きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『知の越境法』 池上 彰

 

すぐ役立つものは、すぐに陳腐化する
「役に立つこと」は教えない

 

知の越境法 「質問力」を磨く (光文社新書)

知の越境法 「質問力」を磨く (光文社新書)

 

 

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Wikipedia  Liberal Arts  自由七科と哲学

 

リベラルアーツの起源

 アメリカはプラグマティズム実用主義)を体現する効率一点張りの国で、大学でもすぐに役立つ学問を教えている、というイメージがある。ところが意外なことに、アメリカの有名大学になると、リベラルアーツが重視されている。

 リベラルアーツの起源は、ギリシャ、ローマでは、肉体労働は奴隷に任せ、自由人は「自由七科」と言われる教養を身につけることが求められた。その7つとは、文法、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽だ。

 13世紀にヨーロッパで大学が誕生すると、専門家養成に進む前の基礎学問としてリベラルアーツは位置付けられ、この伝統は欧米の大学に受け継がれた。特にアメリカではハーバード大学のように学部4年間はリベラルアーツを学び、専門は大学院で学ぶ、というのが一般的だ。

 

教育は国家百年の計

 戦前の日本でも旧制高校リベラルアーツ教育が行われ、戦後は4年制の新制大学の教養課程で教えられた。しかし、学生から一般教養は高校の延長で面白くないという声が上がり、また企業からは即戦力としての専門教育が求められた。
 文部省は、大学での教育内容に関して細かく指示を出すのを止め、大学の自主性に任せるようになった。その結果、多くの大学で教養学部を解体していった。ところが、今度は学生を受け入れる企業側が文句を言いだした。教養や常識のない新入社員が増えたというので、再び教養教育重視を掲げたのだ。ネコの目のように方針が変わるようでは、いい人材など育ちようがない。

 

「役に立つこと」は教えない

 そのうな日本から見ると、アメリカが育ててきたリベラルアーツの奥深さには嫉妬さえ覚えると。MIT(マサチューセッツ工科大学)は世界トップレベルの理工科系大学。ところが意外にも音楽教育が充実していて、音楽のできる学生が多い。音楽は数学的な構造を持つものだと言われる。ところで、このMITでは当然のごとく最先端のことを教えていると思うのだが、実際はまったく違うのだ。
「いま最先端のことは4年程度で陳腐化します。すぐに陳腐化することを教えても仕方ありません。新しいモノを作り出す、その根っこの力をつけるのがリベラルアーツです。すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなります」
 一見、すぐには役に立たないかに見える哲学が、やがて量子力学を発展させることに役立つ。「すぐに役に立たない」ことは、「いずれ役に立つ」のだ。

 ボストンにあるエリート女子大のウェルズリー大学ヒラリー・クリントンを輩出した名門のリベラルアーツの大学だ。ここでは経済学は学ぶものの、経営学は教えないという。理由は「役に立ちすぎるから」。これには驚く。経済学は人間を知るためには大事な学問だが、経営学は役に立つ分、すぐに陳腐化する。そうした実学は「ビジネススクールで学べばいい」という考え方だ。「企業からもっと役立つことを教えろ、と圧力があります。でも、大学が断固としてはねつけているんです」という。

 

越境のすすめ

 リベラルアーツを学ぶ意味は、短期的な成果を追わず、人間としての成長を目指すということ。すぐには専門を学ばず、さまざまな学問を越境して学ぶということである。また「リベラルアーツは人を自由(リベラル)にする学問」だともいう。

 本書での越境とは、「ちょっといつもの道を外れ、隣の道を進んでみる」ことであり、独学での学びをいう。角度が変わっただけで風景が違って見える。
 年齢を重ねるほどに学びとしての越境の機会が減る。黙っていても減るわけだから、無理にでもその機会を作る必要がある。自分にとって異なる文化と接すること。目の前の高い壁を乗り越えるのは大変でも、自分の横にある壁は、簡単に飛び越えることができるかもしれない。前の壁を越えるのではなく、隣へ越境してみよう。

 

 

 

 

 

 

 

川端康成 『掌の小説』

 

この掌編小説122編に川端康成という作家のあらゆる要素がふくまれている

 

掌の小説 (新潮文庫)

掌の小説 (新潮文庫)

 

  

「掌」という漢字の読みかた

 しょう、たなごころ、てのひら、と読む。「掌中」「合掌」「車掌」「分掌」など。
 『掌の小説』は「たなごころのしょうせつ」、上記の新潮文庫では「てのひらのしょうせつ」と読む。川端康成が 20代の頃から40年余りにわたって書き続けてきた掌編小説、122編を収録した作品集だ。

