きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『学問のすすめ』 福沢諭吉

 

福沢諭吉 Q&A です

 Q1. 英語の「スピーチ」を「演説」と翻訳して、はじめて日本語で紹介した諭吉。演説を広めようと、自分も練習しました。諭吉の練習方法とは?

① お芝居に出演して、長いセリフをしゃべった
② 橋の下で、声を張り上げた
③ 民謡をならって、大声でうたった

 

Q2. 諭吉は大坂の適塾に入門した。そこの緒方洪庵先生は、オランダ医学も教える医者だったのに、なぜ諭吉は医者にならなかったのか?

① 医学はつまらなかったから
② 血を見るのがこわいから
③ 医者は儲からないから

 

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オランダ語と医学を学びます

 演説は大勢の人の前で、自分の意見をはっきり言わなければならないので、諭吉自ら大声が出るように、橋の下に舟をつないで声を張り上げて練習しました。そして慶應義塾に三田演説会を開いたのです。演説はその後、全国に広まっていきます。
 また、諭吉は緒方先生にオランダ語とオランダ医学を教わります。でも諭吉は血を見るのが苦手でしたので、解剖などの授業は受けませんでした。のちに使節団でロシアに行ったとき、手術の様子を見学したのですが気を失ってしまいました。

 

封建制度を復習

身分制度
 江戸時代には「士農工商」という身分制度があり、武士の次が農民、その下が職人と商人というように身分の上下が決められていました。諭吉は武士の身分でも、下の位の家に生まれました。明治になって士農工商はなくなり、人々は平等に「平民」と呼ばれるようになります。しかし、武士の「士族」、大名らの「華族」など特別な身分はまだ残っていたのです。

・特権を持つ武士
 武士は刀を持つなど、いろいろな特権を持つ身分とされ、農工商の人々は武士に支配されていました。同じ武士の中でも差別があり、諭吉も子どものころ、位の高い武士の子にいつも威張られて悔しい思いをしていました。諭吉の母は、身分の低い人も差別せずに同じ人間として接していました。

・「藩」から「県」へ
 明治になって「県」が出来るまでは、日本はそれぞれの藩ごとに政治が行われていました。藩の武士をまとめる藩主は、絶対的な力を持っており、命令には必ず従わなければなりません。諭吉のように大坂や江戸に出るのにも藩の許可が必要でした。

職業選択の自由はありません
 この時代は、職業を自由に選ぶことは出来ませんでした。農民に生まれた子は農民にしかなれず、商人や職人になりたくても許されなかった。諭吉の父親は学問好きで努力家でしたが偉くなることは出来なかったのです。

 

世界を知る福沢諭吉

 開国をして外国と取引きするようになった幕府は、海外の様子を知るために外国に使節団を送ります。諭吉もメンバーに加わり海外を旅しました。
 1860年に咸臨丸でアメリカに向かいます。サンフランシスコに着いたときは、ちょんまげに着物姿で腰に刀をさした日本人は珍しがられ、歓迎されました。夜はどの家にもガス灯がついて昼間のように明るいのです。まだ日本では夜の明かりは提灯や行燈だったんですね。男の人と女の人が手をつないでダンスをしたり、大統領の子どもが大統領になるのではなく、4年ごとに選挙で選ばれることにも感心しました。
 1862年には、フランスやイギリス、オランダ、ドイツ、ロシアなどヨーロッパもまわりました。イギリスでは政府のしくみに驚き、「議会政治」を知ります。日本にはまだない鉄道にも乗りました。

 

学問をしたか、しないかの違い

 そんな封建制度のもとに暮らし、海外の様子を見てきた諭吉は、1872年に『学問のすすめ』という本を出版し、明治の大ベストセラーとなりました。
 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり」という書き出しで始まる文章。人間はだれでも平等でなければならない。地位や家がらや、お金のあるなしで差別されてはならない。人間としての区別があるとするならば、それは学問をしたか、しないかの違いであるから、誰でも学問をするよう努力しようと。そして、自由や平等とは、自分の好き勝手に振る舞うのではなく、人のため、自分を高めるためのものである、というのです。

 

賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによりて、出来るものなり
(賢い人間とそうでない人との差は、学ぶか学ばないかで決まる)

 

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

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