きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

特別展「茶の湯」 東京国立博物館 

 

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特別展「茶の湯東京国立博物館 

本展示会は、おもに室町時代から近代まで「茶の湯」の美術の変遷を大規模に展観するものです。「茶の湯」をテーマに名品が一堂に会する展覧会は、昭和55年(1980)に東京国立博物館で開催された「茶の美術」展以来、37年ぶりだそうです。

各時代を象徴する名品を通じて、それらに寄り添った人々の心の軌跡、そして次代に伝えるべき日本の美の粋を感じることができます。

国宝の曜変天目 稲葉天目(写真の右下)は展示期間が5月7日までで、残念ながら今回は見ることが出来ませんでしたが、他にも素晴らしいコレクションが多数出品されておりました。当時の茶室を再現したコーナーもあり、茶道に詳しくなくても十分楽しめます。

 

 

 

『檸檬』 梶井基次郎 無名のまま31歳で生涯を終える 


無名のまま31歳で生涯を終えたが

のちに「檸檬」が高評価を受け
その名が知られる



梶井基次郎(かじいもとじろう)

 明治34年(1901)、大阪に生まれる。京都大学卒業。この頃より結核、神経衰弱を発症し、以後病魔に苦しみつつも放蕩生活を続け、夏目漱石などに傾倒。23歳で東京大学文学部へ入学。。在学中の大正14年に同人誌『青空』を創刊、「檸檬(レモン)」を発表。初めて原稿料をもらったその年に結核が悪化し、昭和7年に無名のまま31歳で生涯を終えたましたが、死の前年に出版された単行本『檸檬』が高評価を受け、その名が知られることとなりました。

 

川端康成の手伝いをする

 大正15年(1926)、療養のために訪れた伊豆の湯ヶ島で、川端康成萩原朔太郎らと出会います。やがて基次郎は康成の『伊豆の踊子』の校正を手伝うことになるのですが、その見事な仕事ぶりを目にした康成は「彼は私の作品の字の間違いを校正したのではなく、作者の心の隙を校正したのであった」と驚いた。

 

檸檬

変にくすぐったい気持ちが街の上の私をほほえませた。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾をしかけてきた奇妙な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。

 得体のしれない憂鬱な心情や、ふと抱いたいたずらな感情を色彩豊かな事物や心象と共に誌的に描いた作品。三高時代の梶井が京都に下宿していた時の鬱屈した心理を背景に、一個のレモンと出会ったときの感動や、それを丸善(洋書店)の書棚の前に置き、鮮やかなレモンの爆弾を仕掛けたつもりで逃走するという空想が描かれています。
 この「檸檬」は、たった数ページの小品です。本書には他に「Kの昇天」や「冬の蠅」「のんきな患者」など、全14作品が収録されており、アメリカ、スペイン、中国、フランス、ドイツなどでも翻訳されています。

 

檸檬 (角川文庫)

檸檬 (角川文庫)

 

 

 

 

中島 敦『山月記』 わずか8か月の輝き 

 

わずか8か月の輝き
文学史に流れて消えた彗星

 

李陵・山月記

李陵・山月記

 

 

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文芸史に名を残した中島敦

 今回は、芥川賞候補となり『山月記』『李陵』などの名作を生んだことで昭和の文芸史に名を残した中島敦(なかじまあつし)についてです。
 作品は漢文的な書き方で注釈が多く取っつきにくそうですが、ほんの数十ページです。多少、労を割いてでも読む価値はあります。ぜひこの彗星の輝きに触れてみてください。

 

数こそ少ないが、珠玉のような輝き

 中島敦は短い生涯にわずか二十編たらずの作品しか残していません。それも未完成のものが入っているので、完成した作品は本当に少ない。しかし、数こそ少ないけど、珠玉のように光輝を放って、永遠に忘れられぬ作家となり、作品の芸術性は高く、古典の域に達しています。
 『山月記』は人が虎に変身してしまう話で、中国の古典が基礎にあるものの、西欧文学への傾倒もあり、英訳によるフランツ・カフカやデイヴィッド・ガーネット、D・H ロレンス等にも親しんだという。

 

