『江副浩正』 リクルート運命の岐路

 

なぜ彼にだけ見えたのか
なぜ彼は裁かれたのか

 

欲の連鎖が悲劇を生む

 まるでドラマでもみているようだ。500ページにもおよぶ本書は、いっきに読みすすめられた。Amazon をはじめ、多くの書評には彼への称賛の言葉が並ぶ。稀代の経営者、偉大な起業家と。しかし、ひとつの成功体験がつぎの欲を生み、学生側に立つんだ、社会のためになるんだ、という大義のかげに隠れた欲の連鎖が、この悲劇を生んだともいえる。ボタンの掛け違いから生じたこの事件も、20数年ぶりに会う野村證券リクルート担当だった廣田光次のひと言が、涙を誘う。

 

江副浩正

江副浩正

 

 

 

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江副浩正(えぞえひろまさ)
 1936年今治市生まれ。甲南中学校・甲南高等学校を経て、東京大学教育学部教育心理学科卒業。リクルートを創業し、大企業に成長させた。1988年(昭和63年)1月に会長に就任、同年6月に「リクルート事件」報道が始まり、1989年(平成元年)2月に逮捕。リクルート裁判は14年間、開廷数322回に及び、日本の裁判史上記録的であった。2003年(平成15年)3月、執行猶予付き有罪判決を受けた。2013年(平成25年)2月8日、東京都内で死去。

 

リクルート事件とは
 1980年代、情報サービス会社リクルートが、政界、官界、財界の要人に子会社のリクルートコスモスの未公開株を譲渡、贈賄罪に問われた事件。
 1985年から1986年にかけて自由民主党の有力者や野党国会議員のほか、労働省や文部省の高官、財界の大物などに対し、本人あるいは秘書名義などでリクルートコスモスの未公開株を譲渡し、店頭公開後に大きな売却益を上げさせた。
 1988年夏、神奈川県川崎市の助役がリクルートコスモス株の譲渡を受けていたと報道されたことを発端に、事件が中央政界に波及した。その過程でリクルートが政治家に多額の献金を行っていたことや、政治家主催パーティ券を大量に購入していたことが判明、国民の政治不信が一気に高まった。
 その責任をとり、1989年6月に竹下登首相が辞職した。リクルート会長の江副浩正をはじめ贈賄側4人、収賄側8人の計12人が起訴され、全員に有罪判決がくだされた。

 

 

 

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安比高原スキー場創業者江副浩正記念碑)

江副浩正の最期

 本書冒頭は、江副浩正の死とその死体検案書からはじまる。88年、リクルート事件で江副は会長職を退任する。その3年後にはリクルート株を売却、完全にリクルートを離れた。昭和の最後の日まで戦後の日本を駆け抜けた起業家は、静かに表舞台を降りた。
 2013年1月30日、江副浩正は運転手に東京駅の八重洲口まで送ってもらうと、東北新幹線の改札に向かった。最近ではめっきり歩幅が狭くなり、歩行もおぼつかない。そしてはやぶさ号は盛岡駅に滑り込んだ。江副の乗ったタクシーは凍りついた高速道路の闇を、彼が開発を手掛けた安比高原に向かって進む。この日も思い切りロング滑降に挑もうとしていた。江副のスキーはプロ級の腕前だった。
 「また来週、それでは」たった1泊の旅だった。16時24分、やまびこ48号は東京駅のホームに滑り込んだ。酔ったのだろうか、網棚にボストンバッグを置き忘れたことに江副は気が付かない。列車からホームに降りるとき、足がもつれた。ホームから改札口に向かって歩き始める。一歩を踏み出す。だが、体はそれに逆らうように、そのまま倒れた。ホームに後頭部がたたきつけられる。16時28分、脳骨が割れる音が鈍く響いた。駅係員があわてて駆け寄ってくる。だが、そのときにはすでに、江副に意識はなかった。
 病院に運び込まれて、そのまま眠り続けた江副浩正は、2013年2月8日、15時20分、息を引きとった。享年76歳だった。

 

