『読書脳 ぼくの深読み300冊の記録』 立花 隆

 

 

「読書日記」6年分を収録

 電子書籍と紙の本では脳の働きが違う。本のデジタル化によって「読む」という行為が、そして「知」の世界が大変貌しつつある。石田英敬東大図書館長と「読書の未来」を語り尽くした対談と「読書日記」6年分を収録。
 知の巨人の幅広い読書は簡単にマネの出来るものではないのですが、本書に紹介されているたくさんの本の中から『モスクワ攻防戦』と『世にも奇妙な人体実験の歴史』の2冊を下記に取り上げてみました。

 

立花隆の本の選び方

 馴染みの書店は、近所の書店2軒と神保町の東京堂書店三省堂書店、新宿紀伊国屋書店東大生協など。選ぶいちばんの基準は広義の「面白い」ということに置いている。娯楽本やフィクションは基本的に選ばない。二十代の頃はけっこうフィクションも読んだが、三十代前半以降、フィクションは総じてつまらんと思うようになり、ほとんど読んでいない。人が頭の中でこしらえあげたお話を読むのに自分の残り少ない時間を使うのは、もったいないと思うようになったから。

 

「読書の未来」対談(抜粋)

石田 キンドルを使っているんですが、新書程度の軽い読み物は充分読めますよ。ただしそれ以上の、たとえば専門書だと、とても読む気になりません。

立花 自分がかつて読んだ本を思い出すと、紙がクリーム色だったか、書体はどうだったか、手触りの感覚はどうかといった即物的なことが妙に記憶に引っかかっています。そういう情報が失われた電子書籍には、あまり近しさを感じられませんね。
でも、紙の本に比べて圧倒的に軽いところが電子書籍のよさですよ。

立花 歳を取って最近よく感じるのは、昔すごく読むのに苦労した本を読み返すとなんでもなく理解できてしまうことです。

石田 私が大学一、二年の学生によくいうのは「100%理解できるような本は読んでもしょうがない」ということです。高校生のときにヘーゲルの『精神現象学』を読みましたが、もちろんちんぷんかんぷんでした。それでも我慢して読んだ。

立花 たしかに人間、わからないものに挑戦しないと、知性が鍛えられませんね。若いときほど知的な背伸びが必要だと思います。

 

『モスクワ攻防戦』

 第二次大戦というと、はじめは独ソ不可侵条約があったから、ソ連は中立的な立場。日本もアメリカも参戦していなかった。第二次大戦はあくまでヨーロッパの戦争としてはじまり、英仏VS独が中心軸だった。すべてが変わるのは、1941年6月、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵入してから。3~4カ月でモスクワを落としてみせるとヒトラーは豪語した。スターリンは全部隊に「一歩もひくな」と命令を出し、その命令に従わない者は反逆者とみなし、その場で射殺せよと命令した。退却せんとする兵を片っ端から殺した。
 ソ連軍戦死者190万人、ドイツ軍戦死者60万人にものぼった。第二次大戦中最も凄惨な戦いだった。モスクワは陥落寸前まで追いつめられた。しかし、敗北必死のこの状況をひっくり返したのは、10月16日に初雪が降り、間もなく吹雪になった冬将軍の訪れだった。冬服がないドイツ兵はアッという間に戦闘力を失った。戦車装甲車トラックは動きがとれず、飛行機も飛べず、機関銃も凍りついた。
 そこに対日戦争にそなえて満州国境地帯にはりついていた完全冬装備の極東軍がシベリア鉄道で10万人単位で運ばれてきて、一挙に戦局を逆転する。
 この大逆転をもたらしたのは、日本にいたスパイ、ゾルゲの情報だった。ドイツ人だったゾルゲは、駐日ドイツ大使館と日本の政治中枢に深く喰い込み、日ソ戦争の可能性を探っていた。ドイツは日本にソ連と開戦し、ソ連を東から攻めて挟み撃ちにするよう強く求めた。しかし日本は、むしろ南方に進出して、蘭印の石油を取りにいく作戦を優先させる方針を最高レベルで決定した。この情報をゾルゲは近衛首相の側近から得て至急報で伝えてきた。
 このモスクワ戦をきっかけに、英米ソ連支援がはじまり、日独伊と英米ソが対決する第二次大戦の図式ができたのだ。

