『江副浩正』 リクルート運命の岐路

 

なぜ彼にだけ見えたのか
なぜ彼は裁かれたのか

 

欲の連鎖が悲劇を生む

 まるでドラマでもみているようだ。500ページにもおよぶ本書は、いっきに読みすすめられた。Amazon をはじめ、多くの書評には彼への称賛の言葉が並ぶ。稀代の経営者、偉大な起業家と。しかし、ひとつの成功体験がつぎの欲を生み、学生側に立つんだ、社会のためになるんだ、という大義のかげに隠れた欲の連鎖が、この悲劇を生んだともいえる。ボタンの掛け違いから生じたこの事件も、20数年ぶりに会う野村證券リクルート担当だった廣田光次のひと言が、涙を誘う。

 

江副浩正

江副浩正

 

 

 

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江副浩正(えぞえひろまさ)
 1936年今治市生まれ。甲南中学校・甲南高等学校を経て、東京大学教育学部教育心理学科卒業。リクルートを創業し、大企業に成長させた。1988年(昭和63年)1月に会長に就任、同年6月に「リクルート事件」報道が始まり、1989年(平成元年)2月に逮捕。リクルート裁判は14年間、開廷数322回に及び、日本の裁判史上記録的であった。2003年(平成15年)3月、執行猶予付き有罪判決を受けた。2013年(平成25年)2月8日、東京都内で死去。

 

リクルート事件とは
 1980年代、情報サービス会社リクルートが、政界、官界、財界の要人に子会社のリクルートコスモスの未公開株を譲渡、贈賄罪に問われた事件。
 1985年から1986年にかけて自由民主党の有力者や野党国会議員のほか、労働省や文部省の高官、財界の大物などに対し、本人あるいは秘書名義などでリクルートコスモスの未公開株を譲渡し、店頭公開後に大きな売却益を上げさせた。
 1988年夏、神奈川県川崎市の助役がリクルートコスモス株の譲渡を受けていたと報道されたことを発端に、事件が中央政界に波及した。その過程でリクルートが政治家に多額の献金を行っていたことや、政治家主催パーティ券を大量に購入していたことが判明、国民の政治不信が一気に高まった。
 その責任をとり、1989年6月に竹下登首相が辞職した。リクルート会長の江副浩正をはじめ贈賄側4人、収賄側8人の計12人が起訴され、全員に有罪判決がくだされた。

 

 

 

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安比高原スキー場創業者江副浩正記念碑)

江副浩正の最期

 本書冒頭は、江副浩正の死とその死体検案書からはじまる。88年、リクルート事件で江副は会長職を退任する。その3年後にはリクルート株を売却、完全にリクルートを離れた。昭和の最後の日まで戦後の日本を駆け抜けた起業家は、静かに表舞台を降りた。
 2013年1月30日、江副浩正は運転手に東京駅の八重洲口まで送ってもらうと、東北新幹線の改札に向かった。最近ではめっきり歩幅が狭くなり、歩行もおぼつかない。そしてはやぶさ号は盛岡駅に滑り込んだ。江副の乗ったタクシーは凍りついた高速道路の闇を、彼が開発を手掛けた安比高原に向かって進む。この日も思い切りロング滑降に挑もうとしていた。江副のスキーはプロ級の腕前だった。
 「また来週、それでは」たった1泊の旅だった。16時24分、やまびこ48号は東京駅のホームに滑り込んだ。酔ったのだろうか、網棚にボストンバッグを置き忘れたことに江副は気が付かない。列車からホームに降りるとき、足がもつれた。ホームから改札口に向かって歩き始める。一歩を踏み出す。だが、体はそれに逆らうように、そのまま倒れた。ホームに後頭部がたたきつけられる。16時28分、脳骨が割れる音が鈍く響いた。駅係員があわてて駆け寄ってくる。だが、そのときにはすでに、江副に意識はなかった。
 病院に運び込まれて、そのまま眠り続けた江副浩正は、2013年2月8日、15時20分、息を引きとった。享年76歳だった。

 

政治好きだった江副

 60年、江副は東大卒業と同時に大学新聞広告社を興す。その2年後にはわが国最初の情報誌となる「企業への招待」を創刊した。続けて中途採用者向けに「週刊就職情報」、女性向けに「とらばーゆ」を刊行。その後は進学、住宅、旅行、車、結婚など、様々な分野で情報誌を出し、いずれも成功させた。
 高校・大学の同級生に政治家が何人かいて、彼らが政治資金集めに汲々とする姿を江副は早くから見てきた。政(まつりごと)に集中してもらうためにと、これはと思う政治家には熱心に政治献金をしていた。「献金は、リクルートのためにしているわけではない。日本のために働いてもらいたいと思って個人的にしているものだ」。江副は政治好きだった。