 掌編(しょうへん)小説とは、短編小説よりもさらに短い小説を指す。「短い短編小説」であるショートショートよりも短い小説とされるが、明確な基準はない。掌(てのひら)にかきつけた小説とか、掌にはいってしまうささやかな小説ともうけとれる。

 たなごころ、とは「てのひら」のことである。たなごころの「た」は「て(手)」の交替形であり、「な」は「の」にあたる連体助詞で、「たな」は「手の」を意味し、たなごころは「手の心」を意味する。手の中心、手の内側・裏側、手の平をいう。また「掌(たなごころ)を合わす」とは、すなわち「合掌」のこと。神仏を拝むときの動作になる。

 

『掌の小説』「有難う」

 「有難う」は川端の掌編小説の中の代表的作品で、1936年(昭和11年)に清水宏により映画化もされた。あらすじは、バスに乗って町へ売られていく娘を、母親がせめてもの情けで娘の好きなバス運転手と、はじめての一夜を過ごさせるが、そのために母は娘を売りに行けなくなるという物語で、運転手の明るい人がらと、人生の底辺に生きる娘の喜びと悲しみが、簡潔な表現で描かれている。

 

「有難う」はじまりの一節

 今年は柿の豊年で山の秋が美しい。
 半島の南の端の港である。駄菓子を並べた待合室の二階から、紫の襟の黄色い服を着た運転手が下りて来る。表には大型の赤い定期乗合自動車が紫の旗を立てている ...

「お婆さん、一番前へ乗んなさいよ。前ほど揺れないんだ。道が遠いからね。」
 母親が十五里北の汽車のある町へ娘を売りに行くのである ...

 

三島由紀夫も評価

 三島由紀夫は、この作品を掌の小説の中でも優れたものの一つだとし、「母に連れられて売られにゆく少女が、その途中で自分たちが乗って行ったバスの運転手と図らずも結ばれる」という思いがけない結末を「作中の人物も作者も皆の目がやさしくゆるしている」と指摘しながら、やがてその夫となる運転手も、「運命に対して極度に純潔な人々」であると解説している。そして彼らについて「到底、運命に抗争するというような人柄ではない。しかも彼等は運命に盲従する怠惰にして無智無力な存在とも言い切れぬ。むしろこう言うべきだ。かれらは運命に対して美しい礼節を心得ている人たちだ」と述べている。

Wikipedia

 


2010年 4編のオムニバス映画

 

 

 

 

 

 

ショーメ 時空を超える宝飾芸術の世界

  

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歴史の中のショーメ  
Chaumet Throughout History

 

CHAUMET

1780年フランスで創業。ナポレオン皇帝一族をはじめ、国内外の多くの貴族に愛された名門宝石商。歴史を育んだ華麗な宝飾品の一部は、現在もヴァンドーム広場のショーメ・ミュージアムに所蔵されている。

 

戴冠衣裳の皇帝ナポレオン1世

1799年に政権を獲得した後、ナポレオンは1804年にフランス皇帝の座についた。華々しいフランス王の偉大な伝統に属するこの肖像画(下)は、権力を示すあらゆる象徴に囲まれた、戴冠式の衣装に身を包んだ姿のナポレオンを描いている。王座、月桂冠、レジオン・ドヌール勲章頸飾、王笏(おうしゃく)、正義の手の杖、そしてフランス王に由来するダイヤモンドで飾られた剣。この上なく壮麗なこれらの宝石のセットを担当したのは、ショーメの創業者、マリ=エティエンヌ・ニトである。

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フランソワ・ジェラール 1806年

 

皇帝ナポレオン1世より贈呈された教皇ピウス7世のティアラ

教皇ピウス7世のティアラは、1804年12月2日のパリ・ノートルダム大聖堂における戴冠式に出席した教皇に感謝の意を表明するため、皇帝ナポレオンによって依頼された外交的な贈りものである。このティアラをローマへ運んだのは、当時26歳のニトの息子、フランソワ・ルニョーであった。
本展覧会において、ヴァチカンはこのティアラの修復をショーメに委任し、また《ユリウス2世》として知られる特別なエメラルドの上に載せる新たな十字架の制作を任せた。

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1804-1805年(後世に数回修正)

 