成績は優秀だったが

 明治42年(1909)中学の漢文教師として働く父の長男として東京で生まれ、父親の転勤で、奈良、静岡、そして朝鮮と転々とします。父ばかりでなく、祖父も伯父も代々、漢学者という家系で幼い頃から学校の成績は常にトップクラス。旧制第一高等学校から東京大学に進学します。森鴎外の研究のために大学院に進むが中退している。
 ただし、私生活は波乱含みで、2歳で両親が離婚。その後、二人の継母に育てられるが、折り合いは良くなかった。大学時代は、麻雀やダンスホールでの遊興に明け暮れ、入り浸っていた麻雀クラブの女性従業員・橋本タカとの間に子どもまで生まれる始末。

 

女学校の教師として人気者に

 昭和8年(1933)に大学を卒業。成績優秀ながら、朝日新聞社の入社試験で二次の身体検査に落ち、持病の喘息もあったが、妻子(橋本タカ)ともようやく一緒に暮らし始めます。父親のツテで私立横浜高等女学校の教職に就きます(この年に、のちに大女優・原節子と呼ばれる少女、会田昌江が入学している)。
 女学校では国語や英語を担当し、明るくて気配りもできたので生徒や教師からも好かれたが、学生時代から抱き続けた文学への想いは断ち切れず、教職と並行して執筆活動も進めていった。

 

わずか8か月の輝き

 昭和16年(1941)体調が悪化し、8年の教師生活に別れを告げ退職します。南洋庁に転職すると、治療も兼ねて国語編集記としてパラオに赴任。ところが現地では風土病に悩まされ、太平洋戦争開戦という事情も重なり、翌年に帰国。
 これに先立つパラオ出発前に書き留めていた原稿を友人の深田久弥に託していたのですが、『山月記』『文字禍』の2編が雑誌「文學界」に掲載されました。さらに『光と風と夢』が芥川賞候補になったことで作家としての道が開けます。これにより、南洋庁を退職。創作に専念して『名人伝』『弟子』『李陵』などを次々と執筆しました。
 しかし、病状はさらに悪化し、昭和17年(1942)12月に、33歳の若さで世を去ってしまいます。作家として認められた期間は生前1年にも満たなかったのです。ただ、執筆した原稿の多くは死後に出版され、高い評価を得て中島敦の名は文学史に刻まれることとなりました。

 

山月記』について

 山月記は、昭和17年(1942)に発表された中島敦の短編小説で、精緻な文章から今でも国語の教科書などに掲載されることが多いですね。以下はあらすじです。内容紹介については、下記のブログ記事(『山月記中島敦 江守徹の朗読)に記載しています。
 若くして高級官僚となった秀才、李徴は詩人として名を残そうと考えて辞職し、詩作に専念した。しかし、これに挫折し仕方なく地方の小役人となったものの、ついに発狂し、消息を絶つ。実は虎に変身していたのだが、翌年のある月夜に旧友の高官、袁蛯に遭遇する。これまでの経緯を話し、自作の詩を書き取ってもらい、妻子には自分は死んだと伝えるよう頼んで姿を消す。

 

山月記に登場する李徴の言葉

 「人生は何事をもなさぬには余りに長いが、何事かをなすには余りに短い」
 中島敦はこの李徴に自分を重ねていたのかもしれません。この『山月記』を発表した年に、亡くなりました。

 
『「文豪」がよくわかる本』から抜粋

 

 

山月記』をもっと詳しく

 
「文豪」がよくわかる本

「文豪」がよくわかる本

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『変身』 カフカ 不思議な海外文学最高傑作


 ある朝、夢から目をさますと
一匹の巨大な虫に変わっていたのです

 

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

 

 

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フランツ・カフカ
1883年チェコプラハユダヤ人の商家に生まれる。プラハ大学で法学を修めた後、肺結核で夭折するまで労働災害保険協会に勤めた。人間存在の不条理を主題とするシュルレアリスム風の作品群を残している。現代実存主義文学の先駆者。享年40歳。(1883-1924) 他に「審判」「城」「失踪者」など。短編小説多数。
*夭折(ようせつ)若くして亡くなること

 

あらすじ

 ある朝、気がかりな夢から目をさますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する男、グレーゴル・ザムザ。なぜ、こんな異常な事態になってしまったのか...
 謎は究明されないまま、ふだんと変わらない、ありふれた日常がすぎていく。事実のみを冷静につたえる、まるでレポートのような文体が読者に与えた衝撃は、様ざまな解釈を呼び起こした。海外文学最高傑作のひとつ。(本書より)1915年作品