 

株式上場をしようと思う

 野村證券の第二事業法人部の廣田光次が江副のもとに耳寄りな情報をもたらす。「今度、店頭登録(後ジャスダック、現廃止)の公募増資規制が緩和されて、2百人の株主がそろえば 2年の実績審査を経て株式公開が可能になります。規制の厳しい1部や2部市場に比べて規制の少ない非常に自由な市場ですので、江副さんの感性にも合うはずです」。これまで所轄官庁の審査や規制に縛られず事業を展開してきた江副はいち早く反応する。『株式上場をしようと思う。土地の仕入れ資金を広く市場に求めるのです」

 

 

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野村證券には頼まない

 江副は、日本橋のたもとの野村證券本社ビルの前に立った。「大学新聞広告社を起こして20年余、歯を食いしばってきたかいがあった」
 横に座る引受審査部の取締役に社長の田淵は顔を向けると、大きな声で言った。「すぐに検討するように」
 しかし、田淵がすぐに検討せよと命じたにもかかわらず、一向に返事はなかった。江副はいらついた。この話を持ち込んだ事業法人部の廣田に何度も問い合わせた。しかし、引受審査部の情報が一切入らない彼らには、江副への返答は一つしかない。「いましばらくお待ちを」。それが何度か繰り返された。
 「ならばもういい。野村には頼まない」
 江副は大和証券に向かった。会長の千野宣時、社長の土井定包ら首脳陣が、江副を笑顔で迎え入れた。「私どもで主幹事を務めさせていただきます。早めに2百人の株主を確保してください」。「おつきあいのある人、お知り合い、社会的に信用のある人々に公開前の株を持ってもらうのは、どこの企業もやっていますし、証券業界では常識です」
 軽快に答える千野に対して、重ねて江副は問うた。
 「政治家の方に持っていただくのはどうでしょう」
 「問題ありません」
 「不思議なもので、上場が近づくと創業時の苦しいときを思い出すのでしょうか、誰もがお世話になった方々に株を渡したくなるもののようです。証券業界の内規では、上場1年前からの株譲渡は禁じられていますので、お渡しになるならお早めにお願いします」。両首脳の笑顔に送られ、江副は満足して大和証券を後にした。その後、江副はことあるごとに、こう言って表情を硬くした。
 「野村に断られた。いまに臍をかむのは野村だ」
 登録準備2年間の観察期間が終え、コスモスは86年10月店頭登録を迎えた。

 

売り上げ1千億円達成

 1983年10月12日、東京地裁ロッキード裁判丸紅ルートで田中角栄元首相に対して懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡した。
 その年の12月、リクルートは初めて売り上げ1千億円を達成した。そして次は「これだ。リクルート1兆円の事業基盤はニューメディアだ」。早速、IBM出身でコンピュータに詳しい位田尚隆を室長としたニューメディア室を立ち上げる。

 

 

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日経BP社)

マスコミの江副たたき

 江副は押しも押されもされぬ若手ナンバーワン経営者として躍り出ていた。だが、リクルートが大きく成長し、経済界で江副に対する声望が高まるのと反比例するように、好意的だった一部マスコミが江副たたきに転じ始めた。
 「売り上げが1,500億円、急成長江副リクルート商法に騙されるな」
 「女連れ新財界人たちの沖縄旅行、リクルートノエビア両社長 ... 」
 「日経ビジネス」に金融界で噂されるリクルートの借入金の多さを報じられ、担保は成長力しかなく、成長が止まればリクルートの経営は危うくなると警鐘を鳴らした。
 不動産やノンバンク事業に傾斜し、ニューメディア事業で疾走する江副のなりふり構わないワンマンぶりに対して、社内ではひそかにこう言い交され始めていた。「江副2号」と。敬愛の念を込めて「江副さん」と言っていた社員たちが、絶対君主のようにふるまう江副にとまどい、その変容ぶりを嘆くかのようにそう呼んだのである。「住宅情報」を開発したころの江副が「江副1号」だとすると、いまの江副は「江副2号」だというわけだ。企業というものは、繁栄の最中に崩壊の芽をはらむものなのか。

 

疑惑報道

 「『リクルート川崎市誘致時、助役が関連株取得、公開で売却益1億円 資金も子会社の融資 川崎市が計画した『かわさきテクノピア地区』へリクルートの進出が決まった時期に」。「いかにも江副さんだな、地方の公務員にも渡していたか」
 江副は無類の贈りもの好きだった。リクルートに「政治部長」との異名をとる元教科書出版会社の営業経験者が入ってきてから、さらに様相が変わってきた。接待営業に慣れたその男の指図で、リクルートの歳暮・中元時の贈り先は顧客だけでなく政官界にまで広がり、贈答物は年々派手になっていった。