「ジョセフィーヌ」リング

メゾンの最初のミューズである皇妃ジョセフィーヌに敬意を表して、ショーメは優雅でエレガンスなスタイルを保ち続けている。宝石の輝きにより、一層洗練されたデザインは、現代的な曲線をもって235年間の歴史を称えている。

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「ロイヒテンベルク」として知られるティアラ

このティアラは、皇妃ジョセフィーヌの後裔(こうえい)にあたるロイヒテンベルク家に由来するもので、8つの部品から成り、計698個のダイヤモンド、32個のエメラルドがかめ込まれている。中央の花には、コロンビアからもたらされた六角形のエメラルドが設置されているが、その重さはほぼ13カラットにも及ぶ。本作は変形の技術とトランブルーズのはめ込み技術という重要な特徴を備えている。

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麦の穂のティアラ

ローマ神話における農耕を司る女神ケレスのアトリビュートであり、繁栄と多産の象徴である麦は、第一帝政期のジュエリーにおいて人気のあったモティーフであった。皇妃ジョセフィーヌは麦の穂のティアラを着用することを好んだが、それらは本作同様に9本の穂をあしらい、ゴールドとシルバーのマウントに66カラット以上のアンティークカット・ダイヤモンドをはめ込んだものであった。

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ジョゼフ・ショーメ《6羽のツバメの連作》
1890年  プラチナ、ゴールド、ダイヤモンド

 

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ニト・エ・フィスに帰属《ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラのバンドー・ティアラ》
1810年頃  ゴールド、真珠、ニコロアゲート

 

 *上記の記事は入場の際に配布されたパンフレットより抜粋しています

 

 

 

 

 

 

 

 

歴史の行間 米原万理

 

 

歴史の行間で
見過ごされちゃうものを
よみがえらせて
生きた人間として描きたい

その人たちの日常をつぶさに知ると
他人ごとではなくなってくる

 

 

米原万理 2003年「小説という手段」

 

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)

 
マイナス50℃の世界 (角川ソフィア文庫)

マイナス50℃の世界 (角川ソフィア文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

映画 『カメラを止めるな!』

 

低予算でも無限の可能性を
秘めた映像作品に

 

 

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カメラを止めるな!

 この映画を知らないままでいることはあまりにも勿体ない、それほど発想と工夫を凝らした1本だ。それゆえに今回はあらすじの紹介が簡単にできない。だが観客は予備知識がなくても楽しめる。本作はゾンビ映画のようにみえるが、そうでないとも言える。とにかく特筆すべきはその手法とアイデア、そして映像の構成だ。ここに無限の可能性を見出す。とにかくぜひご覧頂きたい。

 

 

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『ロシア語だけの青春』 黒田龍之助

 

外国語を学ぶ楽しさを
愛情を持って語ってくれる
黒田龍之助の最新エッセイ です

 

ロシア語だけの青春: ミールに通った日々
  

 

厳しくも楽しいミール・ロシア語研究所の日々
黒田先生が青春時代を振り返る

 ロシア語学習にいそしむヘンな高校生が人気語学教師になるまでの、厳しくも楽しいミール・ロシア語研究所の日々。外国語を学ぶ楽しさを語らせたら右に出る者はいない黒田先生が、青春時代を振り返る。

 

黒田龍之助(くろだりゅうのすけ)

1964年東京生まれ。日本のスラヴ語学者、言語学者。執筆と講演を中心に活動している。上智大学国語学部ロシア語科卒。東京大学大学院露文科博士課程単位取得満期退学。東京工業大学助教授(ロシア語)、明治大学理工学部助教授(英語)、2007年に退職。NHKテレビ及びラジオのロシア語講師を務める。父は落語家の6代目柳亭燕路。母は絵本作家のせなけいこ。妻はチェコ語学者の金指久美子。 
主な著書に『外国語の水曜日 学習法としての言語学入門』『羊皮紙に眠る文字たち スラヴ言語文化入門』『『ロシア語のしくみ』など。

 

 

『ロシア語だけの青春・ミールの通った日々』

 わたしはここに、ミール・ロシア語研究所の物語を書き留めようと思う。高校3年生から10年以上、多くの時間を費やしてここに学び、のちには教えることになった大切な母校。ロシア語のことしか考えていなかった青春の日々。いま振り返れば、あまりの恥ずかしさに居たたまれないほどなのだが、混乱する現在の外国語教育をもう一度考え直すため、恥を忍んでここに記すのである。(本書プロローグ)

 

