョフとの貴重なワンカットなどなど。そして、著書の「マイナス50℃の世界」にもでてくるシベリアでの極寒の未掲載カットも登場する。すべてモノクロだけど美しい。

 

ロシア文学とその豊かさについて

~ 例えばトルストイにしてもドストエフスキーにしてもチェーホフにしても、考えてみたらこの人たちはあれほど言論が抑圧されていなかったら、もしかしたら全然違う分野に行ったかもしれない。
そもそもロシアの作家はみんな、社会を変えようと一生懸命考えたり、行動したりして、それが挫折して文学に行ったわけです。だからロシア文学はものすごく社会的な面が強いというか、メッセージ性が強く、それが文学の骨格をとても骨太なものにしている。世界中の人たちが魅かれるロシア文学の魅力はそういうところにあるんだと思いますね ~ 
いったい何が災いするか分からない、人間万事塞翁が馬です。

 

米原万里の読書について

プラハソビエト学校では、図書館で借りた本を返す時にその本の内容を司書のおばさんに話さなければいけなかったんです。そのおばさんがものすごく怖くて厳しい人で、ただ「面白かった」とか「感動した」とか言うのでは絶対に許してくれない。そうした感想ではなくて、その本を読んでいない人たちに客観的に伝えられるように語ってみせなくてはいけないんです。だから本を読んでる最中から、本を読むのが速くなるし、読みも立体的になるんですね。人間の脳というのはアウトプット優位なんですって。だから、出そうと思えばその分だけたくさん入るし、入るスピードも速くなる。
ロシア語で教育を受けたのはたった5年間だったのに、それでも帰ってきて今までロシア語で仕事をしながら暮らしてこられたのは、日露というふたつの言語を身につけられたからということに他ならないんですけど、それは考えてみたら、かなりの程度、本のおかげなんですね。言語には膨大な構文とか文法が準備されてきたわけですけど、そういったものを自分の血や肉となるように身につける最良の手段として、結局は読書以上のものはなかったと思うんです。(引用)

 

ユリイカ2009年1月号 特集=米原万里

ユリイカ2009年1月号 特集=米原万里

 

 

 

 

金閣寺 三島由紀夫

 

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金閣寺 (新潮文庫) | 三島 由紀夫 |本 | 通販 | Amazon

 

金閣寺』は三島由紀夫の代表作でもあり、昭和31年度の読売文学賞を受賞した作品。
冒頭は次のように始まります。

幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
私の生まれたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙(へんぴ)な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。...

昭和25年7月に起きた僧侶による金閣寺放火事件を題材にしており、この異常な事件を文学的な切り口から小説にしたものです。

 

僧侶による金閣寺放火事件

7月2日未明に、鹿苑寺(ろくおんじ)から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。人的被害はなかったが、国宝の舎利殿金閣)が全焼し、文化財も焼失。
鎮火後の現場検証では、普段火の気がないことなどから不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(当時21歳)が、寺裏の山中で服毒し、けがをしているところを発見、逮捕された。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。

三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析している(水上は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っているという)。また、服役中に統合失調症の進行が見られたことから犯行の一因になったのではないかという指摘もある。なお当時、産経新聞の記者だった福田定一司馬遼太郎)も火災現場へ駆けつけている。

事件後、林の母親は山陰本線の列車から保津峡に飛び込んで自殺している。林は精神鑑定ののち、懲役7年を言い渡され服役したが、その後減刑になり昭和30年10月に出所。翌年3月7日に結核統合失調症により病死(享年26歳)。現在の金閣京都府の支援や寄付により、事件から5年後の30年に再建された。


悲劇を生んだ妄想と現実のギャップ

小説での溝口少年(放火をする僧侶)は、「金閣ほど美しいものはこの世にない」という金閣寺を礼讃する父親の言葉を盲目的に信じていました。そして、少年はまだ見ぬ金閣寺の荘厳さ、崇高さ、美しさを「想像上で」構築し始めます。
病気のため命が長くないと悟った父は、息子を金閣寺の住職に預けますが、少年はそこで見た実際の金閣寺と想像上の金閣寺のギャップを感じてしまいます。「金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないか」とまで思うようになり、妄想は際限なく拡大し、その妄想と現実のギャップが悲劇を生む結果になってしまいます。まして少年は、吃音を気にし、自らにコンプレックスを持っており、心理的な壁にもなって、手が届かない存在に。それが一層の絶望感と狂気へと導いてしまうのです。

 