政治好きだった江副

 60年、江副は東大卒業と同時に大学新聞広告社を興す。その2年後にはわが国最初の情報誌となる「企業への招待」を創刊した。続けて中途採用者向けに「週刊就職情報」、女性向けに「とらばーゆ」を刊行。その後は進学、住宅、旅行、車、結婚など、様々な分野で情報誌を出し、いずれも成功させた。
 高校・大学の同級生に政治家が何人かいて、彼らが政治資金集めに汲々とする姿を江副は早くから見てきた。政(まつりごと)に集中してもらうためにと、これはと思う政治家には熱心に政治献金をしていた。「献金は、リクルートのためにしているわけではない。日本のために働いてもらいたいと思って個人的にしているものだ」。江副は政治好きだった。

 

株式上場をしようと思う

 野村證券の第二事業法人部の廣田光次が江副のもとに耳寄りな情報をもたらす。「今度、店頭登録(後ジャスダック、現廃止)の公募増資規制が緩和されて、2百人の株主がそろえば 2年の実績審査を経て株式公開が可能になります。規制の厳しい1部や2部市場に比べて規制の少ない非常に自由な市場ですので、江副さんの感性にも合うはずです」。これまで所轄官庁の審査や規制に縛られず事業を展開してきた江副はいち早く反応する。『株式上場をしようと思う。土地の仕入れ資金を広く市場に求めるのです」

 

 

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野村には頼まない

 江副は、日本橋のたもとの野村證券本社ビルの前に立った。「大学新聞広告社を起こして20年余、歯を食いしばってきたかいがあった」
 横に座る引受審査部の取締役に社長の田淵は顔を向けると、大きな声で言った。「すぐに検討するように」
 しかし、田淵がすぐに検討せよと命じたにもかかわらず、一向に返事はなかった。江副はいらついた。この話を持ち込んだ事業法人部の廣田に何度も問い合わせた。しかし、引受審査部の情報が一切入らない彼らには、江副への返答は一つしかない。「いましばらくお待ちを」。それが何度か繰り返された。
 「ならばもういい。野村には頼まない」
 江副は大和証券に向かった。会長の千野宣時、社長の土井定包ら首脳陣が、江副を笑顔で迎え入れた。「私どもで主幹事を務めさせていただきます。早めに2百人の株主を確保してください」。「おつきあいのある人、お知り合い、社会的に信用のある人々に公開前の株を持ってもらうのは、どこの企業もやっていますし、証券業界では常識です」
 軽快に答える千野に対して、重ねて江副は問うた。
 「政治家の方に持っていただくのはどうでしょう」
 「問題ありません」
 「不思議なもので、上場が近づくと創業時の苦しいときを思い出すのでしょうか、誰もがお世話になった方々に株を渡したくなるもののようです。証券業界の内規では、上場1年前からの株譲渡は禁じられていますので、お渡しになるならお早めにお願いします」。両首脳の笑顔に送られ、江副は満足して大和証券を後にした。その後、江副はことあるごとに、こう言って表情を硬くした。
 「野村に断られた。いまに臍をかむのは野村だ」
 登録準備2年間の観察期間が終え、コスモスは86年10月店頭登録を迎えた。

 

売り上げ1千億円達成

 1983年10月12日、東京地裁ロッキード裁判丸紅ルートで田中角栄元首相に対して懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡した。
 その年の12月、リクルートは初めて売り上げ1千億円を達成した。そして次は「これだ。リクルート1兆円の事業基盤はニューメディアだ」。早速、IBM出身でコンピュータに詳しい位田尚隆を室長としたニューメディア室を立ち上げる。

 

 

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日経BP社)