 

次々と暴かれる株ばらまき

 7月に入り、新聞各社は未公開株の譲渡先として渡辺美智雄自民党政調会長加藤六月前農水大臣、加藤紘一防衛大臣塚本三郎民社党委員長、中曽根康弘前首相、安倍晋太郎自民党幹事長、宮澤喜一大蔵大臣と、要職に就く政治家の名前を次々に暴いていった。
 そのほとんどが、コスモス株店頭登録当日か翌日に株を売却。3千万から5千万円、多い政治家は1億円を超える売却益を手にしていた。庶民には増税を迫る一方で、政治家たちは、一般人にはまず手に入らない未公開株で巨額の金を手にする。その事実が白日の下にさらされ、庶民の怒りに火がついた。

 

自宅に銃弾撃ち込まれる

 江副はリクルートの会長職を辞した。眠れず、食欲もなく、汗だけが限りなく流れる日々に、江副の心身は急激に疲弊していく。7月26日、毎年人間ドックを受診してきた半蔵門病院に、倒れるように担ぎ込まれた。
 8月10日南麻布の自宅に銃弾が撃ち込まれた。意味不明の犯行声明が通信社に届く。「コスモスは反日朝日に金をだして反日活動をした。赤報隊一同」
 

 

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江副を逮捕

 10月20日東京地検は松原コスモス社長を贈賄容疑で逮捕した。それを受けてコスモス、リクルート社内を一斉捜査、大量の書類を証拠物件として持ち帰った。
 多くの人が江副と疎遠になっていくなか、立っていられないほどに消耗し自死の誘惑に耐えている。
 89年1月7日、昭和天皇崩御。一つの時代が終わった。
 89年2月13日、江副は逮捕を告げられた。小菅拘置所に向かう車に乗せられた。
 丸裸にされると、10人ばかりの看守が見守るなかを江副は歩かされた。真ん中に立つ看守の所に行きつくと、男は四つん這いになれと命じた。言われるままに伏すと同時に、江副の肛門にガラス棒が突き入れられ、看守はその棒をぐりぐりと前後にかき回した。苦痛が走る。屈辱感のなかで、涙を流す。そのあとから悔しさが追いかけてきた。
 「126番立て」
 自分はものではない。頼む、名前で呼んでくれ。いや、おまえでもいい。番号で呼ばれるのは、ごめんだ。

 

13年に及ぶ長き私戦

 逮捕から、113日目の6月6日、江副は、NTT、労働省、文部省、政界4ルートの供述書のすべてに署名して保釈金2億円を払い、大勢のカメラマンが取り囲むなか小菅拘置所を出た。その後、江副は13年3カ月におよぶ私戦を戦い続けた。2001年12月20日、318回続いた公判審はようやく終わった。2003年3月4日、ようやく判決の日を迎えた。
 「被告人を懲役3年に処する。この裁判の確定した日から5年間の執行を猶予する」
 

気になっていた人物

 江副の逮捕から17年。マスコミ報道があおり検察を動かす劇場型事件の図式は、一向に変わらない。通産官僚出身の投資会社社長、村上世彰とともに逮捕され、堀江貴文は車に乗り込む。その映像を、かつての自分を見るような既視感にとらわれながら、江副は見つめ続けた。
 江副には長い間気になっている人物がいた。野村證券の事業法人部でリクルート担当だった廣田光次だ。冷徹に市場を読む力と、新しいビジネスの萌芽を見つけだす才能に長けていた。店頭登録制度の規制緩和がコスモスにとって有利なのではないかと、最初に知らせてくれたのが廣田だった。主幹会社を野村に断られたため、その後、つきあいは疎くなってしまったが、できる男だ。調べてみると、野村證券を辞した廣田は外資系証券会社に転じていた。

 

江副の勘違い

 江副は廣田に店頭登録を断られたことについて言った。「コスモスの店頭登録を野村に断られたことですよ。結果、私は大和証券に主幹事会社をお願いし、そして事件を起こしてしまった」
 江副の言葉を聞くなり、廣田が一気に話しだした。
 「江副さん、いつかお話ししたいと思っていました。あのコスモス上場はあのとき田淵節也がお約束した通り、野村で主幹事会社をお受けする体制が整っておりました。ただ引受審査部の審査が慎重で結論が長引いておりました。私があとで審査部から聞いたところでは、コスモス社内の経理体制を私どもの基準に変更できれば、あと少しで店頭登録できるところまで来ていたそうです。それを...  」
 廣田はそこで言葉を切った。江副は初めて廣田から聞く野村の内部事情に驚きながら、廣田の言葉を受けとった。
 「それを私が、野村に断られたと勘違いしたと言うのだね」「そして、私は自分から大和証券に駆け込んだと。本当かね廣田さん」
 「ええ、あれだけ話題になったコスモスさんの店頭登録でした。私どもは主幹事会社を逃してじだんだを踏みました。だからあのとき野村にコスモスさんを断る気など毛頭ありませんでした」
 廣田の話を聞きながら、江副はか細い声でたずねた。
 「もう一度聞きますよ。野村に、断られた、の、で、は、ないと」
 「もちろんですとも。それが証拠に、役員の鈴木と私が、偶然、同時に大阪転勤になりました。社内ではコスモスを落とした左遷人事だと噂されていました。入院なさっていたのでごあいさつもままならず、失礼してしまいましたが」