いつかきっとお前を支配してやる

第二次世界大戦で東京が焦土と化し、「次は京都か?」となったとき、この美しき金閣寺をも焼くと考え、「金閣が灰になることは確実なのだ」と語り、滅びの美学に通じ、彼を陶酔させていきます。この文章は三島由紀夫の退廃性を表し、死に直面することで生が輝くのだと。しかし、京都は空襲を免れます。溝口は、否応なしに現実に引き戻される。滅びると思っていた金閣寺が生き延びてしまう。そして彼は「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」と復讐とも言える宣言をします。

 

美との心中

母親は彼に金閣寺の住職になることを期待していました。結局はその期待を裏切ることになり、精神的に追い詰められた溝口は不動の金閣寺に対抗すべく焼き打ちという暴挙を考えます。金閣寺を現実に焼くことで自分の醜い内面と美としての外界とのバランスをとろうとしたのでしょうか。美との心中であり、殉死を試みます。

 

金閣寺』は一貫した美学の発露

三島由紀夫自衛隊に向けた演説をしたあと割腹自殺をしますが、この殉死の発露が、『金閣寺』に見られます。犯罪行為を美化し、芸術化したこの小説が30歳の時に書かれたということは、最後の『豊饒の海天人五衰』を書き上げた45歳で、一貫した彼の美学は完成されたということなのでしょうか。

 

易しくはない『金閣寺

この『金閣寺』、決して易しく書かれているわけではないです。すべての描写が芸術的で、小説としての完成度は限りなく高く、凡人にはとてもこんな文章は書けまいと思わせてしまうほど、三島由紀夫の「滅びの美学」が精密に描かれています。水上勉の「金閣炎上」や「五番町夕霧楼」と読み比べてみるのも面白いと思うし、また酒井順子の「金閣寺の燃やし方」で両者の比較論から読み始めるも良し。映画や演劇、オペラにもなっています。ただ個人的には、恋愛や青春、転生など盛りだくさんの「豊饒の海」の方が好きかもしれないです。長編ですけど。

 

(経営者のためのリベラルアーツ入門、Wikipedia引用)

 

 

 

 

立花隆の書棚 知の巨人の20万冊

 

立花隆の書棚

立花隆の書棚

 

 

知の巨人、立花隆驚異の蔵書を書棚ごと撮影して紹介。20万冊にも達する、どんな本がどのように並べられているのか。写真と共に蔵書にまつわる興味深い話も、約650ページにわたり満載。

 

西洋哲学も、東洋思想も理解できない日本人

西洋社会を本気で理解しようと思うなら、聖書は新約、旧約とも必読です。ところが、そうした西洋の価値観や文化の根底にある、聖書やキリスト教に対する日本人全般の知識の貧弱さと言えば、「てんでお話にならないレベル」だ。その意味で、ほとんどの日本人は、実は「西洋」というものについて何もわかっていないのに、さもわかっているかのように話をしているだけ。こんなことを書くと「たしかに西洋の文学や哲学に関しては、日本人の理解は浅いかもしれない。しかし、東洋にも独自の東洋哲学・東洋思想があるのだから、そんなに悲観することはない。」という人も出てくる。

では、日本人が東洋の哲学・思想についてどれだけのことを知っているのか。中国の思想について、あるいは仏教についてインド思想史からきちんと知っている人はどれくらいいるだろうか。イスラム教、イスラム文化についても事情は同じだ。
正直なことろ、日本人、特に現代の日本人は「ほぼ何も知らない」と言ってもいい。イスラムはともかく、中国思想についていうと、むしろ、インターネットどころか、書籍も手に入りにくかった明治初期とか江戸時代の人のほうが、よほど深い知識があった。日本の知識人と呼ばれる人はみんな、漢文を読み書きすることができた。森鴎外夏目漱石もオリジナルの漢文をそのまま読み書きすることができた。
ところが、ある時期から日本人は漢文に返り点を打って日本語の語順に直して読むという「読み下し」を行うようになり、もともとの漢文が読めなくなってしまった。そして現在に至っては、高校教育の現場で漢文の授業すらなくなり、大学入試においても軒並み漢文は出題されなくなった。結局、今の日本人は肌感覚では東洋思想も西洋思想も理解することができなくなってしまったと。そこで立花隆が現代人に必要な書籍を紹介していく。

 

 

百人一首 藤原定家 

 

百人一首の誕生

百人一首」は、藤原定家がまとめた小さな歌集だ。定家(さだいえ)は優れた歌人で、尊敬を込めて定家(ていか)と呼ばれるようになる。

定家の日記によると、「百人一首」が完成したのは、1235年5月27日、鎌倉時代の初め。定家は、飛鳥時代から平安時代の終わりまでの百人の歌人の和歌を、一首ずつ、合計百首選んで、時代順にまとめた。