 

『世にも奇妙な人体実験の歴史』

 私は心臓の冠動脈に疾患をかかえている。カテーテル(ステント)を血管に入れたままにして心筋梗塞を防いでいる。こういう技術を可能にした最初の実験は、1920年代。フォルスマンというインターン医が、馬の首から心臓にカテーテルが挿入されるのを見て、人でもできるはずと、自分の腕の血管を切開して、長さ65cmのカテーテルを挿入した。そのままレントゲン室へ歩いていき、カテーテルを心臓まで導いた。この実験結果がX線写真付きで公表されると、大騒ぎになり、フォルスマンは病院をクビに。それから27年後フォルスマンはノーベル賞を取った。

 

 

 

幕末の思想 「水戸学」

 

幕末の思想は
尊王攘夷を基本に
民衆が近代の扉を開いた

 

ペリー来航にはじまる

 幕末という独自の時代の空気の中で登場し、育まれていった一群の思想が存在しました。そんな幕末の思想は、ペリー来航に始まったといってもいい。幕府はペリーの威圧に屈して翌年、日米和親条約を締結し、開国に至りました。さらに、1858年には駐日総領事ハリスの要求により、日米修好通商条約の締結に踏み切ります。これを機に尊王攘夷運動が激化していったのです。

 

明治維新に影響を与えた水戸学

 尊王攘夷運動の中心を担うことで、明治維新に大きな影響を及ぼしたといえる思想が水戸学でした。もともとは水戸藩徳川光圀の『大日本史』編纂に端を発する思想です。その形成に寄与したのが、藤田幽谷、藤田東湖徳川斉昭、会沢正志斎といった人物でした。
 藤田幽谷は、天皇を頂点とする国家体制の必要性を説きました。これを名分論といいます。そして対外的危機における攘夷とこの国家体制を連動させて論を展開、これによって尊王攘夷論の基礎をつくったとされます。藤田東湖は幽谷の子で、腹心として水戸藩と水戸学の発展に貢献しました。
 徳川斉昭は、水戸藩主として水戸学の象徴ともいえる弘道館を設立した人物です。幕府においても海防問題を担当し、開戦になった場合の心構えである「海防愚存」を提出するなど、攘夷派を代表しました。
 会沢正志斎は、弘道館の初代総裁として、水戸学の理論を確立した思想家です。主著ともいえる『新論』は、武士層に強い影響を与えたといいます。

 

神道儒教が結合

 このように様々な人物が水戸学を形成してきたわけですが、一般的特徴として水戸学は、神道儒教が結合した「敬神崇儒」を理念として掲げています。日本を神州とし、アマテラスを起源とする皇統の連続性を強調すると同時に、国学儒学の理念との一致を説くのです。そして、藩士が藩主に従うことが幕府への忠誠を意味し、それはひいては天皇に対する忠誠につながるとする「尊王攘夷」を訴えました。

 

日本独自のイデオロギーの必要性

 では、そんな水戸学が、いかにして明治維新に影響を及ぼすことになったのか。一つには水戸学が列強の進出を単なる軍事的脅威ととらえるのではなく、キリスト教というイデオロギーの問題、いわば思想面での脅威であると指摘したことです。つまり、キリスト教の布教によって、内部から支配されてしまうことを避けるために、日本独自のイデオロギーが必要であると説いたのです。最終的にそれが尊王攘夷へとつながっていったわけです。

 