その先はロシアだった

 1982年早春、午後6時の代々木駅。西口には予備校が林立し専門学校や政治政党などもあって、人どおりが激しく賑やかだ。それに比べると東口はひっそりとしている。入口に扉はなく、いきなり狭くて古い階段である。薄暗くて、入るのにちょっと躊躇うが、看板が出ているのだから間違いない。その先はロシアだった。

 

アネクドートという小咄

 アネクドートといわれても、あまり馴染みがないかもしれない。逸話、奇談、さらには風刺小話などと説明される。英語でも anecdote という。ところが、これがなんとも微妙なのだ。

「アフリカと月とでは、近いのはどちらでしょうか?」
「月です」
「月ですって? どうしてそう思うのですか?」
「だって月は見えますが、アフリカは見えませんから」

 

あなたは何年に生まれましたか

多喜子先生は、わたしにロシア語で質問した。

Как вас зовут? 《お名前はなんとおっしゃいますか?》
《黒田といいます》

В каком году вы родились?  《あなたは何年に生まれましたか?》
 生まれた年?  これは予想していなかった。
《ええと、せんきゅうひゃ...  》」

Я родился в тысяча девятьсот шестьдесят четвёртом году.
《わたしは1964年に生れました》

 これがどうしてもいえないのである。先生に助け船を出してもらって、発音するのがやっと。ボロボロだ。なんとも不甲斐ない。
 後にロシア語教師になって分かったことなのだが、数詞がきちんと使いこなせるかどうかは学習者のレベルを判断するときに有効である。外国語の読解では、多くの学習者が数詞を疎かにしている。

 

 

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ウダレーニエが弱いんです!

 入門科では『標準ロシア語入門』(白水社)を使って学習する。著者は東一夫先生と多喜子先生ご夫妻。つまり市販されているはいるが、これはミールのための教材といっても過言ではない。
「ウダレーニエが弱いんです!」
 ロシア語の単語は、音節のどこか一箇所が他に比べ強く、そしてすこしだけ長めに発音される。これを「ウダレーニエ」という。英語風にアクセントということもあるが、とにかくミールではこのウダレーニエを、思い切り強調して発音しなければならない。それがひどく難しいのである。

 

突然の閉校

 2013年2月、わたしはNHKのスタジオで、ラジオ講座まいにちロシア語」の収録をしていた。テキストの編集者がふと、こんな話をした。
「そういえば、ミールが閉校になるらしいですね」
..... え?
「黒田先生はかつて、ミールに通っていらしたんですよね」
「ご存じありませんでしたか。人づてに聞いたのですが、3月いっぱいで終わりらしいですよ」
「外国語の勉強の仕方をここで学んだ。建て付けが悪く、薄暗い教室で同じやり方を続け、ここだけ時が止まったようだったが、永遠ではなかった」

 2013年8月24日、多喜子先生は最後の授業をおこなった。今度こそ本当に最後である。授業終了後、生徒たちは会食を計画したが、先生は参加しなかった。すべてが終わった。わたしはひと月後に、49歳になろうとしていた。

 

ミール・ロシア語研究所

 ミール・ロシア語研究所は1958年6月に創立され、2013年に閉校した。55年もの長きにわたって、多くの生徒が学び、ロシア語の専門家として巣立って行った。この学校は東一夫先生、東多喜子先生ご夫妻が中心となって教えておられました。

 

 

東京毎日新聞 2013年4月2日 地方版記事より

 都内でも数少ないロシア語専門の学校の一つ「ミール・ロシア語研究所」(渋谷区千駄ヶ谷5)が、55年の歴史を終える。発音を中心に基礎を徹底的に指導し、個人経営で生徒が数十人程度の小規模校ながら大学教員、通訳、大使館員らを多数輩出した。しかし、亡夫の後を継いだ経営者の東(あずま)多喜子(たきこ)さんが今年76歳になり「心身ともに限界、潮時」と閉校を決めた。【青島顕】

 出身者らによると、ロシア語で「平和」「世界」の意の「ミール」は、翻訳者の東一夫さんが1958年に都内で開校。まもなく、JR代々木東口の雑居ビルの2室に移り、多喜子さんや教え子らが講師を務めた。一夫さんは、05年に死去した。

 厳しい指導で知られ、宣伝をほとんどしなくても口コミで生徒が集まった。レベルごとに1クラス7人前後で構成。週2回の授業では、一人一人にテキストを読ませて発音を矯正した後、決められた範囲の露文を暗記してきたかチェックする方式がとられた。

