きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『プーチンの実像』 山下泰裕へ贈った言葉

 

悪魔でもない救世主でもない
等身大の人間
プーチンを知りたい

 

朝日新聞国際報道部が、「プーチンを直接知る人たち」へのインタビューを重ね、伝聞や憶測ではない証言を集めることで、プーチンの人間像を多面的に描いたとする本書は、はたしてその実像に迫ることができたのか。

 

プーチンの実像 証言で暴く「皇帝」の素顔

プーチンの実像 証言で暴く「皇帝」の素顔

 

 
「人たらし」と非凡な言語能力の高さ

 ウラジミール・プーチンとはいったい何者だろうか。結論から言うと、まず「人たらし」であり、弁が立つ人物。周囲の人たち、特に年長者を魅了する不思議な力を持っていた。それは柔道の山下泰裕しかり、魅了された人は多い。
 そして、数々のコメントや発言、質問への応答など、日本側、ロシア国内、そして質問した記者に対する配慮を盛り込んだ周到な回答を、わずかな時間の中できちんと論理的に作り出す能力は、非凡というしかないという。この言語能力の高さはトランプや日本の政治家たちとは比較にならない、とまで言う学者もいる。

 

森とプーチンとの対話

 森喜朗がモスクワのクレムリンプーチンと会ったのは、2014年9月10日の深夜だった。森は、安倍晋三からの親書を託されていた。
 森は、日ロ交渉に影を落としているウクライナ問題、特にマレーシア航空機墜落事件について、踏み込んでいった。
「あなたの理屈はわかるけど、世の中に説明がつかないことがある。一番悪いのは、やっぱりマレーシア航空機を落としたことだ」
「おい、あれは私が落としたんじゃない」
「だが、それは結果的にそういうことになってしまう。あそこから流れは変わってしまった。だから今度は、あなたが主導して停戦から休戦へと持っていってほしい。話はそれからだ」
 森は、クリミアを巡る歴史的な経緯を勉強したことをプーチンに伝えた。ソ連時代には長くロシアの保養地として親しまれていたこと。1954年に当時のソ連の指導者フルシチョフの独断でウクライナに引き渡されてしまったこと。ロシアの国民感情を理解していることを伝えた上で、森は本題に切り込んでいった。

 

一億数千万の国民の命を誰が守ってくれるのか

「安倍は、あなたのこと、ロシアのことをすごく考えているんだ。制裁にしてもアメリカが『やれ、やれ』と言うから。だけど実質的にはロシアにはなんの被害も与えないようにやっているはずだ」
 プーチンは答えた。
「そんなことは分かっている。しかし、私はそれを安倍本人の口から聞きたい」
「安倍もあなたに電話したいのは、やまやまらしいよ。だけど、あなたに電話をすると全部アメリカにキャッチされる。それが安倍には耐えられないんじゃないかな」
「そんなこと、気にすることはない」
 森との会話の中で、プーチンが「日本は友人だと思っていたんだが」と愚痴をこぼす場面もあったという。
 森はプーチンに対してこんな説明をした。
「大事なことを言っておきたい。北朝鮮核兵器を持っている。中国も、あなたのお国のロシアも、インドも持っている。日本は丸裸だ。一億数千万の国民の命を誰が守ってくれるのか。あなたが守ってくれるというのなら、ハラショーだ。しかし、やはりここはアメリカに守ってもらうしかない。だから、アメリカに気をつかっているというわけではなくて、日本の国民の利益を考えたときに、アメリカの考え方は一番大事だ。そこは理解してもらわなければ困る。だけどいずれ、ロシアと平和条約を結べば、アメリカとももっと対等になる。それを我々は考えている」
 プーチンも「それはわかった」と応じたのだという。

 

共産主義には極めて批判的だった

プーチンはいつもソ連に対して批判的だった。その理由は、まさに体制の閉鎖性ゆえだった。もしも我々が国民を幸せにしているというのなら、なんで彼らを外界から隔離する必要があるのか。なんでも見せてやればいいじゃないか、というのが彼の考えだった。今もプーチンは(欧州との間で)ビザ無し訪問を実現しようとしている。欧州に行かせないようになどはしていない。プーチンはいつも、彼がしてもいないこと、言ってもいないことで批判を受けているような印象だ」
 プーチンソ連共産党員だった。党員でなければKGBで働くことはできない。しかし、私有財産や相続権を認めるべきだと熱弁を振るっていたことからわかるように、共産主義に対しては極めて批判的だった。