多くの立役者を育てた吉田松陰

 この水戸学の理念を具体的に革命として実行しようとしたのが、長州・萩の松下村塾で有名な吉田松陰です。この私塾での講義を通じて、松陰は高杉晋作伊藤博文ら多くの明治維新の立役者たちを育てました。松陰は、国家的危機に直面していながら、自分のことだけを考えるのは許されないと語り、在野の民を意味する草莽に対して、一斉に立ち上がるよう訴えかけました。いわゆる草莽崛起です。最期は自らも「先駆として死ぬ」という覚悟のもと、大老井伊直弼にたてつき、安政の大獄で刑死します。まさに革命に身を投じた人生でした。

 

民衆の目を覚まさせた

 幕末の思想は、基本的に尊王攘夷を共通の目的にしていたわけですが、それがもたらした結果にはもっと大きな意義があります。つまり、その運動自体が、幕府の庇護のもと長い眠りについていた民衆の目を覚まし、市民が主役となる、近代への重い扉を開くことに寄与したのです。

 

 

世界のエリートが学んでいる教養としての日本哲学

世界のエリートが学んでいる教養としての日本哲学

 

 

 

『はやぶさ、そうまでして君は』 日本の宇宙開発

 

 

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KAGAYAギャラリー提供画像

 

日本の宇宙開発の
歴史を変えた
前人未到のプロジェクト
その全容がここに

 

小惑星探査機「はやぶさ

どうして君は、それほどまで、我々の指示に応えてくれるのか?
地球に向かう軌道の精確さ、大気圏再突入の精確さを追求することは、自身の最後、熱に焼かれて燃え尽きるという、残酷な運命を徹底することにつながるというのに。そして、その冷酷なシナリオを書いているのが、我々だというのに。
どうして、そうまでして君は ...

感動の物語の発端は、1986年の飛行計画構想からはじまった。

 

生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話

 2010年6月13日、7年間の航海の末に地球に帰還した小惑星探査機「はやぶさ」は大気圏に再突入し、摩擦熱により焼失、見事にその使命を果たし終えました。上の写真は「はやぶさ」が燃え尽きる様子を、オーストラリア南部のウーメラ砂漠で撮影した写真です。
 本書は「はやぶさ」プロジェクトの発端から、開発、打ち上げ、そして7年間の航海の間、著者が何を考え、どのように運用してきたかを書き綴ったものです。
 NASAとの交渉、何度も死にかけ、交信の途切れた「はやぶさ」、遠のくサンプル採取、そして満身創痍の筐体があまりにも長い60億キロの旅から帰還するまでの物語。祈り、神、運命が交差する現場。決して涙なくしては読めません。

 

誰かの模倣で終わらないために

 みんながそっちへ行くなら、私はこっちへ行く。「こうしなさい」と言われたら、別のやり方をする。高村光太郎ではありませんが「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」、そうなったら素晴らしいと思います。
 何かを学んだり、習得しようとした時、こうした姿勢はきわめて非効率になります。みんなが道しるべに従って一時間で行くところを、一人で藪をかき分けながら五時間かけていくみたいなことになります。あるいは周囲から「素直じゃない」という評価を受け、疎んじられたりするでしょう。しかし、そんなことには動じない、むしろ、そのほうが気分がいいというくらいにハラをすえてしまうのです。(「はやぶさ」式思考法)より

 

著者からのメッセージ

① オリジナリティとは、ゼロから生まれるものではなく、既存の技術を身につけたうえで、目的に合わせて改良する過程で生まれるものです。

② 最悪ということは、次に変化があるとしたら、間違いなくプラスの変化です。

③ 高い塔を建てなければ、新たな水平線は見えてこない。

④ カプセルから見つかった約1500個のイトカワ由来の微粒子という幸運

 

はやぶさ」が神様に愛されているとしか思えないほど、幸運だった、と。
著者の川口さんが、再突入の際にこんな歌を詠んでいます。

まほろばに 身を挺してや 宙繚う(そらまとう) 産の形見に(うぶの) 未来必ず

 