 

 

解釈がたくさんある不思議な小説

 わずか100ページにも満たない本書は、あっという間に読めてしまうけど、なんとも言えない読了感です。虫とあるけど、朝起きたら突然、巨大なムカデになっていたというもの。読んでいて不思議だと思ったのは、どうして犬や猫でなく虫なのか、それと周囲の家族たちが誰も不審に思わないこと、また著者のカフカが、なぜ変身したのかを説明してません。
 本書の最後のページにある解説に少し納得のいく説明(下記)がなされていますが。
とにかく海外文学の最高傑作なんです。いつも読みやすいものばかりでなく、少しづつ難解なものにも挑戦していくことが、さらに血肉になっていくということです。

解釈の例(本書より)

カフカは『変身』のテーマは息子たちであると明言しています。

① 私生活と職業生活について
グレーゴルはセールスマンとしての職を拒否し、自由に生きたいと考えているが、そのように振舞うことのできない彼の苦悩が『変身』で描かれている。

② 家族物語ー父親と息子との対立
グレーゴルは父親が投げたリンゴの傷が原因となって死ぬ。カフカ自身とその実在の父親との関係を連想させる。

形而上学的世界
変身という現象はグレーゴルの本来の自己が、その日常生活、すなわち世間の人の中に衝撃的に入り込んできたことを意味すると。

マルクス主義と宗教的解釈
『変身』をマルクス主義的に解釈し、資本主義社会における公的生活と私的生活との矛盾が描かれているという解釈。また神と人間の関係が暗示されているという宗教的な見方もあるという。

 

こんな解釈も

 変身したのはグレーゴルではなく... いったい本当に変身したのは誰なのだろう。グレゴールは虫に変身したのはたしかなのだが、彼の思考はまったく変わってはいない。虫になったとしてもグレーゴルはグレーゴルなのである。
 一方、彼の父母と妹はまったく変わったではないか! 以前にグレゴールが家計のすべてを支えていたときには生活力がゼロであったように思えたのが、家計の危機によって家族みんなは働きに出た。なんと見違えるようになったことだろう。父はしゃっきりして、ひ弱だった妹もすっかり美人のしっかり屋さんになった。みんなまるで別人へと変身してしまったようである。
読書メーターシュラフさんコメントより)

 

 

 

 

 

 

 

 

『旧約聖書』 罪と罰

 

罪と罰

 突然ですが、聖書は新約聖書旧約聖書のどちらが面白いのでしょうか? どちらも読むのに時間が相当かかるし、簡単ではありません。ここではまず重いテーマですが、人類誕生からの永遠の課題である「罪と罰」について流れを掴んでポイントを押さえてみたいと思います。

 

創世記のヨセフ物語

 ヨセフは父ヤコブが年老いてからの子であったために、どの息子よりもかわいがられ、そのことを兄たちは妬んでいた。さらに、兄たちが結わいた麦束が自分の束にひれ伏す夢を見たことをヨセフが兄たちに語ったとき、その妬みに憎しみが加わっていった。あるとき、羊の群れの番をしていた兄たちは一緒にいたヨセフを穴に突き落とそうとした。偶然そこを通りかかった商人に銀20枚で売られたヨセフは、エジプトで奴隷として売り払われてしまった。
 エジプトの侍従長ポティファルに買い取られたヨセフは、ポティファルの妻に不義を偽証され投獄されてしまう。しかし、獄中で給仕役の長と料理役の長の夢を解き明かして名を上げ、今度はファラオの夢解きをすることになった。ファラオの夢の内容を聞いたヨセフは7年間の豊作のあとに7年間の飢饉が来ることを予告し、豊作の間に食糧を蓄えるようにと進言する。これがきっかけとなり、ヨセフはファラオに取り立てられ、エジプト全国を支配する為政者となった。
 7年後、ヨセフの予告通りエジプトを飢饉が襲ったが、幸いにもヨセフが蓄えさせた食糧のおかげで難を逃れることができた。しかし、飢饉は父ヤコブや兄たちが住むカナン地方にまで及んでいた。兄たちは食糧を手に入れるためにエジプトに行くが、兄弟は穀物を管理する者がヨセフであるとは気づかず、その人物の前にひれ伏した。
 ヨセフは自分と同じ母をもつ弟ベニヤミンを連れて来ることを条件に穀物を売り渡した。自分を売った兄弟たちへの憎しみをもちつつも、肉親への思いを捨てることもできず、受け取った穀物の代金を兄弟たちの袋に忍ばせた。
 ベニヤミンを連れて再度エジプトに来た兄弟たちを、ヨセフは食事に招いて歓待した。ベニヤミンを見たとき、ヨセフは胸が熱くなり、涙がこぼれそうになって席を立ってしまう。食事が終わり、食糧と穀物の代金を兄弟めいめいの袋に入れて帰国を促したヨセフだったが、ベニヤミンだけは自分のもとに置こうとした。
 ヨセフは兄弟たちに「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」といった。兄弟たちはヨセフの仕返しを恐れ、ヨセフの前にひれ伏したが、ヨセフは「あなたたちの悪を神が善に変えた」と述べて、赦(ゆる)しを明確に宣言した。
 物語の端緒となったヨセフの夢のように、兄たちはヨセフの前にひれ伏すが、最後の「ひれ伏す」は最初とはまったく違った意味をもっている。変えたのは神なのであろう。
(図解雑学旧約聖書より抜粋)

