『塩のはなし』 忠臣蔵は塩が原因だった

 

塩の発見

 塩は、空気や水とともに人間が生きていくために欠かせない大切なものです。では、わたしたち人類の祖先は、いつごろから塩を使っていたのでしょうか。日本では、縄文時代の終わりから弥生時代にかけてのころではないかといわれています。いまからおよそ2000年前のことです。数万年前の無土器時代とよばれるころ、日本列島にはすでに人が住んでいました。塩はもちろん必要でしたが、わざわざ塩として食べる必要があまりなかったのです。
 縄文時代の人々は、狩猟・採集生活をおくっていたので、動物の肉や内臓、骨の髄などの中に塩分がふくまれていたのです。自然に塩分を補給することができたのです。
 ところが、縄文時代の終わりごろから、食べ物から塩分をとるだけでは足りなくなってきました。それは、ちょうどこのころ、米づくりが始められたことが大きな原因です。人々の暮らしが、農耕・定住生活へと移り変わると、食生活も大きく変わっていきました。

 

塩は人間にとって最も重要なもの

 塩は、きまった濃さで血液などに溶け込むことで、からだの中の水分の量を調整する働きをしています。人間のからだにとって水はとても重要です。塩分が不足すると、元気がなくなったり、健康に保つことができなくなってしまいます。塩はあまり取りすぎると、からだのバランスをくずし、病気の原因にもなりますが、健康な人なら、少しぐらい取りすぎても、おしっこや汗といっしょに、排出されてしまいます。

 

ローマ帝国時代の元祖サラリーマン

 紀元前3500年ごろ、ヨーロッパや中国では、すでにすぐれた農耕技術を持った文明がありました。中でもメソポタミア、インダス、エジプト、中国は古代の四大文明として有名です。この四大文明すべてが大きな河の近くの、水に恵まれたところに発達し、いずれもすぐ近くに大きな塩の生産地があったのです。
 古代エジプトでは、塩は保存食などに広く使われていましたが、ミイラをつくるときにも利用されました。ミイラにする死体は、約70日間濃い塩水につけたのち、薬で処理したといいます。塩の持つ防腐作用を利用したものです。
 ローマ帝国時代には、兵士の給料は塩でも支払われていました。現代の給料をもらう人をサラリーマンといいますが、塩はラテン語のサラリウム、つまり兵士の塩という意味の言葉からきているのです。

 

忠臣蔵は塩が原因だった !?

 東京、品川の近くにある泉岳寺には、忠臣蔵赤穂浪士たちのお墓があります。なぜ塩のはなしに、忠臣蔵が出てくるかというと、実はこの事件の原因が、塩づくりと深い関係があるからです。
 江戸城内、松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭の領地だった赤穂は、瀬戸内海に面し、むかしから塩づくりのさかんなところでした。塩の需要が多くなるにともない、赤穂では、1645年に広い干潟を整備して堤防を築き、「入浜式塩田」と呼ばれる大規模な塩田をひらきました。赤穂の塩は品質も良く、江戸や大坂を中心にたくさん売られて有名でした。
 一方、吉良家の領地の三河でも、塩づくりがおこなわれていました。吉良家は、赤穂の進んだ製塩技術を参考にしようと、浅野家に技術を教えてくれるよう頼みましたが、浅野家は塩づくりの技術は秘伝であるとして断りました。また吉良家は、ひそかに赤穂の技術を盗むため、間者(スパイ)を送りこみましたが、とらえられて牢屋につながれたともいいます。このように浅野家と吉良家は、塩づくりの技術をめぐって、以前から仲が悪く、このことが忠臣蔵の隠れた原因となったのです。

 

塩がないとロケットも飛ばせない

 日本の塩づくりは大きく進歩しました。現在では、電気の力と科学の進歩が生み出した「イオン交換膜法」が主流です。昭和47年から、国内のすべての塩がイオン交換膜と真空式蒸発装置を使ってつくられるようになりました。
 現在、日本では「食べる塩」は、全消費量の20%たらずにすぎません。あとの80%は「食べない塩」として、ソーダ工業などに使われ、わたしたちの暮らしをささえるために活躍しています。ガラス製品や漂白剤、接着剤、アルミホイル、合成繊維、飼料、医薬品など広範囲に使われ、またロケット燃料やコンピュータなど、未来をささえる最新技術にも利用されるようになりました。

 

 

塩のはなし (人間の知恵)

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