 

はやぶさ、そうまでして君は〜生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話

はやぶさ、そうまでして君は〜生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話

 

 

 

『おろしや国酔夢譚』 井上 靖 

 

幕末の開港前に
日本と
ロシアでは
民間レベルでの
交流があった

 

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)

 1782年、船頭大黒屋光太夫ら17人の男と、廻米・木綿等を積んだ神昌丸は伊勢から江戸へ向かった。9か月後、彼らが流れ着いたのは、北の果てカムチャッカだった。望郷の思いに、ひたすら故国への途を求め、彼らは極寒のロシアを転々とし、終いにはペテルブルクへ。出航から10年近い歳月が流れていた。鎖国の世、漂流して異国へ渡った男たちのロマン溢れる冒険譚。

 

言葉を覚え、船を作る

 光太夫は、現地でロシア人と生活をともにしながら語学を習得。4年後、難破船などの材木をかき集めて船をつくると、ロシア人漂流民たちを乗せて脱出します。沖船頭を務めていた光太夫は、船の知識と指導力を発揮します。

 

ラクスマンとの出会い

 やがてたどり着いたイルクーツクで出会った博物学者キリル・ラクスマンは、日本に興味があったため極めて協力的でした。光太夫らは彼の手引きでサンクトペテルブルクに向かうとエカテリーナ2世に謁見、幸運にも帰国を許されました。

 

約10年後の帰国

 その後、根室に上陸しますが、漂流してから約10年の月日が流れていました。もっとも出航時いた17名のうち、12名はロシア領で死亡し、結局、江戸に送られたのは光太夫と磯吉のふたりだけでした。帰国後、光太夫は十一代将軍・徳川家斉の前で尋問を受け、その記録により後世に名が伝わります。そして光太夫がもたらした情報で北方での警戒に懸念を抱いた幕府は、蝦夷地防衛に乗り出していくことになります。光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に家を与えられ、余生を過ごしました。

 

エカテリーナ宮殿での撮影

 井上靖の『おろしや国酔夢譚(おろしやこくすいむたん)』は、映画化になりました。ロシア協力のもと45億円をかけた大規模なロケが行われたのですが、1991年のソ連崩壊の時期に重なり、緊張の続く撮影だったそうです。それにしてもエカテリーナ宮殿での撮影ができたのは奇跡的ですね。いまだったら不可能でしょう。それと当時のサンクトペテルブルク市長がサプチャークで、対外関係委員会議長はウラジミール・プーチンだったそうです。大黒屋光太夫といい、映画化における撮影においても絶妙な日露関係でした。

 

 

おろしや国粋無譚 [DVD]

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新装版 おろしや国酔夢譚 (文春文庫)

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『ガリバー旅行記』 ジョナサン・スウィフト

 

ガリバー旅行記

大の冒険好きで船医のガリバーが乗った船が大嵐にあいました。ある島で目覚めたガリバーはびっくり!  こびとがまわりにぞろぞろ。そう「こびとの国」だったのです。

 

人間観察と風刺

 『ガリバー旅行記』では、スウィフトはガリバーを「小人の国」「巨人の国」「学者の国」「不死の国」「馬の国」へと現実にはない国々(日本を除いて)に漂流させ、人間を様々な角度から観察し、また風刺しています。
(1) 寸法を変えてみる
(2) 科学技術のもたらす問題
(3) 異文化との接触による自己の相対比
(4) 動物から見た人間観 
など、スウィフトの複眼的視野があります。

