『役に立たない読書』 ベストセラーは読むべきか 林望

 

林望の仕事や生活に
役立たなくてもいい
書物に触れる真の喜びとは

 

 

読書に貴賎なし

 最近の人は読書に実用的な価値ばかりを求め、書物をゆっくり味わうことを忘れてはいないだろうか。
 本書は、そのような傾向に異を唱えるリンボウ先生林望)が「読書に貴賎なし」と、読書を自在に楽しむ方法を惜しみなく披露。古典作品の魅力と読み方も書誌学の専門家としての知識を交えながらわかりやすく解説する。

 

読めば教養人になれるという錯覚

 あれも読んだ、これも読んだと多くの本を読んだことを喧伝(けんでん)するのはインテリジェンスを涵養(かんよう)するのではなく、ペダントリー(pedantry:学問や知識をひけらかすこと)への道を突っ走っているように思う。
 まず大切なのは、「読んだ本の内容について考える」ことです。読書がその人の叡智の形成に作用を及ぼすとしたら、それはたくさん読んだからではなく、本にまつわる「考える営為」のゆえである。だから大切なのは、考え考え読んでいくことなのです。

 

ベストセラーは読むべきか

 現代のベストセラーは、テレビや雑誌などのメディア・ジャーナリズムによって「作られる」側面が多分にあります。芥川賞だの、直木賞だの、あるいは本屋大賞だのと陸続として「つくりだされる」ベストセラーの数々。
 人生は短いのだから、できるだけそういう年月の淘汰を受けた本を読みたい。一時の流行書と、千年読み続けられた書物のどちらが大切か、それは古典です。つまり、ベストセラーは読まなくていいが、真の古典は読んだ方がいい。

 

芥川賞直木賞はひとつのファッション

 私は、ベストセラーを読まないのと同じ理由で、芥川賞直木賞作品を読みません。書物の価値は、畢竟(ひつきょう)「時間」が決めてゆくものです。現在の芥川賞直木賞作品というのは、私から見れば一つのファッションに過ぎません。2015年に大いに話題になった又吉直樹さんの小説もちょっとだけ見てみましたが、すぐに読むのをやめてしまいました。私には読む必要のない本だと思ったからです。
 私にとって読書は、広い意味での娯楽です。読んでいて楽しくなければ意味がないのです。そして楽しくなければ、なんの役に立たなくたっていいと思っています。

 

朗読のススメ

 朗読の際に大事なのは、まず朗読者自身が書物に「面白い!」という感情をもっていること。あるいは、この本は心底すばらしいと感動していることです。
 私も以前、ラジオで朗読番組をやっていました。思い出深いのが夏目漱石の『吾輩は猫である』です。収録スタッフたちは、ひたすら朗読を聴きながら笑い転げていました。そのくらい可笑しいのですが、しかしどこかヒューマニティの根幹に訴えかけてくる、これが漱石文学の力なのだとあらためて感じ入りました。『夢十夜』などは、読むほどに言葉が立ち上がって情景が活き活きと見えてくる。

 

一冊から派生し発展していく

 たとえば『源氏物語』を読むと、典拠として『史記』や『和漢朗詠集』などが出てきたりしますから、ちょっと読んでみようか、というような思いも湧いてくるかもしれません。
 近現代の文学でも同様で、夏目漱石をしるとそこを手がかりにイギリス文学へ行ってみたり、漱石に影響を与えたラファエル前派(19世紀中頃にイギリスで生じた芸術家集団)やターナーなどイギリス美術の図録などを渉猟(しょうりょう)してみたりと、さらには漱石の俳句から、子規へと読書が及ぶかもしれないし、漱石の伝記や、そのロンドン時代を考証する評伝書をも読みすすめるかもしれません。逆にまた、漱石と並び称される森鴎外への興味が掻き立てられることだって、あるでしょう。そのように読書は、一冊から派生し発展して、どんどんその世界が広がっていきます。

 

古典で知る読書の醍醐味

 もっとも「役に立たない読書」というべきものは、古典文学の読書かも知れません。しかし、もっとも純粋な意味での「読む楽しみ」ということで申せば、もっとも本格的な読書の対象が、古典なのです。
 なにしろ何百年も、ものによっては一千年以上も読み継がれてきた古典文学ほど面白いものはありません。実用的な役には立たないけれど、楽しみという意味では、もっとも本格的で、しかも人生にとって有益だとも言えるかと思います。 

 

平家物語』の凄み

 『源氏物語』の対極に位置するのが、鎌倉時代に成立した『平家物語』です。描かれているのは血なまぐさいことこのうえない、男の世界であり、政治の世界であり、覇権簒奪の世界です。
 平安時代末期、地方豪族たちは私腹を肥やし、武力を蓄え、中央貴族よりも力を持つようになります。もはや平安朝的な呪術や文学の力だけでは、とうてい国を統治して平和を維持するなど、できない時代へと突入しました。
 平家も金と武力で天皇の外威となり、中央政界に覇を唱えたわけですから、平家の一族をめぐる物語が『源氏物語』的に平和な世界ではありえない。すなわち、血みどろの権力闘争を描かなければ、あの時代を描くことはできなかった。
 だから、『源氏物語』の死がほとんど病死や自然死であったのに対して、『平家物語』では多くの人が殺し、殺されます。親子や夫婦や恋人同士が、愛しあいながら引き裂かれ、涙にくれて別れていく、これまた紛れもないヒューマニティの物語だと思います。
 そうして、平家の政権が崩壊し、壇ノ浦で一族が滅亡した後にも、非情酷薄なる源頼朝は、平氏の血統は一人も残すなという命令を下し、子どもであれ、出家であれ、草の根を分けても探し出して、情け容赦なく首を斬る。
 ただし、女は殺さないのが、不文律となっていました。すなわち男の世界は、やらなければやられるという、徹底的に非情な世界ですが、それゆえに観念的な善悪というところを超越して、不条理に満ちた血なまぐさい現実が描かれる。勧善微悪ではないからこそ、リアルで胸に迫ってくるのです。とりわけ、平宗盛と二番目の息子、能宗(よしむね)の別れのシーンは涙なくしては読めません。

 

自由な読書とは

 ここで、読書には意味がないのか、といえばそれは違う。読書には大きな意味がある。人生はできるだけ楽しく、豊かに送りたい。その豊かに楽しく生きることの秘鍵が、すなわち自由な読書ということなのだ、強制された読書でなくて。自由に読み、ゆっくり味わい、そして深く考える。ただそれだけのことです。