昔の人は、四季折々の美しい景色を見たとき、恋や人生について考えたとき、その思いを「和歌」と呼ばれる三十一文字の短い詩につづった。百人一首を読むと、昔の人が自然とともに生き、それを大事にしていたことや、どんなことに心を動かされていたか、そして貴族の華やかな暮らしぶりまでもが、いきいきと伝わってくる。

百人一首は、日本を代表する古典文学として、時代をこえて多くの人々に愛されてきた。さらにはポルトガルからやってきたかるたとあわさり、江戸時代に「歌かるた」という遊び道具になったことで、遊びながら親しまれるようになった。

 

和歌は日本独自の詩のひとつ

百人一首には百首の和歌が収められている。「和歌」とは、日本に古くから伝わる詩の形のひとつで、短歌や長歌などいくつかの種類があったが、平安時代以降に短歌だけが残る。
短歌は五・七・五・七・七というリズムのある短い詩で、ルールは五句三十一文字で作ることだけ。初めの五・七・五を「上の句」、後ろの七・七を「下の句」という。テーマは自由で、風景に感動したことや恋愛のことなど、さまざまなことが詠まれた。

 

貴族によって和歌が発展

和歌は奈良時代に日本の詩の形として完成していた。780年頃に大伴家持によってまとめられた歌集『万葉集』には、天皇から柿本人麿などの下級役人、さらに農民の歌まで約4500首の和歌が収められている。平安時代になると、和歌は貴族のたしなみとして発展する。

 

定家が考える優れた和歌とは

①心を込めて詠むこと
②ひとつ一つの言葉に、良い悪いはない
③言葉と言葉のつながりや流れにより、言葉を選ぶ
④昔の和歌をお手本にする
⑤心がなく言葉の上手な歌よりも、心があって言葉が下手な歌のほうがまし

 

こぬひとを・・・・・五(初句)上の句
まつほのうらの・・・七(二句)
ゆふなぎに・・・・・五(三句)

やくやもしほの・・・七(四句)下の句
みもこがれつつ・・・七(結句)

 

美しい言葉、独特なリズムに加えて、昔の人の暮らしや思いを知ることは心を豊かにする。古典に興味を持つためにも、回を分けて紹介していきたい。

 

西東社百人一首大辞典引用)

 

 

 

 

 

 

源氏物語 世界最古の小説を読んでみよう

 

源氏物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

源氏物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

 

なぜ、紫式部は読み継がれているのか

世界最古の小説『源氏物語』。この歴史的傑作を書いたのが紫式部だ。しかも千年以上前に書かれた『源氏物語』は世界中の文学者からも高く評価されているが、平安時代に誕生して以来、千年以上も読み継がれてきたなんて、何だかロマンを感じてしまう。
オックスフォード大学ケンブリッジ大学歴史学者が選出した「この千年間で偉大な業績を残した歴史上の30人」にもナポレオンやダヴィンチ、エジソンといったそうそうたる面々のなか、ただ一人選ばれた日本人、それが紫式部だ。
なぜ、紫式部によるこの作品が国の内外を問わず読み継がれているのか、回を分けて探ってみる。

世界30か国以上で翻訳される

紫式部の手によって『源氏物語』が書きはじめられたのは1001年(長保3年)頃のこと。そこから幾年もの歳月をかけて完成したのは、全54帖、登場人物400名以上、物語上で流れる月日は70余年という、一大長編小説だった。原稿用紙1,800枚にも相当する量だ。長いあいだ国内だけで読み継がれてきたが、1925年にアーサー・ウェイリーによって「The Tale of Genji」として英訳され、イギリス、アメリカで発表された。ニューヨークタイムズやロンドンタイムズでも絶賛され、以来『源氏物語』の翻訳は世界30~40か国で出版されている。

 

平和で華やかな時代の物語

源氏物語』が海外で人気がある理由は、日本オリジナルの文化を伝えた点にある。平安時代奈良時代につづき、朝廷を中心とした貴族が世の中を支配していたが、政治システムや文化が大きく変わった時期でもあった。そのきっかけは、遣唐使の廃止。それまで国家モデルとしていた中国の王朝、唐に使者を派遣することをやめたのである。
ここから紫式部が活躍する約100年後までの間に、日本の文化が大きく花開いた。キュロットスカートのような装束に身を包み、髪を結っていた貴族の女性たちは、十二単(じゅうにひとえ)をまとい、長い黒髪で美を競うようになる。漢字をくずした「かな文字」が誕生し、恋人たちは漢詩ではなく和歌を贈り合った。現代の女子高生のような感覚か。十二単の色目のかさねルールブックもあったほどで、自分の気持ちを和歌にたくしてあらわすことが、なによりの教養とされた。これは国内に大きな戦もなく、外国からの侵略におびえることもない、平和でのんびりとした時代だったからこその文化の発展だった。

(JAPAN CLASS引用)