「サーカス」 中原中也 幾時代がありまして 

 

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

 

 

 

中原中也(なかはらちゅうや)

1907年(明治40年)山口生まれ。代々開業医である名家の長男として生まれる。跡取りとして医者になることを期待され、小学校時代は成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳のとき弟が病死したことで文学に目覚めた。アテネ・フランセでフランス語を学ぶ。東京外国語大学卒業。中也は30歳の若さで死去、生涯で350編以上の詩を残した。

  

「サーカス」 

幾時代がありまして
 茶色い戦争がありました

幾時代がありまして
 冬は疾風(しっぷう)吹きました

幾時代がありまして
 今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)
 今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
 そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
 汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯(ひ)
 安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯(いわし)
 咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇
 夜は劫々(こうこう)と更けまする
 落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルヂアと
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 

 

 遠さの感覚

 この「幾時代」というのは、歴史上の時代を言っているのではなく、それを繰り返すことによって、遠い過去を暗示している。この詩はこの後でサーカス小屋の中の風景を歌い、最後は「屋外」の暗い夜の時間が「劫々」と無限の未来へ向けて流れていく詩句で締めくくられている。サーカス小屋の賑わいは、そのような無限の時間の中の「現在」という一点、一風景に過ぎない。
(本書解説)

 

遠い過去の悲しみ

 非日常のかそかなる光景を謳い上げることで、暗い時代に生まれた自分らを曝け出そうという試みか。幾時代というのは、現実の人類の歴史だが、詩人はその現実から離れ、飛翔する。そうすることで、あの悲惨な戦争もまるでセピア色に変色した過去の思い出の写真のように見える。
 いくらでも辛い、冬のような時代があった。さらにその冬のさなかに疾風が吹いた。いまじっとそんな過去を回想している詩人は、一杯ひっかけて盛り上がっている。一杯やっているのは屋外のどこかできっと一人なのでしょう。
 突如、サーカス小屋が目の前に現れ、ブランコが揺れはじめます。そうするとあの手に汗握るスリル満点のショーが、途端にその本質的な安っぽさを露呈する。
 その擬音が「ゆあーん ゆよーん」。
 薄汚れたテントの安っぽい木綿が気にかかる。真剣に演ずる人間を照らし、輝かせるための照明の強い光は、かえって安っぽさを見せつけ、さらに華麗に笑顔で軽々とショーを見せている演者が実は必死になっている姿を晒してしまっている。さらにそれを夢中で見ている観客は、人間の知性を失った状態であり、緊張して唾を飲み込む様は堅苦しい。
 一方、テントの中は熱気あふれる夢のような空間であっても、外の現実は暗く、また観客たちが夢中で過ごすほどに、ますます暗くなっていく。堕ち行く人間、暗くなる時代。その中で一時の過去の美しい思い出に浸る人々の憐れさ。そんな悲しみを歌った。
(Yahoo! 知恵袋ベストアンサーより解釈の一例)

 「幾時代かがありまして」という句を繰り返すことで、遠い過去を指し、また「冬」に吹く「疾風」とで、作者のなかにある苦難や失意を表すものなのか。そして突如現れるサーカスのブランコは「見えるともないブランコ」であり、そのブランコは実際には存在しないのかもしれない。心の中に映る自分の姿。また歓声は「牡蠣殻」が鳴るようだともいえる。擬音はブランコの揺れる音か。このリフレインによってこの一遍の詩が成り立っている。