元米大統領の告発 『裏切られた自由』
思わず声を失う ...
太平洋戦争は
アメリカ側が、仕掛けた戦争
日本がその謀略にまんまとはまった
原爆という全く新しい兵器ができ
それを世界に誇示するために
使ってみたかった
*以下長文です(本1冊分相当)
フーバーの勇気ある告発
フランクリン・ルーズベルトの前の大統領に、第31代のアメリカの大統領を務めたハーバート・フーバーという人がいました。その彼の著書が『フリーダム・ビトレイド( Freedom Betrayed )』(邦題『裏切りの自由』)という本です。ところが、この本はなんと50年近くの間、出版されませんでした。なぜ出なかったのか、というと「本当のことが書いてあるから」「知られてしまうとまずいことが書いてあるから」出せなかったのです。
本書には、第二次世界大戦とは何だったのかを論じる第二次世界大戦論であり、同時にアンチ共産主義論になっているのです。『裏切られた自由』というタイトルですが、自由とはアメリカ人が、そしてこのフーバーが最も大事にしている価値観と言えます。その自由がどれだけ裏切られたか、いかにアメリカが共産主義によって侵食されてきたか、そして、ルーズベルトの時代が、いかにアメリカが本道から外れてひどい国家になっていたかということが、この「裏切られた自由」というタイトルに強く込められているのです。
『裏切られた自由』「FREEDOM BETRAYED」
フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症
本書はフーバーが第二次世界大戦の過程を詳細に検証した回顧録だ。第二次世界大戦とは何だったのか。従来の見方とは真っ向から対立する歴史観をもつ本書は長い間、公にされなかったが、2011年に米国フーバー研究所(スタンフォード大学内)から刊行され、話題を呼んでいる。さまざまな情報にアクセスできたアメリカの政治指導者が20年の歳月をかけて完成させた第一級の史料だ。なお邦訳は2017年春に出版されている。
ハーバート・クラーク・フーバー
Herbert Clark Hoover
1874-1964 アメリカ合衆国の政治家、鉱山技術者、第31代アメリカ大統領。第3代商務長官を歴任。身長182cm。共和党。スタンフォード大学卒業(地質学専攻)。『フーバー回顧録』でフーバーは広島への原爆投下を非難している。また、チャーチルとルーズベルトがスターリンを連合国側に引き入れたことはスターリンが共産主義を広める助けになったと批判、スターリンはヒトラーと同じろくでなしで彼ら2人同士を戦わせておけばよかったという意味のことを著書『裏切られた自由』(2011年発行)で述べている。1964年、ニューヨークにて90歳で死去。
それを完全に無視し続けた
うえでの原爆投下
瀕死の日本にどうして
そこまでする必要があったのか
ヤルタ会談(前列左から)チャーチル、ルーズベルト、スターリン
ヤルタ会談とは1945年2月4日から11日にかけて当時のソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で行われた、アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦による首脳会談である。
第二次世界大戦が終盤に入るなか、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際レジームを規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。
フーバーの『裏切られた自由』によるルーズベルト史観の検証を始めるまえに、日米関係の歴史を復習しておきましょう。
江戸時代末期の1853年(嘉永6年)、アメリカのマシュー・ペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀に到着し、鎖国政策をとっていた徳川幕府に開国を迫ります。ペリーが日本に来た第一の理由は当時、日本近海で盛んに操業していたアメリカの捕鯨船に食糧、燃料、水などを供給する港を開くためでした。そのころのアメリカでは、捕鯨が一大産業でした。アメリカの人口が増大し、国家経済が発展するに従い、膨大な量の鯨油(げいゆ)が必要でした。鯨油はランプに使う燃料として最適だったからです。アメリカの捕鯨船は太平洋を西へ西へとその漁場を拡大していき、たどり着いたのが日本列島近海でした。日本には伝統的な捕鯨漁業が発達しており、それほどこのあたりは多数の鯨が生息していたのです。
南北戦争で生じた日米関係の空白
ペリーから開国の要求を突き付けられた幕府は翌年、日米和親条約を結び、下田・函館を開港します。ここに日本の鎖国は終わりを告げました。江戸幕府はその土台が揺らいで一気に幕末へと向かいます。
なお、ペリー提督には、その他に中国(当時の清朝)との交易を開始するという目的があり、こちらのほうが最終目的でした。交易の点からは中国が主で、日本はその次だったのです。
日本の開国にアメリカは先鞭をつけた形でしたが、対日政策で大きく後れをとってしまいました。アメリカは南北戦争(1861~65年)を始めてしまったことで、東アジアでは何もできなくなってしまったのです。これはアメリカ史上最大の戦争で、60万人以上が死んでいます。アメリカ人同士の争いにより深い亀裂を国内に抱え込んだのです。