実は国家論の展開

 ガリバー旅行記の18世紀は、市民社会の成立とともに、王・貴族・人民のせめぎあいのなかで政治体制が混乱した時代にありました。スウィフトは、王がいて議会があり国王の権限が議会によってコントロールされる政治体制を理想としたと言われています。
 小人国、巨人国、学者国、馬の国すべて国家論を展開しているのは当時、スウィフトが、政治体制に強い関心があったことを示しています。
 彼はイングランドから締め出され、アイルランドにおけるイングランド人の利益を代表していました。小人の国は当時の英国の縮図で、商業によって成り立ち、戦争、政争、宗教対立に明け暮れていたのです。一方、巨人の国は、農業で成り立ち、宮廷でも農夫でも家庭がきちんと存在し、人々が温かく親切です。スウィフトは巨人の国にユートピアに近いものを表現しようとしたのかもしれない。
 キリスト教の禁欲から「快楽」がプラスの価値概念になり始めた時期で、快楽の増大(富)と行き過ぎた理性(馬の国)を牽制しながらスウィフトは、具体的な個々人の「幸福」に視点をおいていました。

 

ガリバーが訪れた唯一の国が日本

 旅行記のなかで、ガリバーが訪れた唯一の国が日本でした。他はすべて架空の国なのになぜ日本を入れたのでしょうか。当時日本は鎖国状態にあり、ヨーロッパ人には、日本はまだ「想像の国」だったのかもしれません。ヨーロッパの小説ではじめて日本が取り上げられたのはこの『ガリバー旅行記』だと言われています。
 しかし、スウィフトの意図は当時、日本との貿易については、オランダが独占しておりイギリスは激しい競争の末、撤退を余儀なくされた経緯がありました。スウィフトはヨーロッパの植民地への進出には批判的でしたが、とくにオランダに対しては、日本で「踏絵」をしてまでも日本の貿易で甘い汁を吸おうとしていることへの風刺のためにこの章を追記したと言われています。

 

スウィフトと夏目漱石

 漱石はロンドン留学時に、イギリス文学を研究していました。その中でも、スウィフトの『ガリバー旅行記』は優れた皮肉や風刺に満ちた文学作品で最も称賛していました。「子どもにも読めれば、大人にも読んで趣味を覚える」という漱石の指摘はその通りで、その点は漱石の『吾輩は猫である』にも通じるものがあります。
 漱石の「猫」は知的な皮肉やユーモアにあふれた小説で、また魅力的な人物が描かれています。子どもは猫が話しているという滑稽な状況を想像して楽しめるし、大人は諸先生のいい加減な会話を楽しめます。
 また『坊っちゃん』は優れて政治的な小説であり、『ガリバー旅行記』も政治的なテーマが色濃く、漱石がスウィフトに影響を受けたと考えられています。

 

ワンピースのモデル

 1998年から連載が開始の『ワンピース』は『ガリバー旅行記』がモデルとして共通項が多い。ワンピースの物語の展開手段が似ているといいます。巨人の島も出ており、島を冒険するたびに全く新しい世界と物語が生まれるところや、冒険を通じて世間に訴えようとしています。ラフテルという島が『ガリバー旅行記』にも出てきます。ほかにスタジオジブリ制作の『天空の城ラピュタ』や、Yahoo!(ヤフー)の命名も『ガリバー旅行記』からきているそうです。ガリバーの影響力ってすごいですね。

 

(白鳥義博さんの投稿記事より引用)

ガリバー旅行記 (講談社青い鳥文庫 (159-1))

ガリバー旅行記 (講談社青い鳥文庫 (159-1))

 

 

 

 

 

『ぼくはこんな本を読んできた』 立花隆の読書論

 

立花隆の「知の世界 」
構築のノウハウ

 

純粋的知的欲求が「文明社会」を築く

 ギリシャの哲学者であるアリストテレスの『形而上学』に「人間は生まれながらにして知ることを欲している」とあり、人間というのは、最も基本的な欲求として、知りたいという欲求を持っている。これはほとんど人間の本能といっていい。人間はそういう純粋知的欲求を強く持っていたから、こういう「文明社会」を築くことができたんだという。

 

