きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

本を読むことの大事さ

 

ユリイカ2009年 特集 米原万理
[対談] 米原万理 × 沼野充義
読書について

 

ユリイカ2009年1月号 特集=米原万里

ユリイカ2009年1月号 特集=米原万里

 

 

米原万里(よねはらまり)

ロシア語通訳、エッセイスト、作家。(1950 - 2006)
東京都出身。9歳のとき、家族でプラハへ移住。5年間、在プラハソビエト学校で学ぶ。75年、東京外国語大学ロシア語科卒業。76年、東京大学大学院修士課程修了。その後、ロシア語通訳の仕事を開始。エリツィンゴルバチョフにも信頼される通訳として活躍したのち、文筆業に専念する。『不実な美女か貞淑な醜女か』で読売文学賞、『魔女の1ダース』で講談社エッセイ賞、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で大宅壮一ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。

 

沼野充義(ぬまのみつよし)

1954年東京都出身。日本のスラヴ文学者。東京大学教授。専門はロシア・ポーランド文学。現代日本文学など世界文学にも詳しい。妻の沼野恭子ロシア文学者(東京外国語大学教授)。『徹夜の塊』でサントリー学芸賞芸術・文学部門、『ユートピア文学論』で第55回読売文学賞をそれぞれ受賞。

 

読書について

ユリイカ」2009年米原万里特集号の沼野充義との対談では読書について語られ、そのなかで本を読むことの大事さについても述べられています。その一部を以下に抜粋しました。

沼野 日本の国語教育と際立って違うところとしては、ともかく作品をたくさん読まされるということがありますね。日本の場合、国語教育といっても実際の文学作品をまるごと読んで鑑賞することはほとんどなくて、読むにしても断片で、それについての設問に対して決まったパターンの解答を書け、という風になってしまう。

米原 プラハソビエト学校では、文法と文学を毎日学ぶ。文学作品を大量に読まされる。また図書館で借りた本を返す時にその本の内容を司書のおばさんに話さなければいけなかったんです。そのおばさんがまたものすごく怖くて厳しい人で、ただ「面白かった」とか「感動した」とか言うのでは絶対に許してくれない。そうした感想ではなくて、その本を読んでいない人たちに客観的に伝えられるように語ってみせなくてはいけないんです。

米原 本によって私はロシア語を身につけられたし、日本に帰ってからも本を読み続けることでロシア語を忘れないでいられた。日本語にしても、やはり日本から離れることで子供たちの日本語がおかしくなるのを両親が心配して船便で日本語の文学全集を送ってくれたんです。全巻を20回くらいは読んだと思います。その読書のおかげで、私は日本語を忘れなかった。ロシア語にしても日本語にしてもすべて本のおかげだと思っている。

沼野 これは私が好きな現代ロシアの詩人、ヨシフ・ブロツキーノーベル賞受賞講演(1987年)の一節なんですけど、これはまさに、対談のなかで米原さんがおっしゃった、本を読むことの大事さについて触れているものですので、私の拙い翻訳ですが紹介します。

 もしわれわれが支配者を選ぶ時に、候補者の政治マニフェストではなく、読書体験を選択の基準にしたならば、この地上の不幸はもっと少なくなることでしょう。そう私は信じて疑いません。われわれの支配者となるかもしれない人間にまず尋ねるべきは、外交でどのような路線をとろうと考えるかということではなく、スタンダールディケンズドストエフスキーにどんな態度をとるかということである。 ー 私はそう思います。文学の日々の糧が人間の多様さと異様さだということ。そのことひとつをとっても、文学が結局、人間存在の問題を全体的に、大衆的に解決しようとするどんな方法に対しても解毒剤となることがわかるでしょう。少なくても、道徳的保証の体系として、文学はどんな信仰の体系や哲学の教義よりもはるかに効果的なのです。
 文学に対するさまざまな犯罪のなかで、作家の迫害、検問による規制、焚書といったことが一番重い犯罪だというわけではありません。もっと重い犯罪があるのです。それは本を軽視すること、本を読まないことです。

米原 いまの引用で思い出したんですけど、そういえばサダム・フセインが洞窟で捕まった時に読んでいた本が『罪と罰』でしたね。それで小泉首相の愛読書は『あゝ同期の桜』だっていうじゃないですか?(笑)