 

 罪はブーメランのように

 私たちは一般的に「罪」と「罰」を分けて考えます。罪とは自分が犯した悪い行為のことであり、罰とは他人が下す罪への懲らしめのことだと考えるから、両者を明確に区別する。しかし、ヘブライ語の「アーボン」は「罪から罰に至るプロセス全体」をあらわし、文脈に応じて「罪」「有罪の状態」「罰」のいずれもの意味にもなる。ブーメランが投げた人のもとに戻ってくるように、罪は罰となって罪人のところに戻ってくる。 
 もちろん、全能の神は罪から罰への流れを食い止めることができるはずです。食い止めることなく、流れに任せるのならば、罪は罰となって罪人を襲うことになる。その意味では、神が罰を下すともいえる。食い止められるのにそうならないのは、そこに神の意志が働いている証拠といえるのでしょう。罰は反省を求める神からのサインなのです。

 

遠藤周作の「沈黙」は神の下した罰なのか

その海の波はモキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ、彼達の死のあとにも同じ表情をしてあそこに拡がっている。
そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。
最大の罪は神にたいする絶望だということはもちろん知っていましたが、なぜ、神は黙っておられるのか私にはわからなかった。

全能の神は罪から罰への流れを変えられたが、変えることなく、罪は罰となって罪人を襲った。「沈黙」は神が下した罰だったのでしょうか。

 

 

 

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

 


 

 

 

『人間万事塞翁が丙午』 青島幸男 

 

人間万事塞翁が丙午 (新潮文庫)

人間万事塞翁が丙午 (新潮文庫)

 

 

青島幸男直木賞受賞作品

 「人間万事塞翁が丙午」は青島幸男の小説で、著者の母をモデルとしている。日本橋の堀留町にある仕出し弁当屋「弁菊」が舞台。書名は主人公ハナがが丙午に生まれたことによる。戦中から戦後にかけての下町の生活を講談調で記述しているのが特徴。タイトルは中国のことわざ「人間万事塞翁が馬」のパロディ。第85回直木賞受賞。

 

タイトルの読み方

 今回は本の内容というよりもタイトルのお話です。パロディになった、中国のことわざである「人間万事塞翁が馬」について。読み方は「にんげんばんじさいおうがうま」あるいは「じんかんばんじさいおうがうま」と、どちらでも構いません。では、この本のタイトルは「にんげんばんじさいおうがひのえうま」になるわけで、最後の馬「うま」が丙午「ひのえうま」になっていること。丙午の説明はのちほど。

 

人間万事塞翁が馬」の意味

 これは、幸せや災いというのは予想ができないものだ、という意味です。
もう少し補足すると、幸せだと思っていたものが不幸の原因になったり、禍(わざわい)のタネだと思っていたことが幸運をもたらすこともある、ということです。単に、塞翁が馬(さいおうがうま)ともいいます。

 

