『旧約聖書』 罪と罰

 

罪と罰

 いきなりですが聖書は、新約聖書旧約聖書のどちらが面白いのか? どちらも読むのに時間が相当かかるし、簡単ではありません。結局はどちらも必要なんでしょうけども、流れを掴んでポイントを押さえる程度に留めておきます。まずは重いテーマですが、人類誕生からの永遠の課題である「罪と罰」について、備忘録としての記述です。

 

創世記のヨセフ物語

 ヨセフは父ヤコブが年老いてからの子であったために、どの息子よりもかわいがられ、そのことを兄たちは妬んでいた。さらに、兄たちが結わいた麦束が自分の束にひれ伏す夢を見たことをヨセフが兄たちに語ったとき、その妬みに憎しみが加わっていった。あるとき、羊の群れの番をしていた兄たちは一緒にいたヨセフを穴に突き落とそうとした。偶然そこを通りかかった商人に銀20枚で売られたヨセフは、エジプトで奴隷として売り払われてしまった。
 エジプトの侍従長ポティファルに買い取られたヨセフは、ポティファルの妻に不義を偽証され投獄されてしまう。しかし、獄中で給仕役の長と料理役の長の夢を解き明かして名を上げ、今度はファラオの夢解きをすることになった。ファラオの夢の内容を聞いたヨセフは7年間の豊作のあとに7年間の飢饉が来ることを予告し、豊作の間に食糧を蓄えるようにと進言する。これがきっかけとなり、ヨセフはファラオに取り立てられ、エジプト全国を支配する為政者となった。
 7年後、ヨセフの予告通りエジプトを飢饉が襲ったが、幸いにもヨセフが蓄えさせた食糧のおかげで難を逃れることができた。しかし、飢饉は父ヤコブや兄たちが住むカナン地方にまで及んでいた。兄たちは食糧を手に入れるためにエジプトに行くが、兄弟は穀物を管理する者がヨセフであるとは気づかず、その人物の前にひれ伏した。
 ヨセフは自分と同じ母をもつ弟ベニヤミンを連れて来ることを条件に穀物を売り渡した。自分を売った兄弟たちへの憎しみをもちつつも、肉親への思いを捨てることもできず、受け取った穀物の代金を兄弟たちの袋に忍ばせた。
 ベニヤミンを連れて再度エジプトに来た兄弟たちを、ヨセフは食事に招いて歓待した。ベニヤミンを見たとき、ヨセフは胸が熱くなり、涙がこぼれそうになって席を立ってしまう。食事が終わり、食糧と穀物の代金を兄弟めいめいの袋に入れて帰国を促したヨセフだったが、ベニヤミンだけは自分のもとに置こうとした。
 ヨセフは兄弟たちに「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」といった。兄弟たちはヨセフの仕返しを恐れ、ヨセフの前にひれ伏したが、ヨセフは「あなたたちの悪を神が善に変えた」と述べて、赦(ゆる)しを明確に宣言した。
 物語の端緒となったヨセフの夢のように、兄たちはヨセフの前にひれ伏すが、最後の「ひれ伏す」は最初とはまったく違った意味をもっている。変えたのは神なのであろう。

 

 罪はブーメランのように

 私たちは一般的に「罪」と「罰」を分けて考えます。罪とは自分が犯した悪い行為のことであり、罰とは他人が下す罪への懲らしめのことだと考えるから、両者を明確に区別する。しかし、ヘブライ語の「アーボン」は「罪から罰に至るプロセス全体」をあらわし、文脈に応じて「罪」「有罪の状態」「罰」のいずれもの意味にもなる。ブーメランが投げた人のもとに戻ってくるように、罪は罰となって罪人のところに戻ってくる。 
 もちろん、全能の神は罪から罰への流れを食い止めることができるはずです。食い止めることなく、流れに任せるのならば、罪は罰となって罪人を襲うことになる。その意味では、神が罰を下すともいえる。食い止められるのにそうならないのは、そこに神の意志が働いている証拠といえるのでしょう。罰は反省を求める神からのサインなのです。

 

遠藤周作の「沈黙」は神の下した罰なのか

その海の波はモキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ、彼達の死のあとにも同じ表情をしてあそこに拡がっている。
そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。
最大の罪は神にたいする絶望だということはもちろん知っていましたが、なぜ、神は黙っておられるのか私にはわからなかった。

全能の神は罪から罰への流れを変えられたが、変えることなく、罪は罰となって罪人を襲った。「沈黙」は神が下した罰だったのでしょうか。

 

(図解雑学旧約聖書引用)

 

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

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