きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

太宰治の人と文学 ① 津軽屈指の大地主の子として

 

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太宰治の人と文学


相手に語りかける話体

 太宰の文学はどんな小説でも、君よ、あなたよ、読者よと直接作者が呼びかけてくる潜在的二人称の文体で書かれている。この文体に接すると読者は、まるで自分ひとりに話しかけられているような、心の秘密を打ち明けられているような気持ちになり、太宰に特別の親近感をおぼえる。そして太宰治は自分と同じだ、自分だけが太宰の真の理解者だという同志感を持つ。

 

大地主の父は地方の名士

 太宰治明治42年(1909年)、青森県北津軽郡金木村に生まれた。生家の津島家は、津軽屈指の大地主、富豪で、父の源右衛門は貴族院議員、衆議院議員にもなったこの地方の名士であり、金木の殿様などと言われた。
 太宰は源右衛門の6男(11人兄妹のうち10番目の子供) で、父は事業にいそがしく、母のタ子(たね)は病弱であったため、もっぱら叔母や乳母や子守によって育てられた。

 

搾取による暮らしからマルキシズム

 生家が津軽屈指の大地主であり、30人もの使用人に囲まれ、定紋入りの馬車で往復し、学校でも特別扱いされたとすれば、幼い彼が自分の家は特別なのだという貴族意識を抱いたとしても無理はない。しかし津島家が農民に金を貸し、抵当にした田地をとりあげ急速に大金持、大地主になった新興成金であること、彼の周囲の貧しい農民や友だちの家からの搾取によって自分の家の富や恵まれた暮らしが成り立っていることを知るに及んでうろたえ、なやみはじめる。
 その上、当時浸透してきたデモクラシー、マルキシズムの思想を学び、大地主の子であることに強いうしろめたさ、罪意識を抱くにいたった。
 弘前高校を経て、東大仏文科に進み、大地主の生家からの多額な仕送りで、デカダンスな生活を享楽しながらもうしろめたさは募り、非合法共産党へのカンパから、ついにマルキシズムの政治運動に参加するようになった。

 

反逆意識をはぐくむ太宰

 そこには6男坊であったという第三の要因もからみあっている。日本の家父長制度の家では、あととりの長男だけが重んじられ、6男の太宰などは居ても居なくてもよいオズカス(叔父の糟)として、まともに扱われなかった。あの広い生家に太宰の部屋もなく、父母の愛を知らなかった彼は下男や召使たちにむしろ親しんだ。それが太宰の余計者意識、アウトサイダーとしての反逆意識をはぐくんだ。長兄たちのように、まじめで取澄まし礼儀正しく偽善的に生きることを拒否し、違う道を自分の信じる主観的真実の道を行こうと決意する。

 

共産主義の道を選ぶも

 大地主である生家や長兄たちに反逆し、生家の人々がもっともおそれた共産主義運動に参加するナロードニキの道を選んだのも、そういう6男坊のオズカスという境遇がかりたてたとも言える。しかしすべてを捨てて、とびこんだにもかかわらず、太宰は政治運動に深い違和と絶望をおぼえる。革命のため手段を選ばぬ政治活動に、彼の心は傷つき耐えられなくなる。自分は輝かしい革命の兵士にはなれない、滅ぼさるべき大地主の息子、滅亡の種族なのだと痛切に自覚する。
 もっとも愚劣なかたちで、自らを滅ぼすことだけが、社会への唯一の奉仕だと思い込み、昭和5年、21歳の時、運動から逃亡し、その夜知り合ったばかりの女性と3日後鎌倉の海で投身自殺をはかる。だが女だけ死に、太宰は救助される。

 ナロードニキ
1860年代及び70年代にロシアで活動した社会運動家の総称。農民の啓蒙と革命運動への組織化により帝政を打倒し、自由な農村共同体を基礎にした新社会建設を目指した。

*上記は『人間失格』(新潮文庫)の巻末にある奥野健男の解説より抜粋