身体を張ってでも止めていた

 立っていられないくらいに憔悴した江副の口から、とぎれとぎれに言葉が漏れる。
 「もし、もしもだよ、もし、野村に、主幹事の、会社を、その主幹事を、お願いしていたら、廣田さん。どうなっていました?」
 廣田は江副を支えるようにして、手を取ると、きつく握りしめながら言った。
 「私がコスモスさんを担当していれば、どんなに江副さんがお望みになっても、政治家、官僚への株式譲渡は必ず止めていました。確かにあの当時、世間では未公開株の譲渡は誰もがやっていたことかもしれません。ただ私ども野村證券では、政治家、官僚への譲渡は、どなたがお客様であろうとも認めてまいりませんでした。私は体を張ってでも止めていたはずです」
 初めて告白する廣田の目に涙があった。
 「それが悔しい。いかにも悔しいです」
 「そうか、そうだったのか」

 江副の手を持ち、左右に強く揺さぶり続ける廣田に身を任せながら、江副はうめくように声をあげた。野村に断られた悔しさで動かなければ、リクルート事件は起こらなかったのか。ましてその後の長い裁判生活もなかったというのか。江副のなかで何かが音を立てて崩れていった。
 

 

 

 

 

 

樋口一葉 なぜ「たけくらべ」という題名なのか?

 

互いに背伸びしあいながら、大人になっていく情景を描いた、樋口一葉の傑作

 

たけくらべ (ホーム社漫画文庫) (MANGA BUNGOシリーズ)

たけくらべ (ホーム社漫画文庫) (MANGA BUNGOシリーズ)

 

 

樋口一葉(ひぐちいちよう)

1872-1896。東京内幸町生まれ。本名奈津。1886年に中島歌子の歌塾「萩の舎」に入塾、才能を見いだされる。1891年から東京朝日新聞の記者、半井桃水の指導を受け小説を書き始め、翌年に文芸雑誌に処女作『闇桜』を発表。生活苦に苛まれながら、次々と代表作である「たけくらべ」などを執筆。肺結核でわずか24年で死去。その早すぎる死を惜しまれた。『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』など。

 

たけくらべ

 光と影が交錯する街・吉原。大店の遊女の妹で、快活な少女・美登利と、寺の跡取りで優等生の少年・信如の初恋を描いた樋口一葉の傑作。

 

なぜ「たけくらべ」という題名なのか

 吉原を舞台にした、少女と少年の初恋を描いた樋口一葉の傑作、「たけくらべ」。背比べ(丈比べ)の意味ですが、なぜこの内容で題名が背比べなのだろうか。
 それは、すくすくと成長していく子ども時代を意味していますね。この物語では、「子どもたち」はいやおうなく、大人の世界に入っていきます。その成長のさまも「背たけ」を「比べ」あうように、こちらが少し大人びたと思ったら、むこうがそれをずっと追い越していた、というように、互いに背伸びをしあいながら大人になっていく、そのような情景を切なく描いた小説になっています。

 

あらすじ

 主人公の美登利(みどり)は吉原に住んでいる14歳の女の子で、ゆくゆくは遊女となり客をとっていく身。美登利は正太郎という少年とよく遊んでいましたが、心の中では同じ学校の寺の息子の信如(のぶゆき、しんにょ)が気になっていた。

 ある日、運動会で木の根につまづいた信如を見た美登利は、自分のハンカチを信如に渡そうとします。それを見ていた同級生が、ふたりをからかったので信如は噂になるのを嫌がって、美登利を無視してしまいます。その態度を見た美登利は信如に嫌われているのだと思い込んでしまいます。そんな美登利に、ある出来事がおこります。髪を島田髪に変えられてしまったのです。

 それは美登利が大人になって吉原で遊女になる準備が進んでいるということ。複雑な気持ちの美登利はそれ以来、正太郎とも遊ばずに家で引きこもりがちになってしまいます。そんな日々を送っていた時に、美登利の家に水仙の造花が投げ込まれてきました。
 誰が、そんなことをしたのかは分からなかったのですが、美登利は水仙をみて懐かしい気持ちになって、その水仙を部屋へ飾ります。後から聞いた話ですが、その翌日は信如が吉原から離れた仏学校へ行く日だったのです。

