きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『蟹工船』 小林多喜二

 

あらすじ

  海軍の保護のもと、オホーツク海のロシア領海で密漁する蟹工船は、乗員たちに過酷な労働を強いて暴利を貪っていた。” 国策 ” の名によってすべての人権を剥奪された未組織労働者のストライキに踏み切るが、船を所有する会社は海軍の力を借りてこれを鎮圧。最初のストライキは失敗に終わるも、乗員たちは次の計画を練るのだった。帝国主義日本の一断面を抉る『蟹工船』。29歳の若さで虐殺された著者の、日本プロレタリア文学を代表する名作です。

 

資本主義を批判

 プロレタリア文学とは、1917年のロシア革命の影響を受けて生まれた社会主義の文学。資本主義社会を批判し、労働者や農民の解放をめざした。昭和初期に絶頂を迎えるも、激しい弾圧を受け崩壊する。
 資本家は利益を得るため、労働者を酷使し、反抗しようとすると政府と結託して弾圧する。こうした資本家の搾取と労働者の闘争を、志賀直哉を見習った徹底的なリアリズムで描写したことで注目を集める作品となった。同作の発表で多喜二はプロレタリア文学の旗手と目されるようになる。
 若い世代における、非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、2008年には『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーになった。

 

国家公認のブラック企業

 『蟹工船』は北海道のオホーツク海上に浮かぶ無法地帯でした。あくまでも「工船」であって航船ではないため、「航海法」が及ばない。そして漁獲から加工までをすべて海上で行っていたので、当時の労働基準法にあたる「工場法」の適用外でした。
 一日20時間労働はあたりまえ。風呂は月2回のみ。『蟹工船』は、おもに日本軍向けの缶詰を製造していたので脱法行為が許された「国家公認のブラック企業」だったのです。
 多喜二は蟹工船とその漁をめぐる事件につき、綿密な調査を行っていた。蟹工船の実地調査を行い、また漁夫とも直接会って詳しい実態の聞き取りも行っています。

 

銀行に勤めるかたわら『蟹工船』を発表

 ところで多喜二は、学校を卒業して、北海道拓殖銀行小樽支店に就職します。『蟹工船」の作者が、銀行員だったというのは皮肉です。銀行や金融は資本主義の最前線であり、資本主義精神そのものです。銀行に勤めるかたわら、1929年(昭和4年)夏に「戦旗」という雑誌に『蟹工船』を発表します。この「戦旗」とはプロレタリア文化運動組織の機関紙です。同年秋に、勤務する拓殖銀行を解雇されました。1931年には共産党員になり、治安維持法等に反する非合法の生活に入ります。共産党員となることで、多喜二の存在自体が、当時の日本の法律に抵触するようになってしまったのでした。
 

 

拷問による死

 著者の小林多喜二は、共産主義者を取り締まる特高警察による拷問が原因で亡くなっています。共産党員としての生活を送っていた1933年2月20日、特高警察のスパイの計略により、多喜二は逮捕されてしまいます。そして取り調べの際、寒中で裸にされ、特高からの暴行を受けたことにより、命をおとします。
 なぜ、逮捕や拷問に至ったのか。多喜二が共産党員であり、スパイ容疑をかけられ、一説には『蟹工船』の前年に発表した小説において「特高警察の拷問シーン」を描写したことにより目をつけられたとも言われています。昭和8年の事件であり、享年29歳でした。

 

 

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Wikipedia

小林多喜二(こばやしたきじ)
1903年明治36年秋田県大館市出身。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)。卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務。文豪への憧れを抱き、特に志賀直哉に傾倒してゆく。

 

蟹工船・党生活者』
『マンガ蟹工船
『母 小林多喜二の母の物語』三浦綾子

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

 
マンガ蟹工船

マンガ蟹工船

 
母 (角川文庫)

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