きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

「学ぶ力」 内田 樹

 

学力低下」という事態の本質は
「プライドが高い」ことにある

 

 

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内田 樹(うちだたつる)
1950年東京都大田区生まれ。日本の哲学研究者、コラムニスト、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学人文学部客員教授東京大学文学部卒。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。主な著書に『寝ながら学べる構造主義』『先生はえらい』『下流志向』『日本辺境論』などがある。
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下記の文章は、内田樹氏が「学ぶ力」とはどのようなことかを論じたものです。学力とは「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化をいい、「プライドが高い」ことが「学力低下」という事態の本質だという。以下は、オリジナル文章より抜粋しています。
*出典:小論文セミナー配布資料より

 

学ぶ力

「学力」とは何か

 日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。この機会に、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。
 そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人が、ほとんどだと思います。本当にそうでしょうか。学力はそのような数値だけで捉えるものではありません。「学力」を訓読みしたら「学ぶ力」になります。私は学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」として捉えるべきだと考えています。数値として示して他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。

 
点数化できない能力

 例えば、ここに「消化力」が強い人がいるとしましょう。ご飯をおなかいっぱいに詰め込んでも食休みもしないで、すぐに次の活動に取りかかれる人はまちがいなく「消化力が強い」といえます。しかし、それを点数化して他人と比べたりしようとはしないはずです。「睡眠力」や「自然治癒力」というのも同様のものだと思います。私は「学力」もそういう能力と同じものではないかと思うのです。

 
昨日の自分と比べたときの変化

 「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。人間が生きていくために本当に必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。

 
無知の自覚

 「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。「無知の自覚」といってよい。これが第一です。「私は知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。


教えてくれる「師」を見つける

 第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、誰に教わったらいいのかわからないという人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
 ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です。会っても言葉が通じない外国の人だったり、亡くなった人だって「師」にしていいのです。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでも、かまいません。生きて暮らしていれば、いたるところに師あり、ということになります。ただし、そのためには日ごろからいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。

 
「師」を教える気にさせる

 第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。こちらには学ぶ気がある。師には「教えるべき何か」があるとします。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
 どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。師を教える気にさせるのは「お願いします」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。

 
私は学びたいのです

 この3つの条件をひと言で言い表すと、「私は学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これが私の考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、これを口にできない人は「学力がない人」です。

 
学力低下」の本質

 「学びたいのです。先生、教えてください」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞(せりふ)は言わずに済ませたい。誰かにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そのように思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうと私は思っています。自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。みなさんの健闘を祈ります。

 

 

*下記著書は今回の記事とは関係ありません

街場の読書論 (潮新書)

街場の読書論 (潮新書)

 
下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

 
 

 

 

 

 

 

 

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