 のちに美登利は遊女に、信如は僧侶になってしまいます。大人になってしまえば、出会うことのないふたり。そんなふたりの思春期の微妙な気持ちが描かれた作品です。淡く儚い幼いころの恋。美登利のこれからの運命を思うとあまりにも切ない物語です。
 一葉は、男とか女とか、幸せとか、生きざまとかではなく、さらに一人の人間、ひとつの社会、ひとつの時代というものを超越した何かを見つめていたのかもしれません。
 

 

 

 

 

 

『手から、手へ』 「一万円選書」に選ばれた感動の一冊

 

NHK『プロフェッショナル仕事の流儀』での、いわた書店『一万円選書』に選ばれた一冊

 

手から、手へ

手から、手へ

 

 

『手から、手へ』
詩 池井昌樹
写真 植田正治
企画構成 山本純司

 

「やさしい子らよ」と
父母の間にくりかえされる
永遠のものがたり
ことばと写真の奇跡の出会い
(本書帯より)

 

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不幸な生をあゆむだろう

ページ冒頭から、いきなりこうはじまる

 おまえたちは
 やさしい子だから
 おまえたちは
 不幸な生をあゆむだろう


そしてこう続く

 石ころだらけな
 けわしい道をあゆむだろう
 どんなにやさしいちちははも
 おまえたちとは一緒にいけない
 やがてはかえってしまうのだから
 たすけてやれない

やがて瞳の凍りつく日がおとずれても

 いまはにおやかなその頬が痩け
 その澄んだ瞳の凍りつく日がおとずれても
 怯んではならぬ
 憎んではならぬ
 悔いてはならぬ

 

 本書は冊子のように薄い。しかし、重みのある一冊に。それは、親が子に向けた、これから来るであろう人生の厳しさに愛をもって答えている。絵本という体裁を、植田正治のモノクロ写真が彩っています。

 

 

「いわた書店」に 3,000人もの注文

 先日、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀』で取り上げられた、北海道砂川市にある「いわた書店」。一見普通の小さな本屋さんのようだが ... あるサービスが人気で全国から注文が殺到しているという。それは1万円選書という1万円分のおすすめの本を送るサービスなのです。
 利用者に最近読んだ本と評価を聞き、職業やよく読む雑誌などの簡単なアンケートに答えてもらう。そのアンケートをもとに読めば楽しんでもらえる本を推測して1万円分のおすすめの本を送ってもらえる。のちにこのサービスを利用したい人が続出した。

 

面白そうな本を見繕って送ってくれよ

 始まりは10年前、高校同窓会の先輩の前で書店業界の厳しい状況を話した時のことです。「それじゃあ面白そうな本を見繕って送ってくれよ」と数人の先輩から1万円を渡された。
 病院長、裁判長、社長といった面々でした。緊張し、なぜこの本を薦めるのか、手紙を添えて送りました。高裁判事だった先輩には、「百年以上前の日本に来た外国人が何を感じたのか ...  今後の百年に何を残すべきかのヒントがあります」と渡辺京二の『逝きし世の面影』を強く薦めた記憶があります。

 

 

 

 

 

 

大江健三郎の読書論 " time no longer "

 

本書は講演の記録集ですが、独自の読書論についても語られています

 

 

大江健三郎(おおえけんざぶろう)

 1935年愛媛県出身。小説家。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトル実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。

 1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。代表作に『死者の奢り』『万延元年のフットボール』『新しい人よ眼ざめよ』『取り替え子』や、知的障害者である長男(作曲家の大江光)との交流といった自身の『個人的な体験』など多数。映画監督の伊丹十三は義兄。

 影響をうけたものは、ジャン・ポール・サルトルカミュ、ピエール・ガスカール、ドストエフスキー、フォークナー、ウイリアム・ブレイク、イェイツ、T・S・エリオット渡辺一夫山口昌男など。

 

本書は講演の記録集ですが、自伝のようでもあり、独自の読書論についても語られています。大江健三郎はむずかしいというイメージがありますが、平易な言葉により、はじめての人でも読みすすめられます。ただし、結構深いのです。(以下は、その一部を抜粋したものです)

 

「本を読むこと」

 来し方をふりかえって、自分がやってきたこととして確実にいえるものを数えてみる。そういう年齢です。そして、数少ないそのなかに「本を読むこと」があります。
 文字を覚えるとすぐ、それも当時のやり方で、カタカナ、ひらがなを覚えると、それを手がかりに自分の周りにある本をなんでも読もうとしました。本というより、文字の書いてある紙ならなんでも!