文学離れ

 文学書を読んでいたのは学生時代だけで、それ以降はほとんど読んでいない。文学離れの理由は簡単で、要するに文学を読むことが面白くなくなったとうことにつきると。文学や哲学、社会思想といった関係の本は沢山読んでいたけれども、いわゆるノンフィクションはほとんど読んでなかった。そういう知的欠陥を会社に入ったとたんに先輩社員から指摘された。文学離れを起した読者たちはフィクション以上に面白いノンフィクションがいくらでもあることに気がついたのだと思います。

 

本来の意味の古典とは

 読書論というとすぐ古典を読めという人が沢山いるが、古典を数多く読んでいる著者はこれに否定的だ。また何を持って古典とするかをはっきりさせないといけないと。
 本来の意味の古典とは、クラシックスという言葉が意味するもので、ヨーロッパでクラシックスといえば、ギリシャ、ローマの古典を指す。東洋の場合には、四書五経などの漢籍がそれにあたる。日本でいえば万葉から平安朝文学くらいまでだと。多少拡大した意味に使って中世まで、日本では『平家物語』あたりまで、ヨーロッパでは『アーサー王伝説』とか、宗教的なものでいえば、トマス・アクイナスの『神学大全』だとかそのあたりまで、つまりルネサンス以前くらいまでしか本来の意味での古典には入らない。やっぱり真の古典という名に値するものは500年、1000年という単位でふるいにかけられて残ったものでなければならないという。

 

立花隆流の語学習得法

 本はいちどきに購入してしまったほうがいい。独学で一番難しいのは、志を持続させることだが、そのためには前もって相当のお金を使ってしまったこうがいいと。語学に関していえば、集中的にやったほうがいい。週2回1年間やるよりは、毎日1カ月間やったほうがいい。ただひたすらそれに熱中するという形でやれば、1カ月間で一応モノになる。大学書林で出している「××語四週間」というシリーズで本気でやったら必ず四週間でできると。この場合のできるとは、辞書と文法書を片手になんとか一人で本を読んでいけるという程度の段階。

 

学生時代に読んだもの

 学生時代に読んだものの一部。『決定版世界文学全集』。スタンダールバルザックフロベールドストエフスキートルストイモーパッサン、ハーディ、ロレンス、ヘッセ、ヘミングウェイなど。『現代世界文学全集』や『新版世界文学集』ではゾラ、ジイド、リルケスタインベックモームトーマス・マン、モーリャック、ロマン・ロラン、マルローなど。それから『世界名詩集大成』全二十巻。『立原道造全集』、『萩原朔太郎全集』、『ボードレール全集』など。また谷崎潤一郎川端康成太宰治石川淳武田泰淳大岡昇平小林秀雄三島由紀夫大江健三郎、安倍公房、深沢七郎などなど。書ききれない。

文学を読んだことの影響

 ものを書いて食っていくという仕事を選んだということが、すでにそういう影響なんじゃないかなと。読まないと文章って書けない。まず、消費者にならないと、ちゃんとした生産者になれない。それと、文学を経ないで精神形成をした人は、どうしても物の見方が浅い。物事の理解が図式的になりがちなんじゃないかな。文学というのは、最初に表に見えたものが、裏返すと違うように見えてきて、もう一回裏返すとまた違って見えてくるという世界でしょう。表面だけでは見えないものを見ていくのが文学だという。

 

ノンフィクションの面白さ

 著者の立花隆は、文藝春秋社に入社してからノンフィクションの面白さに目覚め、小説を読むのを止めてしまった。自分がいかにモノを知らなかったか痛感したという。また人生の残り時間を、人が頭の中でこしらえた話しを読むなんてもったいないとも。確かにそうかもしれない。フィクションよりリアルな現実の方がはるかに面白い。
 ただ、それは人間の基礎をつくり、精神形成に必要な文学を、学生時代に大量に読み込んできた著者だから言えることなのですね。

 

 

ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論 (文春文庫)

ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論 (文春文庫)

 

 

 

 

