きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『菜の花の沖』(一) 司馬遼太郎

 

悲惨な境遇から海の男として身を起し
ついには偉大な商品に成長していく

 

菜の花の沖(一) (文春文庫)

菜の花の沖(一) (文春文庫)

 

 

あらすじ

 江戸後期、淡路島の貧家に生まれた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起し、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく。
 沸騰する商品経済を内包しつつも頑なに国をとざし続ける日本と、南下する大国ロシアとのはざまで数奇な運命を生き抜いた快男児の生涯を雄大な構想で描く。全六巻。作者の回忌の名「菜の花忌」は、この小説に由来する。

 

どうして司馬遼太郎は人気があるんだろう

 その一つは福田定一(本名)のネアカな性格に起因してるんじゃないかな。生い立ちは、1923年(大正12年大阪市浪速区で薬局屋の次男として生まれる。
 性格は明るかったが学校嫌いで悪童でもあった。阿倍野のデパートにある書店で吉川英治宮本武蔵全集を立ち読みで読破してしまった。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから... 」と言ったそうである。大阪外国語大学入学の際には歓迎会でガマの油売りをやったりと、破天荒な性格の片鱗がうかがえる。

 

生徒のあいだでも人気者

 しかし読書は依然として好み、ロシア文学や司馬寮の『史記』を愛読。当時の司馬は色白でふっくらした童顔だったが、旧制高校には下駄履きで登下校し、教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒の間でも人気者でいつも人が集まる中心にいた、とある。
 というわけで、司馬遼太郎の小説を読んでいても暗さは感じないし、ユーモアさえ感じる。この『菜の花の沖』も主人公の高田嘉兵衛が明るく生き生きと描かれおり、読んでいて気持ちを前向きにさせてくれるのです。

 

余談話し

 それと司馬ファンには周知の「余談話し」が多いのが特徴だ。「余談ですが... 」と脇道にそれて話をはじめ、そしてまた本筋へと戻る。つまり「エッセイ風な本文」、次に「解説風な余談話し」、そしてまた「エッセイ風な本文」という展開で進行していくので分かりやすいし、知識の豊富さもあって引き込まれてしまう。余談ですけど、フィクションをあまり読まない立花隆が、司馬ファンというのも頷けます。

 

くだらない

 江戸は関東という商品生産の未成熟地に人工的につくられた都市でした。人口が百万を超え、世界でも数少ない巨大人口をかかえるまちになったが、江戸という都市の致命的な欠点は、その後背地である関東の商品生産力が弱いこと。これに対し、上方や瀬戸内海沿岸の商品生産力が高度に発達していたため、江戸としてはあらゆる高価な商品は上方から仰がねばならなかった。しかも最初は陸路を人馬でごく少量運ばれていたこともあって、上方からくだってくるものは貴重とされたのです。
「くだり物」
というのは貴重なもの、上等なものという語感で、明治後の舶来品というイメージに相応していた。これに対し関東の地のものは「くだらない」としていやしまれた。これらの「くだりもの」が、やがて菱垣船の発達とともに大いに上方から運ばれることになる。

 

灘の酒

伝兵衛がいった。「嘉兵衛のやつ、こんど、樽に乗るぜ」
「樽に」
嘉兵衛さんが樽に、と妻のおふさはおどろいた。
「そうじゃない、樽船(樽廻船)だ。おふささん、もっとよろこべ」
「樽ということに?」
おふさには、よくわからない

 樽廻船とは「灘の酒」を専門に積み、西宮を出て、紀州まわりで熊野灘をゆき、やがて太平洋の波を突っきって江戸までゆく船をそう呼ぶ。船乗りにとってほまれの航路だった。
 灘の酒だけは、独立して船団を組織した樽廻船が用意された。樽廻船の成立は、享保15年(1730年)で、この少し前に、酒を入れる大きな樽が発明されたということだった。樽は中国にも朝鮮にもない。日本でも古代にはなかった。桶もなかった。江戸期に桶は大いに発達しました。「酒、す、醤油、油を桶に入れれば遠くへ運べるではないか」と考えた者があり、桶に打ちこみのふたをした。それが樽でした。これでもって灘の酒を江戸へ大量に運ぶことができるようになった。樽の出現が、江戸期の商品経済を大きく変えたのです。余談ですけど、江戸初期は、江戸では醤油すらつくられていなかったのです。