 

最初の図書館

 はっきり思い出す、きわめて古い情景のひとつは、私にとっての最初の図書館です。そうはいっても、奇妙なというか不思議なというか、本のかたちをしたものはおそらく一冊もなかったある場所なのです。
 私は1日の大半をそこにこもって、狭いところを這いずりまわって、部屋の壁の、半ばから裾に張りめぐらしてある、古い雑誌のページを読んでいたのでした。裏の離れの、祖母の部屋です。

 

「人生を生きること」の始まり

 漢字が使われている部分は読めないはずですが、たいていルビがついています。そこで二、三行の文章を、それをまっすぐタテに張りつけられているのじゃない紙に、頭をねじったり、上半身さかさまにしたりの格好で読む。そこに、情報の切れっぱし、小説の場面、そしてまれに漫画や絵物語がふくまれているのですが、夢中になる面白さだったのです。
 これが私の「本を読むこと」のはじめです。その間も、私の「人生を生きること」は始まっていました。この部屋の、自分の周りの壁に張りつけられた紙の文字を読んでいることができる。その状態は、すぐにも壊れるものにちがいないと子供心にも知っているだけに、金色に輝いているような至福感があったのです。
 いま、あらためて記憶をなぞるようにしてみて、これが私の「本を読むこと」と「人生を生きること」の、あまり好きな言葉じゃありませんが、原点だった、という思いがひしひしとします。

 

言葉の迷路をさまよう

 子供の時、私たちが本を読むということは、たいていいつも、はじめて読む本を読む・新しい本を見つけることはじつに難しかったのですが、それでもなんとか見つけだしては読んでいたのです。
 そしてあのころ、そのような読書、つまり一体どのようにこの物語が発展するのか、読んでゆけばどんな思いがけない待ち伏せに遭うのか、そういうことがわからないまま進めた読書にも、それとしての意味はあったと私はいま確信を持って思います。
 つまり、言葉の迷路をさまよっているような読み方にも、意味はあるのです。なによりそれは面白い、ドキドキするほどのことですらありますしね。

 

リリーディングは別の経験

 しかし多くの本を読みかさね、人生を生きてきもして、ある一冊の本が持ついろんな要素、多様な側面の、相互の関係、それらが互いに力をおよぼしあって造る世界の眺めがよくわかってから、あらためてもう一度その本を読む、つまりリリーディングすることは、はじめてその本を読んだ時とは別の経験なのだ、とフライ(カナダ生まれの文学理論の専門家)はいうんです。そのような読み方だと、なによりもまず、よくわかるし、この本はこうした方向に深めてゆくようにして読み進めればいいんだよ、はっきり意識して、そのとおりに読むことができる、というわけです。
 そのような読書は、自分の人生の探求に実り多いものとなります。とくにそうした探求が切実に必要な人生の時になって、本当に役に立つ読書の指針・仕方です。つまり、「もう時がない ...」としみじみ感じとる大人にとっては、そうした読書が必要なんです。

 

「もう時がない ...」

 まずはじめての本として良い本を読む、ということは大切です。それがなければ、やがてやるリリーディングにも意味はありません。フライのいうとおり、真面目な読者とは、「読みなおすこと」をする読者のことです。さらに私はそれが、自分の人生の「時」のつみかさねの後で、やがてこの本をリリーディングするだろうとあらかじめ感じとりながら、はじめての本を読む読者のことでもあると思います。
 そのような真面目な読者の耳には、「もう時がない ...」― それは聖書の「黙示録」のなかの ” time no longer ” という言葉の訳ですが、― という声が響いているはずです。子供の時から老年の現在まで、いつもその声に耳をかたむけながら本を読んで生きてきた・そのように感じている者として、お話ししました。

 

「人生を生きること」の最初の幸福

 私の「本を読むこと」はそのように貧しい環境ではじまりました。都会の、中流家庭で育った ― 上流の、というような子供のことは思い浮かべるのも難しいのですが ― 同じ世代の人たちの子供時代の読書に比較はできません。
 たとえば私の家内は、草創期からの映画監督で教養のあった父親と、読書のためのひまと能力を持っていた母親との娘で、幼・少女期の読書は、宮澤賢治を中心としたものでした。
 しかし、どういうわけかというより、家庭の生活水準のせいのように思いますが、私には宮澤賢治と出会うチャンスはありませんでした。読書のひまも、教養もなかった ―  少なくとも「本を読むこと」を基盤としたものとしては ―  母親が、戦中・戦後の困難な時期に、『ニルス・ホーゲルソンの不思議な旅』と『ハックルベリー・フィンの冒険』を松山で見つけてきてくれたことが、私にとって「人生を生きること」の最初の幸福でした。

 