 

話は北方領土問題へ

 プーチンは、話を北方領土問題に広げていった。
「たとえば、あそこを日本に引き渡したら『アメリカがそこに基地を造るんじゃないか』『そんなことになるのにどうして引き渡さなければいけないんだ』という強硬な連中もいる」
「それは絶対にあり得ないよ」と応じる森に、プーチンはたたみかけた。
「どうしてあり得ないと言えるんだ」
 森は答えた。
「ロシアと領土問題を解決したら平和条約ができる。そんなときに、条約を結んだその相手国の対岸をよその国の兵隊に守ってもらうような、そんなことをするはずがないじゃないか。そのために平和条約を結ぶんじゃないか」
「それはそれで分かる。だが我が国にはそういうことを言って反対する者もいるんだ」
 北方領土問題の解決とは、ただ島を引き渡せば済むという問題ではない。その先が大事だ。

 

贈られた六段の段位を断ったプーチン

 2000年9月にプーチンがロシアの大統領として訪日した際に、柔道の聖地・講道館を訪れた。このときプーチンは大統領に就任してわずかに四か月。一年前までほとんど無名で、前大統領エリツィンとその取り巻きに選ばれた操り人形という見方さえあったころだった。
 山下泰裕がそこで目にしたプーチンは厳重な警備にもかかわらず、すでに自分の柔道着を小脇に抱えていた。
「どこで着替えたらいいかな?」
柔道着に着替えたプーチンは、道場であいさつの言葉を語った。
講道館に来ると、我が家に帰ったような安らぎを覚える」
プーチンは切り出した。
 山下は当時を振り返って「あの場にいた全員がしびれました」と語る。
それだけでは終わらなかった。講道館の行事の最後でのことだった。
講道館はこのとき、プーチンに六段の段位を贈った。黒帯を外して、六段以上の者だけに許される紅白の帯を締めるよう促されたプーチンは、なぜかそれを断った。少しがっかりした空気が道場に広がるのを予期していたかのように、プーチンはマイクをとった。
「私は柔道家だ。六段がどれほど重いものかをよく知っている。大変光栄なことだが、ただ残念ながら、私の実力はまだこの帯を締められる水準に達していない。ロシアに帰ったらさらに練習を積んで、早くこの帯を締められるような柔道家になりたい」
万雷の拍手。山下は「あのときその場にいた全員が、大統領のことを大好きになった」と振り返る。

 

 富豪ぞろいのお友達人脈

 もちろんいいことばかりではない。プーチンとの個人的関係が利権に結びついているとみられることもある。メドベージェフ首相、イワノフ大統領府長官ら、プーチンサンクトペテルブルクで知り合った有力政治家らが「表の人脈」だとすれば、ビジネス界に張り巡らされたプーチンの友人たちは、表舞台に出ることが極めて少ない「裏の人脈」と言うことができる。主要なロシアメディアは彼らのことをほとんど報じない。プーチン政権は、チェチェンの復興、ソチ五輪、2018年のサッカーW杯、併合したクリミア半島のインフラ整備など、巨大なプロジェクトに次々に取り組んでいる。そうした利権を「お友達」が分け合っている構図が浮かび上がる。

 

プーチン山下泰裕へ贈った言葉

「山下さん、ロシアと日本との間には前々から難しい問題が一つある。でも、これ以外の問題は何もない。そして、これ以外の問題を作ろうという気持ちもまったくない。だから何も心配しないで、安心してほしい」
 プーチンは続けた。
「その難しい問題も、ロシアと日本が知恵を絞れば必ず解決できる。そして、この問題を解決できれば、ロシアと日本の間には何の問題も存在しなくなる。その日が来ることを願って乾杯しよう」

 

プーチンは今後、欧州との関係をどう立て直していくのか。それに欧州側はどう応え、米国はどう反応するのか。複雑な思惑が交錯するなか、ロシアの隣国であり、北方領土問題を抱える日本にも外交の創造力を問われる局面が遠からずやってくるに違いない。