きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『打ちのめされるようなすごい本』 米原万里

 

打ちのめされるようなすごい本 (文春文庫)

打ちのめされるようなすごい本 (文春文庫)

 


米原万里(よねはらまり)

1950年 東京出身(聖路加病院)。ロシア語会議通訳、同時通訳、エッセイスト、作家。1959~64年 プラハソ連大使館付属学校。東京外国語大学ロシア語科卒業。東京大学大学院 露語露文学専攻修士課程修了。ロシア語通訳協会の初代事務局長  95~97年会長。1989年~TBS宇宙プロジェクトの通訳を担当。1990年 エリツィン来日時の随行通訳。2006年 死去(卵巣癌)享年56歳。実妹のユリは作家井上ひさし夫人。著書に「嘘つきアーニャの真っ赤な真実ほか

 

「打ちのめされるようなすごい本」について

 本書は500ページに及ぶ書評集ですが、その中で著者の外国語学習法について、ロシア語を半年ほどで話せるようになった経緯も語られています。語学を学んでいる方には参考になるかもしれません。
 さて、紹介されている書籍については、ロシアや東欧関係のものが多いものの、それ以外もたくさん紹介されています。とにかく読書の幅が広く、文学から下ネタ系まで、すべてに興味をそそる書評が魅力です。特に文学については「文学こそ民族の精神史の記録であり、粋である」といっています。また「ガセネッタ&シモネッタ」や「パンツの面目ふんどしの沽券」などの著書も。
 ところで、本のタイトルにある「打ちのめされるようなすごい本」とはいずれか ... もったいぶるようですが、それはまた別の機会にでも紹介します。本書にはご自身の癌闘病記も記載されていて、生きていればもっと楽しい話が聞けたのにとても残念です。最初で最後の書評集になってしまいました。

 

プラハに移り住む

 9歳のときに、全く言葉の通じない学校にいきなり放り込まれた。毎日学校に通うのが苦痛を通り越して恐怖となる。親の仕事で一家がチェコプラハに移り住み、学校も親が決めたのです。ソ連大使館付属八年制普通学校。もちろん、全ての授業がロシア語で行われた。先生の話すことが何も分からない教室に一日中座り続けているのは、拷問以外の何ものでもなかった。

 

通訳としての原点

  3カ月ほど経つと、ちょっとした会話ができるようになった。「そのセーターはよく似合うね」とか「図画の教師は気取り屋ねえ」とか、たわいもないことだけど、通じた瞬間の喜びは今までの苦痛をチャラにしておつりが来るほど大きかった。この歓喜のためにこそ、私は長じて通訳という職業に就いたのではないかとさえ思う。

 

ボキャブラリーは700語で事足りる

 飛躍的にロシア語力が伸びたのは、3か月間の夏休み中、学校主催のキャンプに参加してから。宿題一切無しで徹底的に遊ぶ。毎日、ロシア語だけの暮らしの中で日常のコミュニケーションは不自由しなくなった。それもそのはず、どの言語も生活必需ボキャブラリーは700語前後で事足りるし、文型だって5つほど知っていれば十分なのだ。知らない単語があったとしても、状況に応じて代名詞を使いこなせばいい。

 

日本語の危機

 ロシア語でのコミュニケーションがようやく軌道に乗り始めた頃、母語である日本語の危機が訪れた。日本語での会話は家庭内に限られていた。そんななかで、日本語との絶縁状態にならずに済んだのは、半年遅れで船便で届いた講談社の「少年少女世界文学全集」のおかげだろう。収められていたのは「古事記」「竹取物語」「平家物語」「ああ無情」等々。ボロボロになるまで読んで読んで読み尽くした。

 

教師は文学全集

 私の話し言葉初級の教師は母親だが、書き言葉初級の教師はこの文学全集だった。日本語の教科書は、小学6年までの分を持って行ったが、あんな退屈きわまりないもの、読むはずがない。しかし、文学作品は面白いから、たとえ「読むな」と言われても読む。自然な形で、数限りない語彙、文型、文体に出会い、日本語の豊かな奥行きと広がりに絶対的な信頼を持つようになる。

 

そして帰国

 帰国して、一週間も経たないある日、父が私と妹を神田神保町のロシア語図書専門店と代々木の日ソ図書館に連れて行ってくれた。それからは、毎週土曜日、日ソ図書館で限度の四冊のロシア語図書を借り、一週間で読み終えて返し、その際に新たに四冊借りる、時々新刊本を神田で買う、という生活を続けた。これ以外には、中学2年に帰国した時点から大学に入学するまで、ロシア語の学習は一切していない。しかし、結果としてロシア語の水準を維持し向上させることが出来たと自負している。スパルタ式の逆、最も苦痛の少ないどころか、学習しているという意識すら持たない学習法で。