本屋も図書館もなかった

 私の幼・少年期の読書をふりかえってみて、その基本のトーンをなしているのは、いかに本を見つけるか・どうしても見つけぬわけにはゆかないのだが、という切迫した欠乏感です。そして手にいれた本は、徹底的に読みつくさずにいない貪欲さです。よく自分が本を盗むことをしなかったものだ、とつくづく思うほどですが  ―  その点ではありがたいことに  ―  私が生まれ育った環境には本屋も図書館もなかったのです。

 

 

 

 

『時代の風音』 堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿

 

20世紀とはどんな時代だったのか
21世紀をいかに生きるべきか

 

時代の風音 (朝日文芸文庫)

時代の風音 (朝日文芸文庫)

 

 

堀田善衛(ほったよしえ)
1918年富山県生まれ。慶應義塾大学卒。「広場の孤独」「漢奸」ほかで芥川賞受賞。98年逝去。おもな作品に『方丈記私記』『ゴヤ』『ミシェル城館の人』など。

 

司馬遼太郎(しばりょうたろう)
1923年大阪府生まれ。大阪外国語大学卒。「梟の城」で直木賞受賞。93年文化勲章受章。96年逝去。おもな作品に『国盗り物語』『世に棲む日日』『街道をゆく』シリーズなど。

 

宮崎駿(みやざきはやお)
1941年東京都生まれ。学習院大学卒。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』などで多数の映画賞を受賞。88年芸術選奨文部大臣賞、89年都民文化栄誉賞など。おもな作品に『魔女の宅急便』『紅の豚』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』など。

 

 

『時代の風音』あらすじ

 20世紀とはどんな時代だったのか。21世紀を「地球人」としていかに生きるべきか。歴史の潮流の中から「国家」「宗教」、そして「日本人」がどう育ち、どこへ行こうとしているのかを読み解く。それぞれに世界的視野を持ちつつ日本を見つめ続けた三人が語る「未来への教科書」

 

目次

1  二十世紀とは
2  国歌はどこへ行く
イスラムの姿
4  アニメーションの世界
5  宗教の幹
6  日本人のありよう
7  食べ物の文化
8  地球人への処方箋

 

 

宮崎駿の熱烈な思いによって実現した、3人の対談集

 心情的左翼だった自分が、経済繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義の仲間にだけはなりたくありませんでした。自分がどこにいるのか、今この世界でどう選択して生きていくべきか、おふたりなら教えていただけると思いました。
 忘れられないのは、「人間は度しがたい」と司馬さんがおっしゃった瞬間でした。堀田さんが坐りなおしつつ、「そうだ、人間は度しがたい」と答えたのです。
 私事で申し訳ありませんが、死んだ母のことを思い出していました。「人間はしかたのないものだ」というのが彼女の口癖で、若い私と何度も激しくやりとりしたのです。戦後の文化人の変節について彼女が語るとき、不振のトゲは何かいたたまれないものがありました。
 茫然としながらも、おふたりの言葉は私の気を軽くしてくれました。澄んだニヒリズムというと、誤解をまねくでしょうが、安っぽいそれは人を腐らせ、リアリズムに裏づけられたそれは、人間を否定することとはちがうようです。もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る目差しが欲しいとつくづく思います。

 

 

 

 

『無名の人生』 渡辺京二

 

名著『逝きし世の面影』の著者
初めての語りおろし

 

無名の人生 (文春新書)

無名の人生 (文春新書)

 

 

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渡辺京二(わたなべきょうじ)
1930年、京都生れ。大連一中、旧制第五高等学校文科を経て、法政大学社会学部卒業。評論家。河合文化教育研究所主任研究員。熊本市在住。著書に『逝きし世の面影』『評伝 宮崎滔天』『北一輝』『アーリイモダンの夢』『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』『近代の呪い』『幻影の明治』『無名の人生』など。

 

『無名の人生』あらすじ

戦前の最先端都市、大連で少年期を過ごし、その後の熊本への引揚げですべてを失い、戦後を身ひとつで生きぬいてきた著者。「自分で自分の一生の主人であろう」としたその半生をもとに語られる幸福論。

 

 

近代化が人間の能力を奪う

現代文明がつくりだす人工的な空間

 考えてみると、われわれの生きている世界は途方もなく豊穣です。この世界は、いろんな形に満ちている、声や音色に満ちている。色彩に満ちている。それにひきかえて、現代文明がつくりだしている人工的な空間は、ひたすらクリーンです。歪みや汚れがない規格品のようで、単調なこときわまりない。逆にいえば、非常に単調であるがゆえに、歪みも汚れも乱雑さも含まない、じつに貧しい世界。
 こうした現代文明が行きついた地点についてほかの誰もが見なかったような様相を見抜いた偉大な見者がいます。イバン・イリイチです。彼は1926年にオーストリアのウィーンに生まれ、2002年に76歳で亡くなりました。

 

