きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『心臓に毛が生えている理由』 米原万里

 

心臓に毛が生えている理由 (角川文庫)

心臓に毛が生えている理由 (角川文庫)

 

 

プラハソビエト学校で少女時代をすごし、ロシア語同時通訳者として活躍した著者が鋭い言語感覚、深い洞察力で人間の豊かさをユーモアたっぷりに綴る、最後のエッセイ集。

 

強制収容所生活

 黄色い薔薇の花束を差し出すと、ガリーナさんは、溜息とも感嘆とも取れる声を漏らし、空色の瞳を薔薇の花びらに注いだまま立ちすくんだ。
 スターリンによる粛清が最高潮に達した1937年、彼女はまさに花盛りの20歳の時に、スパイ容疑で逮捕銃殺された男の妻であるという。ただそれだけの理由で、ラーゲリ強制収容所)に五年間も閉じこめられている。夫の容疑が事実無根だったと国が認めたのは銃殺後30年も経ってから。
 ラーゲリ生活で最も辛かったのは、一日一二時間の苛酷な重労働でも、冬季の耐え難い寒さでも、蚤シラミの大群に悩まされ続けた不潔不衛生でも、来る日も来る日もひからびた黒パン一枚と水っぽいスープという貧弱な食事のために四六時中ひもじかったことでもない、というのだ。
 「それは恐ろしく辛かったけれど、そんな中でも人間には何とか生きよう、生き延びようとする力が湧き出てくるものなんです」。力の湧き出る根元を絶ち、辛くも残った気力を無惨にそぎ落として行ったのは、ラジオ、新聞はおろか肉親との文通にいたるまで外部からの情報を完全に遮断されていたこと、そして何よりも本と筆記具の所持を禁じられていたことだった。

 

卓越なる解決法

 そういう状態に置かれ続けた女たちが、ある晩、卓抜なる解決法を見いだす。日中の労働で疲労困憊した肉体を固い寝台に横たえる真っ暗なバラックの中で、俳優だった女囚が『オセロ』の舞台を独りで全役をこなしながら再現するのである。一人として寝入る女はいなかった。
 それからは毎晩、それぞれが記憶の中にあった本を声に出して、ああだこうだと補い合いながら楽しむようになる。かつて読んだ小説やエッセイや詩を次々に「読破」していく。そのようにしてトルストイの『戦争と平和』やメルヴィルの『白鯨』のような大長編までをもほとんど字句通りに再現し得たと言う。

 

生命が蘇る毎夜の朗読会

 「あんな悲惨な境遇にいた私たちが、アンナ・カレーニナに同情して涙を流し、イリヤ・イリフとエウゲーニー・ペトロフの『十二の椅子』に抱腹絶倒していたなんて、信じられないでしょうね」。肩をすくめて、ガリーナさんは静かに笑う。
 夜毎の朗読会は、ただでさえ少ない睡眠時間を大幅に浸食したはずなのに、不思議なことが起こった。女たちに肌の艶や目の輝きが戻ってくる。娑婆(しゃば)にいた頃、心に刻んだ本が彼女らに生命力を吹き込んだのだ。 (文中より)