故事の由来

むかし、中国の北方の塞(とりで)のそばに、おじいさんが住んでいました。

ある時、このおじいさんの馬が逃げ出してしまったので、近所の人が気の毒に思ってましたが、おじいさんは「このことが幸運を呼び込むかもしれない」と言いました。

しばらくして、逃げた馬が戻ってきました。しかも、他の馬を連れてきたのです。それは、とても足の速い立派な馬でした。

近所の人が喜んでいると、おじいさんは「このことが禍(わざわい)になるかもしれない」と言いました。

すると、この馬に乗っていたおじいさんの息子が馬から落ちて足を骨折してしまいました。

それで、近所の人がお見舞いに行くと今度は「このことが幸いになるかもしれない」と、おじいさんは言いました。

やがて、戦争が起き、多くの若者が命を落とすことになりましたが、おじいさんの息子は足を怪我していて戦争に行かなかったため無事でした。

というお話です。

 

幸や不幸は予想できない

 これは中国の「淮南子(えなんじ)」という書の「人間訓(じんかんくん)」というところに載っていることわざです。禍と思っていたのが幸運の原因になり、幸運と思っていたのに禍の理由になり、さらにそれが幸運となった、というちょっとややこしいお話ですが、ようするに、幸や不幸は簡単には予想できない、ということです。

 

塞翁が馬

 なお、「塞翁が馬」の「塞」は砦、要塞という意味で、「翁(おきな)」はおじいさんのことです。「塞翁」は、砦のそばに住んでいるおじいさん、という意味。また、「塞翁が馬」の「が」は「の」と同じで、砦のそばに住んでいるおじいさんの馬、です。人間万事の「人間」は、ここでは世の中、世間ということなので、人間万事塞翁が馬だと、世の中のすべてのことは、何が幸いして、何が禍するか分からないものだ、ということになります。
 例えば「新車が手に入って喜んでたら事故を起こしてしまった」とか「入院したのをきっかけに自分の時間を持つことができた」なんていうことはありそう。いずれにしても一喜一憂したり右往左往しがちですが、人間万事塞翁が馬ということですね。

 

丙午の女は亭主を食い殺す

 ハナの干支が丙午なのも大きな障害だった。どういうわけか、昔から丙午の女は亭主を喰い殺すだの、火事を招くだのと碌なことは言われない。同じ姉妹の中でもハナは子供の頃から父親にも別の目で見られていた。生まれ年ばかりは自分で決めるわけにもいかぬが道理。あたしばかりが何故と理不尽な差別に腹の立てづけ、親を呪った。 (本文より)

 

丙午(ひのえうま)は迷信

 干支のひとつで、丙も午も火の性を表すところから、これにあたる年は火災の発生が多いという俗説があり、また江戸時代以来、この年に出生した者は気性が激しく、ことに女性は夫となった男性を早死にさせるという迷信がはびこった。この迷信は社会に根強く浸透し、そのため丙午生まれの女性は縁談の相手として忌避される不幸を招いた。この干支に生まれたばかりに、将来不幸を招くといわれ、殺されたりしもしたという。ただの迷信なのに、まったく、魔女狩りみたいなものですね。

 

エネルギーが最も盛んな干支

 いま現時点から一番近い丙午は1966年(昭和41年)ですが、この1966年は、人口統計上この1年だけが25%も出生率が低下し、人数が極端に減っている。この年の生まれの人たちのクラスは他の学年の人たちより、1、2クラス少ないという現象が日本各地で見られた。60個の干支の中で最もエネルギーが盛んな干支といわれる。

 

八百屋お七」は丙午?

 もう一つの江戸時代に生まれた縁起の悪さは、井原西鶴が書いた「好色五人女」が原因だったという説があります。これは、「好色五人女」の中の登場人物の一人である、恋人会いたさに自宅に放火した「八百屋お七」が、丙午の生まれだといわれていたことから、それ以降、この年生まれの女性は気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮め(男を食い殺す)、自身の死後には「飛縁魔」という妖怪になるという迷信が庶民の間で信じられるようになった、というものです。妖怪になるという迷信は、300年後の昭和になっても存在し、1966年の出生率低下という結果をもたらした。

 

丙午は「神様の乗る馬」

 しかし、丙午は「天馬・神馬」とも呼ばれていて「神様の乗る馬」とも言われており、神社に飾られている白馬のような存在ともいわれている。
 丙午の計算の仕方は、西暦を60で割って46が余る年が丙午の年となるので、1966年の前は、1906年明治39年)が丙午でした。今後は、2026年、2086年が丙午です。

 

 

 

 

 

 

 