貧困問題など俺には関係ない

 イリイチの著書『生きる意味』に、こういうくだりがあります。
 ある人から「エチオピアの貧困問題をどうすべきだと思うか」と問われて、イリイチは答えます。
 「アイ・ドント・ケア( I don't care )」
 かなりショッキングな言葉です。
 「ケア」という単語は、「世話をする」とか「面倒をみる」という意味で、否定形だと「俺には関係ないよ」「どうでもいいさ」といったニュアンスになり、要するに「エチオピアの貧困問題など俺には関係ないよ」という意味に取れる言葉です。
 一体、イリイチの真意はどこにあったのでしょうか。この言葉からは、イリイチが「ケア」というものを、どれほど根本から批判していたかがわかります。

 

ケアを看破していたイリイチ

 ケアとは、人間の存在を「ニーズ(基本的な欲求)の固まり」として捉える人間観にもとづいています。そうしたニーズをひとつひとつ満たしていくのがケアである、と。しかし、じつは、ケアこそが、もともとありもしなかった人びとのニーズをつくりだしているのではないか。これが、イリイチが看破したことでした。
 現代社会には、商品化され、また行政管理の対象となるケアが、いたるところに存在しています。その領域はいくつにも分かれ、各領域のニーズを診断し、それぞれに合ったケアを提供する専門家が存在する。
 彼らがそれぞれの専門領域ごとに提供するケア ー 近代化という名のもとになされる事業 ー をイリイチは根本から嫌いました。専門家は、「人びとのニーズに応えるためにケアを提供している」と思っている。そしてそのことが、彼ら自身の専門家としての存在理由ともなっている。しかし、じつは、彼らがそう思い込んでいるだけであって、むしろ専門家がもともとはありもしなかったニーズをつくりだし、ケアを通じて、結局は、人びとの生を管理しているのだ、と。しかも、使命感をもって熱心に働いている専門家ほど、事態を悪化させているのだ、と。

 

自力でつくりだす能力を奪う

 アフリカの貧困問題を解決しなければならない。そのために国際機関が出動しなければならない。先進国は食糧品を供与せねばならない。そうやって専門家がドカドカと地域に入っていく。そこでさまざまな近代化の事業を展開する。そうやってケアに依存するしかない人びとをつくりだしていく。
 しかし、人間は、本来、自然と交渉して、自らの生活空間を自力でつくりだす能力をもっているとイリイチは考えます。モノを消費することではなく自分で必要なモノをつくりだすことこそ人間の面目であり、他者との共生や福祉も自主的な地域共同体の活動によってもたらされるべきである、と。人間はもともとそういう能力をもっているのに、専門家がケアを排他的に提供することで、その役割を「専門家」として独占することで、むしろ人間からそうした能力を奪っている、と。

 

 

  

2017年度「記事ランキングベスト10」

 

 

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備忘録として始めた「きょうも読書」

  読了本の備忘録として始めたブログ「きょうも読書」が、はてなブログに引越してきて1年経過しました。今回は約200本の記事から、10本を独断と偏見で選び、勝手に順位をつけてみました。番外編は5本。なお、サイドバーの人気記事ランキングとはあえて別のものを選んでいます。

 

 

第10位   
星の王子さま』  サン=テグジュペリ

 

第9位   
年収と読書量は正比例する

 

第8位
本を読むときに無意識にしている8つのこと

 

第7位
プーチンの実像』 山下泰裕へ贈った言葉

 

第6位
『命の一句』世界でいちばん小さなメッセージ

 

第5位
源氏物語』② 紫式部 
人生の指南書

 

第4位
桜田門外ノ変』 吉村 昭


第3位
『私の個人主義夏目漱石

 

第2位 
『ぼくはこんな本を読んできた』立花隆の読書論

 

第1位
打ちのめされるようなすごい本』 米原万理

『打ちのめされるようなすごい本』について

 本書は500ページに及ぶ書評集ですが、その中で著者の外国語学習法について、ロシア語を半年ほどで話せるようになった経緯も語られています。語学を学んでいる方には参考になるかもしれません。
 さて、紹介されている書籍については、ロシアや東欧関係のものが多いものの、それ以外もたくさん紹介されています。とにかく読書の幅が広く、文学から下ネタ系まで、すべてに興味をそそる書評が魅力です。特に文学については「文学こそ民族の精神史の記録であり、粋である」といっています。また「ガセネッタ&シモネッタ」や「パンツの面目ふんどしの沽券」などの著書も。
 ところで、本のタイトルにある「打ちのめされるようなすごい本」とはいずれか ... もったいぶるようですが、それはまた別の機会にでも紹介します。本書にはご自身の癌闘病記も記載されていて、生きていればもっと楽しい話が聞けたのにとても残念です。最初で最後の書評集になってしまいました。

 

 

番外編