『いしぶみ 』 広島ニ中一年生 全滅の記録

 

 

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The City of Hiroshima

 

碑に刻まれた旧制・広島二中の一年生321人
幼くしてこの世を去った彼らが
最期に残した言葉とは、何だったのだろう

 

彼らの未来を一瞬にして奪った原子爆弾

 昭和20年8月6日は、朝から暑い夏の日でした。この日、広島二中の一年生は、建物解体作業のため、朝早くから本川の土手に集まっていました。端から、1、2、3、4、... と点呼を終えたそのときでした。500メートル先の上空で爆発した原子爆弾が彼らの未来を一瞬にして奪ったのです。少年たちは元気だった最後の瞬間、落ちてくる原子爆弾を見つめていました。あの日、少年たちに何が起こったのでしょうか ...

 

広島には空襲がない

 広島が空襲されないのは、明治時代からたくさん広島の人が、ハワイやカリフォルニアなど、アメリカに移民しているせいだ、という人がいました。また、そのうわさを本気で信じている人がいました。
 広島には空襲がないというので、広島県立広島第二中学校には、東京や大阪から転校してくる生徒もたくさんいました。一学級の大橋正和くんは、大阪から7月19日に転校してきました。またこの年の4月、広島二中の一年生は、4人にひとりというむずかしい試験を受けて、広島県内の各地から入学してきました。

 

最後の別れに

 チベッツ機長が母の名をつけたアメリカのB29爆撃機エノラ=ゲイ号は、人類の上にはじめて落とす原子爆弾をつんで、広島上空への道を飛んでいました。
 日本の、広島のお母さんたちは、これが最後の別れになるとも知らずに、わが子を送りだしておりました。東京から疎開してきた舩倉浩太郎くんは、午前7時に家を出かけました。六学級の中川雅司くんは、ぐずぐずしていて出かけようとしませんでした。心配したお母さんにせかされて、ようやく家を出かけたのですが、すぐに引き返してきて、水道の水をおいしそうに飲むと、とんで出ました。これがお母さんが、生きている中川くんを見た最後でした。

 

空地をつくるために集まった生徒たち

 4人の先生と321人の一年生が集まる場所は、広島市の中心、中島新町の本川土手でした。いまの平和公園広島市公会堂の前の道路です。作業というのは、家をこわしたあとのあとかたずけでした。爆撃機が爆弾を落とすという想定をたてて、火事が燃えひろがるのを防ぐのと、人が逃げるところをつくろうと、市内のところどころに空地をつくる計画でした。暑くならないうちに作業にかかるというので、集合時刻は8時10分ごろでした。

 

爆発の瞬間

 雲ひとつない青い空に、キラリとひかるB29爆撃機を見つけた生徒たちは、口々に「敵機、敵機」と、さけびました。警報も出ず、たった3機なら、またいつものように広島のようすを見にきた偵察飛行だぐらいに、みんな考えていました。
 先頭のB29から、直径70cm、長さ3mの原子爆弾を投下したのが、午前8時15分17秒、つづいてうしろの飛行機が、爆発をたしかめるために無線機にパラシュートをつけて落としたのです。321人の一年生は、元気だった最後の43秒間を、しっかりと、落ちてくる原子爆弾を見つめて記憶していたのです。
 一瞬、直径が100m、表面の温度が9000度もある太陽のような火の球ができ、そこからオレンジ色の閃光と熱線、そのあとを強い爆風が追いかけました。間近にいた広島二中の一年生は、閃光に目を焼かれ、服は燃えだし、そして小さなからだは地面にたたきつけられ、吹きとばされたのでした。

 

最期だと思って君が代をうたう

 ご遺族の手紙などから、三分の一の生徒が、原子爆弾が爆発した一瞬に亡くなったと思われます。
 三戸一則くん。「川ではおおぜいと一緒に流れてきた木につかまって浮いていました。岸から火が吹きつけるたびに、水の中にもぐった。もう最期だと思って、”君が代”をうたいました。
 大門賢治くんは、川下に流され、そのうちに力つきて沈み、遺体は1キロ下流の住吉橋のところにあがりました。遺体をたずねあてたお母さんが、途中いろいろ友達に話を聞いて想像されたわが子の最期のもようです。「賢治はつかまっている木が燃えだしたので、力つきて沈んだようです。”海ゆかば”を合唱したあと、天皇陛下万歳を唱えたと申します。」

 

家に帰ろうよ

 一学級の西村正照くん。「頭をならべて、中学生が身動きもしないでよこたわっていました。正ちゃん、正ちゃん、と大声で呼び、ひとりひとりのぞきこんで見つけました。

前身が焼けていました。
お母さんが来たのよ。わかる ...  ウン
お兄ちゃんもいるのよ ...  ウン
家に帰ろうよ ...  ウン、と口の中で返事をしました。
兄の背にのせ、うしろからからだをおさえて家に帰りました。
材木をはこんでいる作業の夢でも見ているのでしょうか、ワッショイワッショイ、とつぶやき、翌朝、口の中でかすかに
海ゆかば、水づかばね ...  
と、つぶやきながら、12歳の生命は散りました。
混乱のさなかで、わが家の庭でだびにふしました。

 

あくる朝

 広島壊滅の一夜があけました。大本営は、7日になってはじめて新型爆弾の攻撃で、広島市が「かなりの被害」をうけたと発表し、一方、アメリカのトルーマン大統領は、これが原子爆弾であることを世界に発表したのです。

 

お母ちゃんに会えたからいいよ

 二学級の穴光隆司くん。「当時は一般にけが人に水をやってはいけない。といっておりましたが、あれだけの重傷ではとても助からないと思い、水はほしがるだけやりました。8日夜、広島県東部の福山市が大空襲をうけているさなか、燈火管制の燈のもとで、お母さん、お母さん、とさけびながら、とうとう13歳の若さで死にました。
 五学級の山下明治くんは、3日目の9日明け方、お母さんにみとられて亡くなりました。「明治は、亡くなるとき、弟、妹のひとりひとりに別れの言葉をいい、わたしが鹿児島のおじさんに、なんといいましょうか、と申しましたら、りっぱに、と申しました。死期がせまり、わたしも思わず、お母ちゃんもいっしょに行くからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました。そのときは無我夢中でしたが、あとから考えますと、なんとまあ、意味の深い言葉でしょうか。お母ちゃんに会えたからいいよ、とも申しました。」

 

腹の底より泣き叫びたき

 本川土手に整列した広島二中一年生、321人と4人の先生は、こうしてひとり残らず全滅しました。平和公園の本川土手にある、碑のうらには、いつもかわらぬ本川の流れを見つめて、全滅した広島二中の子どもたちの名前がきざまれています。

烈し日の真上にありて八月は
腹の底より泣き叫びたき (山下明治くんのお母さんの歌)

 

 

いしぶみ―広島二中一年生全滅の記録 (ポプラポケット文庫)

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