『菜の花の沖』(一) 司馬遼太郎

 

悲惨な境遇から海の男として身を起し
ついには偉大な商品に成長していく

 

菜の花の沖(一) (文春文庫)

菜の花の沖(一) (文春文庫)

 

 

あらすじ

 江戸後期、淡路島の貧家に生まれた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起し、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく。
 沸騰する商品経済を内包しつつも頑なに国をとざし続ける日本と、南下する大国ロシアとのはざまで数奇な運命を生き抜いた快男児の生涯を雄大な構想で描く。全六巻。作者の回忌の名「菜の花忌」は、この小説に由来する。

 

どうして司馬遼太郎は人気があるんだろう

 その一つは福田定一(本名)のネアカな性格に起因してるんじゃないかな。生い立ちは、1923年(大正12年大阪市浪速区で薬局屋の次男として生まれる。
 性格は明るかったが学校嫌いで悪童でもあった。阿倍野のデパートにある書店で吉川英治宮本武蔵全集を立ち読みで読破してしまった。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから... 」と言ったそうである。大阪外国語大学入学の際には歓迎会でガマの油売りをやったりと、破天荒な性格の片鱗がうかがえる。

 

生徒のあいだでも人気者

 しかし読書は依然として好み、ロシア文学や司馬寮の『史記』を愛読。当時の司馬は色白でふっくらした童顔だったが、旧制高校には下駄履きで登下校し、教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒の間でも人気者でいつも人が集まる中心にいた、とある。
 というわけで、司馬遼太郎の小説を読んでいても暗さは感じないし、ユーモアさえ感じる。この『菜の花の沖』も主人公の高田嘉兵衛が明るく生き生きと描かれおり、読んでいて気持ちを前向きにさせてくれるのです。

 

余談話し

 それと司馬ファンには周知の「余談話し」が多いのが特徴だ。「余談ですが... 」と脇道にそれて話をはじめ、そしてまた本筋へと戻る。つまり「エッセイ風な本文」、次に「解説風な余談話し」、そしてまた「エッセイ風な本文」という展開で進行していくので分かりやすいし、知識の豊富さもあって引き込まれてしまう。余談ですけど、フィクションをあまり読まない立花隆が、司馬ファンというのも頷けます。

 

くだらない

 江戸は関東という商品生産の未成熟地に人工的につくられた都市でした。人口が百万を超え、世界でも数少ない巨大人口をかかえるまちになったが、江戸という都市の致命的な欠点は、その後背地である関東の商品生産力が弱いこと。これに対し、上方や瀬戸内海沿岸の商品生産力が高度に発達していたため、江戸としてはあらゆる高価な商品は上方から仰がねばならなかった。しかも最初は陸路を人馬でごく少量運ばれていたこともあって、上方からくだってくるものは貴重とされたのです。
「くだり物」
というのは貴重なもの、上等なものという語感で、明治後の舶来品というイメージに相応していた。これに対し関東の地のものは「くだらない」としていやしまれた。これらの「くだりもの」が、やがて菱垣船の発達とともに大いに上方から運ばれることになる。

 

灘の酒

伝兵衛がいった。「嘉兵衛のやつ、こんど、樽に乗るぜ」
「樽に」
嘉兵衛さんが樽に、と妻のおふさはおどろいた。
「そうじゃない、樽船(樽廻船)だ。おふささん、もっとよろこべ」
「樽ということに?」
おふさには、よくわからない

 樽廻船とは「灘の酒」を専門に積み、西宮を出て、紀州まわりで熊野灘をゆき、やがて太平洋の波を突っきって江戸までゆく船をそう呼ぶ。船乗りにとってほまれの航路だった。
 灘の酒だけは、独立して船団を組織した樽廻船が用意された。樽廻船の成立は、享保15年(1730年)で、この少し前に、酒を入れる大きな樽が発明されたということだった。樽は中国にも朝鮮にもない。日本でも古代にはなかった。桶もなかった。江戸期に桶は大いに発達しました。「酒、す、醤油、油を桶に入れれば遠くへ運べるではないか」と考えた者があり、桶に打ちこみのふたをした。それが樽でした。これでもって灘の酒を江戸へ大量に運ぶことができるようになった。樽の出現が、江戸期の商品経済を大きく変えたのです。余談ですけど、江戸初期は、江戸では醤油すらつくられていなかったのです。