マスコミの江副たたき

 江副は押しも押されもされぬ若手ナンバーワン経営者として躍り出ていた。だが、リクルートが大きく成長し、経済界で江副に対する声望が高まるのと反比例するように、好意的だった一部マスコミが江副たたきに転じ始めた。
 「売り上げが1,500億円、急成長江副リクルート商法に騙されるな」
 「女連れ新財界人たちの沖縄旅行、リクルートノエビア両社長 ... 」
 「日経ビジネス」に金融界で噂されるリクルートの借入金の多さを報じられ、担保は成長力しかなく、成長が止まればリクルートの経営は危うくなると警鐘を鳴らした。
 不動産やノンバンク事業に傾斜し、ニューメディア事業で疾走する江副のなりふり構わないワンマンぶりに対して、社内ではひそかにこう言い交され始めていた。「江副2号」と。敬愛の念を込めて「江副さん」と言っていた社員たちが、絶対君主のようにふるまう江副にとまどい、その変容ぶりを嘆くかのようにそう呼んだのである。「住宅情報」を開発したころの江副が「江副1号」だとすると、いまの江副は「江副2号」だというわけだ。企業というものは、繁栄の最中に崩壊の芽をはらむものなのか。

 

疑惑報道

 「『リクルート川崎市誘致時、助役が関連株取得、公開で売却益1億円 資金も子会社の融資 川崎市が計画した『かわさきテクノピア地区』へリクルートの進出が決まった時期に」。「いかにも江副さんだな、地方の公務員にも渡していたか」
 江副は無類の贈りもの好きだった。リクルートに「政治部長」との異名をとる元教科書出版会社の営業経験者が入ってきてから、さらに様相が変わってきた。接待営業に慣れたその男の指図で、リクルートの歳暮・中元時の贈り先は顧客だけでなく政官界にまで広がり、贈答物は年々派手になっていった。

 

次々と暴かれる株ばらまき

 7月に入り、新聞各社は未公開株の譲渡先として渡辺美智雄自民党政調会長加藤六月前農水大臣、加藤紘一防衛大臣塚本三郎民社党委員長、中曽根康弘前首相、安倍晋太郎自民党幹事長、宮澤喜一大蔵大臣と、要職に就く政治家の名前を次々に暴いていった。
 そのほとんどが、コスモス株店頭登録当日か翌日に株を売却。3千万から5千万円、多い政治家は1億円を超える売却益を手にしていた。庶民には増税を迫る一方で、政治家たちは、一般人にはまず手に入らない未公開株で巨額の金を手にする。その事実が白日の下にさらされ、庶民の怒りに火がついた。

 

自宅に銃弾撃ち込まれる

 江副はリクルートの会長職を辞した。眠れず、食欲もなく、汗だけが限りなく流れる日々に、江副の心身は急激に疲弊していく。7月26日、毎年人間ドックを受診してきた半蔵門病院に、倒れるように担ぎ込まれた。
 8月10日南麻布の自宅に銃弾が撃ち込まれた。意味不明の犯行声明が通信社に届く。「コスモスは反日朝日に金をだして反日活動をした。赤報隊一同」
 

 

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江副を逮捕

 10月20日東京地検は松原コスモス社長を贈賄容疑で逮捕した。それを受けてコスモス、リクルート社内を一斉捜査、大量の書類を証拠物件として持ち帰った。
 多くの人が江副と疎遠になっていくなか、立っていられないほどに消耗し自死の誘惑に耐えている。
 89年1月7日、昭和天皇崩御。一つの時代が終わった。
 89年2月13日、江副は逮捕を告げられた。小菅拘置所に向かう車に乗せられた。
 丸裸にされると、10人ばかりの看守が見守るなかを江副は歩かされた。真ん中に立つ看守の所に行きつくと、男は四つん這いになれと命じた。言われるままに伏すと同時に、江副の肛門にガラス棒が突き入れられ、看守はその棒をぐりぐりと前後にかき回した。苦痛が走る。屈辱感のなかで、涙を流す。そのあとから悔しさが追いかけてきた。
 「126番立て」
 自分はものではない。頼む、名前で呼んでくれ。いや、おまえでもいい。番号で呼ばれるのは、ごめんだ。

 

