バカの壁 養老孟司

 

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 


イタズラ小僧と父親イスラム原理主義者と米国、若者と老人は、なぜ互いに話が通じないのか。そこに「バカの壁」が立ちはだかっているからである。いつの間にか私たちは様々な「壁」に囲まれている。それを知ることで気が楽になる。世界の見方が分かってくる。人生でぶつかる諸問題について、「共同体」「無意識」「身体」「個性」「脳」など、多様な角度から考えるためのヒントを提示する。(本書より)

 

二元論の大切さ

今さらですが、10年以上前のベストセラーを今ごろ読んでいるわけで。内容は「二元論」の大切さに集約されている。意識と無意識、脳と身体、都市と田舎などのような、相反する両方の世界があることでバランスが取れているのであって、イスラム教やユダヤ教キリスト教の宗教などのような一元論の世界にはなって欲しくはないと。男がいれば女もいる、でいいい。バカの壁というのは、ある種、一元論に起因する。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりすると。なるほど、想像力の欠如ということか。

 

なぜ、こんなに売れた?

ところで、どこかの書評で「なぜこの本がベストセラーになったのかわからない」というのがあった。それはこの本のタイトルにあるのだと思う。きっと、こんな感じか。「おい、バカの壁読んだ?」「いや、まだ読んでない」「まだ読んでないのか?」と。それで「とりあえず読んでおくか ... 」。でいつのまにか 400万部以上も売れた。というわけで出版社の、してやったり!?

なお、本書は養老さんが自ら筆をとったものではなく、対談や講演を出版社が文章化したものです。本書で印象に残ったところを以下に紹介しておきます。

 

「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」論語

あしたにみちをきかば、ゆうべにしすともかなり。道を聞くというのは、学問をして何かを知るということ。朝、学問をして知ったら、夜、死んでもいいなんて、無茶苦茶な話だ、と思われるでしょう。

知るということの意味。たとえば、「知るということは根本的にはガンの告知だ」ということ。学生には、「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう」と話してみる。その桜が違って見えた段階で、去年までどういう思いであの桜を見ていたか。多分、思い出せない。では、桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るというのはそういうこと。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。

ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。去年まで自分が桜を見てどう思っていたか。それが思い出せない。つまり、死んで生まれ変わっている。そういうことを常に繰り返していれば、ある朝、もう一度、自分ががらっと変わって、世界が違って見えて、夕方に突然死んだとしても、何を今さら驚くことがあるか。絶えず過去の自分というのは消されて、新しいものが生まれてきている。

そもそも人間は常に変わりつづけているわけですが、何かを知って生まれ変わり続けている、そういう経験を何度もした人間にとっては、死ぬということは特別な意味を持つものではない。現に、過去の自分は死んでいるのだから。

 

ビートたけしのバイク事故を思い出した

1994年に起こしたバイク事故は壮絶なものだった。その後、たけしさんは芸能界復帰を成し遂げて、それどころか映画監督として以前以上に活躍の場を広げた。しかし、事故後の後遺症は身体的にも精神的にも完全に消え去ってはいなかった。「まわりはさ、もう治ったと思ってくれてるけど、俺の中ではまだ治ってないんだ。あれでもう、北野武は終わったって、俺自身、思ったもん」。後日、本人いわく自殺願望があったのかもしれないと。

「事故の前は、花屋なんか気にもかけず通り過ぎていたのに、今は『この花きれいだな』って立ち止まってじいっと見ちゃうときがある」。また「台所にぶら下がってる包丁をずっと持って、考えたときもあったよ。でも、勇気がなかったから」とも。きっと、たけしさんにも、「あそこで咲いている桜」が違って見えたに違いない。