 欧米や中国、韓国語に比べて学習者が少ないロシア語だが、50年間講師を務めた多喜子さんは「今後も隣国だから重要言語であり続ける」と学習を勧める。東夫婦の共著で入門クラスのテキストでもある「標準ロシア語入門」(白水社)は、「71年の刊行以来、改訂版を含め4万部発行された当社の語学書で指折りのロングセラー」(担当者)だ。同書にはこんな例文もある。「すべての国でロシア語を学んでいる人の数がふえています」

 

 

 

 

 

 

 

 

等身大の大江健三郎

 

等身大の大江健三郎が垣間見れる
106 の質問に立ち向かう 

 

大江健三郎 作家自身を語る

大江健三郎 作家自身を語る

 

 

安部公房村上春樹についても語る

 本書『大江健三郎 作家自身を語る』の巻末に大江健三郎への 106 の質問が挙げられている。たとえば、一日の過ごし方や、お酒は飲まれるのか、面白い本の探し方、安倍公房との不仲について、1億円あったら何に使うか、語学の勉強法について、村上春樹について、など興味深い質問が続く。ここでは等身大の大江健三郎の姿が垣間見れる。
(下記はその抜粋)

 

面白い本は、どうやってお探しですか。

たいてい3年単位でひとつの主題を続けます。渡辺一夫さんに教わって、40年以上続けています。その積み重ねで面白い本が浮かび上がってきます。その定まった主題より他では、外国の新聞の書評をよく読み、信頼する同世代の研究者の友人に教わります。ところが、運命のようにポカンと、なにより大切な本が手に入ることがあるのです。

 

日本の古典文学で一番影響を受けた作品は?

私はまったくの素人ですが、長篇小説では『源氏物語』、中篇小説(フランス語ならレシですね)なら、西鶴の『好色五人女』、そして短篇小説なら、―  そうかな?  と思われるでしょうが、『枕草子』です。私はずっと前に出た『新潮日本古典集成』をベッドのなかや電車で愛読しました。

 

もし戻れるなら、何歳に?

22歳に。小説を書き始めないで語学力をしっかりつけて、渡辺一夫さんのもとで専門勉強をします。その後でなら、いつだって小説を書き始められたでしょうから。

 

安部公房さんと一時期、絶交されたというのは本当ですか。

大学闘争の時期、安部さんから電話があって、朝日新聞で学生たちを批判する対談を準備した、ともちかけられました。私がそれはしない、と答えると、―  それじゃ、きみと友人でいても仕方ないな、といわれ、―  クソッタレ!  と私が応じて絶交しました。それから、本気で仲直りすることがあった、とは思いません。あの人は友人にしてもらうより、天才としてその作品を読んでいることで幸いでした。

 

大学の文学部は何を学ぶところでしょう。

外国語と、この国の古典の言葉を読む力をつけるところです。

 

語学の勉強で大切なことは?

辞書をていねいに引くこと。本当に自分に大切に思える文章(詩でも)は、カードにうつして覚えてしまうこと。赤線を引いた本を、時をへだてては何度も読みかえすこと。わかりにくい文章(詩でも)は、自分の日本語に訳してみること。2つの外国語でひとつの作品を読み合わせる習慣を作ること。

 

蔵書の整理などはよくなさいますか。

毎日している、と家内はいっています。理想的には、さらにいまの10分の1にしたい。そしておしまいの日々、それらすべてを苦労せず見あげられる場所にベッドを置きたいとねがいます。

 

新聞やテレビの日本語で、これはやめて欲しい、という言葉やいい方はありますか。

やめて欲しい、の、欲しいというのは関西のいい方だとなにかで読み、私はして欲しい、やめて欲しいといったことがありません。それでも「美しい国」「凛とした」「鳥肌が立つ」「 ~ 力」などがイヤです。

 

今、一番の願いごとは?

東アジアの非核化。あいつ(複数)の消滅。

 

無人島に一冊だけ本を持って行けるとしたら、何を選ばれますか。

その時点で最大の(手に持てる範囲で)太陽電池式の電子辞書。

 

生まれ変わっても小説家に?

生まれ変わらぬことをねがっています。しかし、もし生まれ変わったら、私にはもう小説に書くことはないでしょう。この生涯において、才能とかそのスケール、高さなどはいわぬとして、とにかく私は小説家として怠けず働いたと、生まれ変わりをつかさどる役の存在がいたら、申したてるつもりです。