『ぼくはこんな本を読んできた』 立花隆の読書論
立花隆の「知の世界 」構築のノウハウ
ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論 (文春文庫)
- 作者: 立花隆
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1999/03/10
- メディア: 文庫
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純粋的知的欲求が「文明社会」を築く
ギリシャの哲学者であるアリストテレスの『形而上学』に「人間は生まれながらにして知ることを欲している」とあり、人間というのは、最も基本的な欲求として、知りたいという欲求を持っている。これはほとんど人間の本能といっていい。人間はそういう純粋知的欲求を強く持っていたから、こういう「文明社会」を築くことができたんだという。
文学離れ
文学書を読んでいたのは学生時代だけで、それ以降はほとんど読んでいない。文学離れの理由は簡単で、要するに文学を読むことが面白くなくなったとうことにつきると。文学や哲学、社会思想といった関係の本は沢山読んでいたけれども、いわゆるノンフィクションはほとんど読んでなかった。そういう知的欠陥を会社に入ったとたんに先輩社員から指摘された。文学離れを起した読者たちはフィクション以上に面白いノンフィクションがいくらでもあることに気がついたのだと思います。
本来の意味の古典とは
読書論というとすぐ古典を読めという人が沢山いるが、古典を数多く読んでいる著者はこれに否定的だ。また何を持って古典とするかをはっきりさせないといけないと。
本来の意味の古典とは、クラシックスという言葉が意味するもので、ヨーロッパでクラシックスといえば、ギリシャ、ローマの古典を指す。東洋の場合には、四書五経などの漢籍がそれにあたる。日本でいえば万葉から平安朝文学くらいまでだと。多少拡大した意味に使って中世まで、日本では『平家物語』あたりまで、ヨーロッパでは『アーサー王伝説』とか、宗教的なものでいえば、トマス・アクイナスの『神学大全』だとかそのあたりまで、つまりルネサンス以前くらいまでしか本来の意味での古典には入らない。やっぱり真の古典という名に値するものは500年、1000年という単位でふるいにかけられて残ったものでなければならないという。
立花隆流の語学習得法
本はいちどきに購入してしまったほうがいい。独学で一番難しいのは、志を持続させることだが、そのためには前もって相当のお金を使ってしまったこうがいいと。語学に関していえば、集中的にやったほうがいい。週2回1年間やるよりは、毎日1カ月間やったほうがいい。ただひたすらそれに熱中するという形でやれば、1カ月間で一応モノになる。大学書林で出している「××語四週間」というシリーズで本気でやったら必ず四週間でできると。この場合のできるとは、辞書と文法書を片手になんとか一人で本を読んでいけるという程度の段階。
学生時代に読んだもの
学生時代に読んだものの一部。『決定版世界文学全集』。スタンダール、バルザック、フロベール、ドストエフスキー、トルストイ、モーパッサン、ハーディ、ロレンス、ヘッセ、ヘミングウェイなど。『現代世界文学全集』や『新版世界文学集』ではゾラ、ジイド、リルケ、スタインベック、モーム、トーマス・マン、モーリャック、ロマン・ロラン、マルローなど。それから『世界名詩集大成』全二十巻。『立原道造全集』、『萩原朔太郎全集』、『ボードレール全集』など。また谷崎潤一郎、川端康成、太宰治、石川淳、武田泰淳、大岡昇平、小林秀雄、三島由紀夫、大江健三郎、安倍公房、深沢七郎などなど。書ききれない。
文学を読んだことの影響
ものを書いて食っていくという仕事を選んだということが、すでにそういう影響なんじゃないかなと。読まないと文章って書けない。まず、消費者にならないと、ちゃんとした生産者になれない。それと、文学を経ないで精神形成をした人は、どうしても物の見方が浅い。物事の理解が図式的になりがちなんじゃないかな。文学というのは、最初に表に見えたものが、裏返すと違うように見えてきて、もう一回裏返すとまた違って見えてくるという世界でしょう。表面だけでは見えないものを見ていくのが文学だという。
ノンフィクションの面白さ
著者の立花隆は、文藝春秋社に入社してからノンフィクションの面白さに目覚め、小説を読むのを止めてしまった。自分がいかにモノを知らなかったか痛感したという。また人生の残り時間を、人が頭の中でこしらえた話しを読むなんてもったいないとも。確かにそうかもしれない。フィクションよりリアルな現実の方がはるかに面白い。
ただ、それは人間の基礎をつくり、精神形成に必要な文学を、学生時代に大量に読み込んできた著者だから言えることなのですね。