13年に及ぶ長き私戦

 逮捕から、113日目の6月6日、江副は、NTT、労働省、文部省、政界4ルートの供述書のすべてに署名して保釈金2億円を払い、大勢のカメラマンが取り囲むなか小菅拘置所を出た。その後、江副は13年3カ月におよぶ私戦を戦い続けた。2001年12月20日、318回続いた公判審はようやく終わった。2003年3月4日、ようやく判決の日を迎えた。
 「被告人を懲役3年に処する。この裁判の確定した日から5年間の執行を猶予する」
 

気になっていた人物

 江副の逮捕から17年。マスコミ報道があおり検察を動かす劇場型事件の図式は、一向に変わらない。通産官僚出身の投資会社社長、村上世彰とともに逮捕され、堀江貴文は車に乗り込む。その映像を、かつての自分を見るような既視感にとらわれながら、江副は見つめ続けた。
 江副には長い間気になっている人物がいた。野村證券の事業法人部でリクルート担当だった廣田光次だ。冷徹に市場を読む力と、新しいビジネスの萌芽を見つけだす才能に長けていた。店頭登録制度の規制緩和がコスモスにとって有利なのではないかと、最初に知らせてくれたのが廣田だった。主幹会社を野村に断られたため、その後、つきあいは疎くなってしまったが、できる男だ。調べてみると、野村證券を辞した廣田は外資系証券会社に転じていた。

 

江副の勘違い

 江副は廣田に店頭登録を断られたことについて言った。「コスモスの店頭登録を野村に断られたことですよ。結果、私は大和証券に主幹事会社をお願いし、そして事件を起こしてしまった」
 江副の言葉を聞くなり、廣田が一気に話しだした。
 「江副さん、いつかお話ししたいと思っていました。あのコスモス上場はあのとき田淵節也がお約束した通り、野村で主幹事会社をお受けする体制が整っておりました。ただ引受審査部の審査が慎重で結論が長引いておりました。私があとで審査部から聞いたところでは、コスモス社内の経理体制を私どもの基準に変更できれば、あと少しで店頭登録できるところまで来ていたそうです。それを...  」
 廣田はそこで言葉を切った。江副は初めて廣田から聞く野村の内部事情に驚きながら、廣田の言葉を受けとった。
 「それを私が、野村に断られたと勘違いしたと言うのだね」「そして、私は自分から大和証券に駆け込んだと。本当かね廣田さん」
 「ええ、あれだけ話題になったコスモスさんの店頭登録でした。私どもは主幹事会社を逃してじだんだを踏みました。だからあのとき野村にコスモスさんを断る気など毛頭ありませんでした」
 廣田の話を聞きながら、江副はか細い声でたずねた。
 「もう一度聞きますよ。野村に、断られた、の、で、は、ないと」
 「もちろんですとも。それが証拠に、役員の鈴木と私が、偶然、同時に大阪転勤になりました。社内ではコスモスを落とした左遷人事だと噂されていました。入院なさっていたのでごあいさつもままならず、失礼してしまいましたが」


身体を張ってでも止めていた

 立っていられないくらいに憔悴した江副の口から、とぎれとぎれに言葉が漏れる。
 「もし、もしもだよ、もし、野村に、主幹事の、会社を、その主幹事を、お願いしていたら、廣田さん。どうなっていました?」
 廣田は江副を支えるようにして、手を取ると、きつく握りしめながら言った。
 「私がコスモスさんを担当していれば、どんなに江副さんがお望みになっても、政治家、官僚への株式譲渡は必ず止めていました。確かにあの当時、世間では未公開株の譲渡は誰もがやっていたことかもしれません。ただ私ども野村證券では、政治家、官僚への譲渡は、どなたがお客様であろうとも認めてまいりませんでした。私は体を張ってでも止めていたはずです」
 初めて告白する廣田の目に涙があった。
 「それが悔しい。いかにも悔しいです」
 「そうか、そうだったのか」

 江副の手を持ち、左右に強く揺さぶり続ける廣田に身を任せながら、江副はうめくように声をあげた。野村に断られた悔しさで動かなければ、リクルート事件は起こらなかったのか。ましてその後の長い裁判生活もなかったというのか。江副のなかで何かが音を立てて崩れていった。