きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『菜の花の沖(二)』 司馬遼太郎 嘉兵衛、船を持つ

 

あらすじ

 江戸時代後期、日露関係のはざまで奇数な運命をたどった高田屋嘉兵衛の生涯を克明に描いた雄大なロマン。(全六冊)

 海産物の宝庫である蝦夷地からの商品の需要はかぎりなくあった。そこへは千石積の巨船が日本海の荒波を蹴たてて往き来している。
海運の花形であるこの北前船には莫大な金がかかり、船頭にすぎぬ嘉兵衛の手の届くものではない。が、彼はようやく一艘の船を得た、永年の夢をとげるには、あまりに小さく、古船でありすぎたが...

 

鰹節

妻のおふさにとって嘉兵衛という男は、いくらながめていても飽きがこないところがある。たとえば長崎から帰った日、嘉兵衛は木片のようなものを二十本ばかりおふさの前にほうりだした。
「これなに?」
おふさがのぞきこむと、みやげだ、といった。
とりあげてみると、鰹節(かつおぶし)であった。

鰹節は加工の面倒な商品で、おふさや嘉兵衛の田舎である淡路などで自家でこれがつかわれることはまずない。ふつう、調味料といえば、だしジャコとよばれる子鰯(カタクチイワシ)であった。煮干、イリコ、ホシコなどといわれるものである。
... 自分の船を持ちたい嘉兵衛は「黒潮の流れている海まで出て、鰹をざぶざぶと獲りたい。松右衛門はいった「おお、わしは風の中で金をつかんだ。風のかわりにお前は鰹でつかもうというのか」

「おふさ、これが鰹節のだしというものか」
嘉兵衛は家庭で鰹節をつかったものを口にするのは、うまれてはじめてだったのである。
「なんと、美味なものであるなあ」
「これは土佐節か」
「伊豆節」
と、おふさが削りあとのある節をみせた。この時代の伊豆節は土佐節よりもかび付けという加工の一過程で劣っていた。それでもこれほどうまいとあれば、土佐節はどれほど旨かろうと他愛もなく思ったりしている。
「でも、土佐節ではもったいない」
おふさがいった。

それにしても嘉兵衛は鰹節を考案した人間というのはえらいものだと思った。鰹も干物にされた。この魚肉は干せば硬くなるため、古くは堅魚(かたうお)とよび、やがてカツオという音に変化した。後世、生魚を鰹と言い、干したものを鰹干し(鰹節)とよんで分けた。言葉が「鰹干し」から「鰹節」に変化するころには、複雑な加工過程をへた商品としての鰹節ができあがっている。この変化は江戸時代の初期を過ぎたころからである。この考案と完成は、紀州熊野でおこなわれた。ところが。鰹節生産にかけては土佐の成長は目をみはるばかりで、土佐藩はこの製造を準藩営にした。
「御用節」と名づけた。「鰹座」という独占の同業組合があり、評判も市場占有率も本家の熊野の節をおさえこんでしまった。
(わしは、据浜はいらん)
と、嘉兵衛は思っていた。据浜とは寄港権とそこで獲れた鰹を節にする設備の所在地という意味である。五百石ほどの廻船を借りて、そこに製造設備を積めばよいのではないか。嘉兵衛はおふさに自分の脳裏に湧く考えをつぎつぎに話した。かれが考えている鰹船の設計図もかいて見せてやった。おふさは
お船のお金をどうするのかしら)
と、内心、小くびをひねった。

 

薬師丸

 その後、嘉兵衛が江戸滞在中に兵庫から飛脚の手紙が届き、和泉屋伊兵衛が嘉兵衛のために十両で買った薬師丸という破船があるが、もしその気があるのなら検分し、修繕できるものならそのようにして兵庫まで乗って帰るがよい、あるいはそれをもって伊豆や安房沖を走って鰹を獲るのもよし、なんなりと存念どおりにせよ、というものであった。

 

 

菜の花の沖(二) (文春文庫)

菜の花の沖(二) (文春文庫)