中島 敦『山月記』 わずか8か月の輝き
わずか8か月の輝き
文学史に流れて消えた彗星
文芸史に名を残した中島敦
今回は、芥川賞候補となり『山月記』『李陵』などの名作を生んだことで昭和の文芸史に名を残した中島敦(なかじまあつし)についてです。
作品は漢文的な書き方で注釈が多く取っつきにくそうですが、ほんの数十ページです。多少、労を割いてでも読む価値はあります。ぜひこの彗星の輝きに触れてみてください。
数こそ少ないが、珠玉のような輝き
中島敦は短い生涯にわずか二十編たらずの作品しか残していません。それも未完成のものが入っているので、完成した作品は本当に少ない。しかし、数こそ少ないけど、珠玉のように光輝を放って、永遠に忘れられぬ作家となり、作品の芸術性は高く、古典の域に達しています。
『山月記』は人が虎に変身してしまう話で、中国の古典が基礎にあるものの、西欧文学への傾倒もあり、英訳によるフランツ・カフカやデイヴィッド・ガーネット、D・H ロレンス等にも親しんだという。
成績は優秀だったが
明治42年(1909)中学の漢文教師として働く父の長男として東京で生まれ、父親の転勤で、奈良、静岡、そして朝鮮と転々とします。父ばかりでなく、祖父も伯父も代々、漢学者という家系で幼い頃から学校の成績は常にトップクラス。旧制第一高等学校から東京大学に進学します。森鴎外の研究のために大学院に進むが中退している。
ただし、私生活は波乱含みで、2歳で両親が離婚。その後、二人の継母に育てられるが、折り合いは良くなかった。大学時代は、麻雀やダンスホールでの遊興に明け暮れ、入り浸っていた麻雀クラブの女性従業員・橋本タカとの間に子どもまで生まれる始末。
女学校の教師として人気者に
昭和8年(1933)に大学を卒業。成績優秀ながら、朝日新聞社の入社試験で二次の身体検査に落ち、持病の喘息もあったが、妻子(橋本タカ)ともようやく一緒に暮らし始めます。父親のツテで私立横浜高等女学校の教職に就きます(この年に、のちに大女優・原節子と呼ばれる少女、会田昌江が入学している)。
女学校では国語や英語を担当し、明るくて気配りもできたので生徒や教師からも好かれたが、学生時代から抱き続けた文学への想いは断ち切れず、教職と並行して執筆活動も進めていった。
わずか8か月の輝き
昭和16年(1941)体調が悪化し、8年の教師生活に別れを告げ退職します。南洋庁に転職すると、治療も兼ねて国語編集記としてパラオに赴任。ところが現地では風土病に悩まされ、太平洋戦争開戦という事情も重なり、翌年に帰国。
これに先立つパラオ出発前に書き留めていた原稿を友人の深田久弥に託していたのですが、『山月記』『文字禍』の2編が雑誌「文學界」に掲載されました。さらに『光と風と夢』が芥川賞候補になったことで作家としての道が開けます。これにより、南洋庁を退職。創作に専念して『名人伝』『弟子』『李陵』などを次々と執筆しました。
しかし、病状はさらに悪化し、昭和17年(1942)12月に、33歳の若さで世を去ってしまいます。作家として認められた期間は生前1年にも満たなかったのです。ただ、執筆した原稿の多くは死後に出版され、高い評価を得て中島敦の名は文学史に刻まれることとなりました。
『山月記』について
山月記は、昭和17年(1942)に発表された中島敦の短編小説で、精緻な文章から今でも国語の教科書などに掲載されることが多いですね。以下はあらすじです。内容紹介については、下記のブログ記事(『山月記』中島敦 江守徹の朗読)に記載しています。
若くして高級官僚となった秀才、李徴は詩人として名を残そうと考えて辞職し、詩作に専念した。しかし、これに挫折し仕方なく地方の小役人となったものの、ついに発狂し、消息を絶つ。実は虎に変身していたのだが、翌年のある月夜に旧友の高官、袁蛯に遭遇する。これまでの経緯を話し、自作の詩を書き取ってもらい、妻子には自分は死んだと伝えるよう頼んで姿を消す。
山月記に登場する李徴の言葉
「人生は何事をもなさぬには余りに長いが、何事かをなすには余りに短い」
中島敦はこの李徴に自分を重ねていたのかもしれません。この『山月記』を発表した年に、亡くなりました。
『「文豪」がよくわかる本』から抜粋
『山月記』をもっと詳しく