『慶應幼稚舎』 福澤諭吉の教育思想

 

独立自尊」という理念
個人が平等であることを担保とするためには、一人ひとりが独立していなければならない。個人の独立があってはじめて国が独立できる。

 

実は「体育会系」

 慶應幼稚舎と聞くと、セレブな家庭の子どもが通う学校、親は大企業の社長や老舗の経営者ばかりで、エリート教育をおこなっている私立小学校(幼稚園ではない)というイメージを持つかもしれない。箸より重いものを持ったことがない、ひ弱な子どもという印象ですが、実は教育方針も幼稚舎に通う子ども自身も「体育会系」なんです。
「先ず獣身を成して後人心を養え」
 人としての心をはぐくむよりも先に、丈夫で健康な身体に育てる。これがこの学校の創業者の教育方針なのです。

 

東大入試よりも難しい幼稚舎入試?

 慶應幼稚舎の入学試験は東京都内の私立小学校の中でも最難関と言われる。百数十名の定員に対し、毎年二千人以上の応募がある狭き門。「慶應幼稚舎に入学するのは慶應義塾大学に入るよりも難しい」という人もいるし、なかには「東大に入るよりも難しい」という人もいる。お受験のための予備校、お教室に入るのが必須だとも。しかし、その入学試験には「ペーパー試験」がない。そして親の面談もないし、願書には親の職業や学歴さえ書く必要もないという(それでも備考欄に親の詳細を書く人が多いらしい)。あるのは「行動観察」と「制作」の試験のみ。実際は模倣体操やお絵かきなど。

 

唯一のノルマは1キロメートルの遠泳

 高倍率の入試をみごと突破した子どもたちは、その後どんな教育を受けることになるのだろうか。実は、福澤諭吉の教育観からそれほど勉強に力を入れているわけでもないらしい。だから学科の成績が下位に低迷する子どももいるという。そのかわり、体育の授業には力を入れている。水泳の授業は重点的におこなわれ、在学中に1キロメートルの遠泳ができるようになることが求められる。

 

6年間クラス替えがない

 入学時にK組、E組、I組、O組の4クラスに分けられ、6年間クラス替えがなく、担任の先生もずっと同じ。クラスごとに教育方針が違い、担任に大きな裁量権が与えられている。クラスはどう編成されるのか。K組には「慶應ファミリー」の子どもが多く集まるという。父親か祖父が有名企業のオーナー経営者で慶應卒というケース。一方で、O組には開業医の家の子どもが多い。将来、後を継ぐための医学部進学組。だから、O組は勉強に重点を置いたクラス。E組とI組は中間にあたる存在。サラリーマンの子どもたちか。

 

 

福澤諭吉の教育思想

 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも登場する秋山好古は、自分の子どもはもちろん、親戚の子どもの多くも慶応幼稚舎で学ばせた。福澤諭吉を尊敬していたという。小説の中でも、正岡子規の「この世の中で... たれがいちばんえらいとお思いぞな」という質問に「あしは会うたことがないが、いまの世間では福澤諭吉というひとがいちばんえらい」と答えている。
 当時は下級士族がどんなに勉強しても、立身出世の見込みはなかった。それが封建制度であり、上級士族の子どもは小さいころから威張り散らし、下級士族の子どもが逆らうことはできない。『福應自伝』には「門閥制度は親の敵」とまで書いている。
 独立自尊という理念は、諭吉の思想を理解するうえでもっとも重要なキーワード。個人が平等であることを担保とするためには一人ひとりが独立していなければならない。独立とは「権力や社会風潮に迎合しない態度」のこと。さらに個人の独立があってはじめて国が独立できる、というのが彼の思想。その根底には明治という時代背景の中で欧米の列強に飲み込まれないように国がしっかりしないといけない、という認識があるのです。

 

 

慶應幼稚舎 (幻冬舎新書)

慶應幼稚舎 (幻冬舎新書)