幕末の日本は、フランスとイギリスによる奪い合いとなり、フランスが幕府側につく一方、イギリスは薩長の側についていました。表の歴史は薩長が勝ったということで、実際はイギリスの勝ちでした。
ハワイを乗っ取ったアメリカ
アメリカ国内では、1776年(安永5年)に13州連邦国家としてイギリスに対して独立を宣言しています。のちに次々と西部に進出して領土拡大を進め、1848年(嘉永元年)にカリフォルニアを獲得して太平洋岸まで到達しました。
次は海の向こうのハワイを乗っ取るわけです。ハワイ王国は、初代国王カメハメハ1世とその子孫によって統治された、れっきとした独立国でした。しかし、19世紀中ごろから砂糖・パイナップル事業などでアメリカの進出が顕著になり、多くの土地が買いたたかれ、事実上アメリカがハワイを支配するに至ります。そして、1893年(明治26年)に白人入植者がクーデターを起し、ハワイ王国を倒して共和国とします。98年8月、時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーがハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言し、1959年8月に50番目の州としてアメリカ合衆国領としてのハワイ州が正式に成立しています。
日本に助けを求めたハワイ王国
19世紀中ごろ、ハワイ王国にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、互いに対立していました。ハワイの王は代々、アメリカを牽制するために親英的でした。増大するアメリカ人実業家の勢力を抑え、アメリカ世論におけるハワイ併合への動きを抑止するために、聖公会(イギリス国教会の海外部門)をハワイに設立し、英国への接近を試みるなどしています。
1881年(明治14年)カラカウア王はひそかに、日本をはじめ、アジア、ヨーロッパをまわる旅に出ました。旅の表向きの理由はハワイへの移民の促進交渉と表敬訪問でした。アメリカに対抗するための各国との交渉やハワイの労働不足に対する協力要請などが王の狙いでした。
ハワイ王国は今にも滅びそうになっていました。アジア太平洋地域で列強の植民地になっていない国は日本くらいでした。そこで、明治維新で近代化した日本と縁組をすれば、ハワイ王国の安泰につながるだろうと考えたのです。
日本を訪れたカラカウア王は明治天皇に謁見し、日本人のハワイ移住促進を要請します。そして、王位継承者のカイウラニ王女と皇族のひとり山階宮定麿王との縁談をもちかけたのです。しかし、日本政府はアメリカとの対立を避けるため、これらの提案に対し親書をもって丁重に断りました。しかし、移民の促進に関しては問題がないと考え、85年から94年にかけて3万人近くの官斡旋の移民がハワイに渡りました。
ロシアとイギリスのグレートゲーム
日本は日清戦争(1894〜95年)に勝利し、日露戦争(1904〜05年)が起こります。日露戦争というと日本とロシアの戦いのようですが、当時の日本はイギリスの代理人でしたから、東アジアにおけるイギリスの代理人としてロシアと戦ったというのが実情です。02年に結ばれた日英同盟がそういう性質の軍事同盟だったからです。
日清戦争に勝利した日本が、下関条約で中国(清朝)から遼東半島を獲得したことに対して、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉し、その返還を迫ってきました。日本単独ではこれら3大国に対抗することができず、悔し涙を呑みます。このとき日英同盟があれば拒絶できただろうという想いでした。そこで、中国と朝鮮半島における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的として、日英同盟が締結されることになりました。これにより、日本はロシア帝国とようやく相対峙する体制を整えました。悪く言えば、大英帝国の東アジアにおける代理人となったのです。
ロシアとイギリスは、当時対決する運命にあり、このアジアの覇権をめぐる大英帝国とロシア帝国のぶつかり合いはグレート・ゲームと言われています。ロシアはランドパワー、すなわち大陸国家ですから、ユーラシア大陸を南と東へと進んで自分たちの領地をどんどん拡大していました。ロシアはついに中国とぶつかってしまいます。両国は1689年(元禄2年)にネルチンスク条約を結んで国境線を確定しますが、機会があれば南下してくるのがロシアです。
イギリスは、アフリカ大陸のケープタウンを植民地として獲得し、完成したスエズ運河を押さえ、アジアに対して本格的な帝国主義政策を取るようになります。かくして、イギリスは海洋国家として、中東さらにインドを制圧し、マラッカ海峡を経てマレーシアからシナ大陸にまで進出していきます。
英露ふたつの大国と日本の関係
イギリスとロシアというふたつの帝国の勢力が本格的に衝突したのが、19世紀中ごろの日本だったのです。幕末のころに、ロシアは日本に盛んに使いを寄こして開国を迫っています。イギリスは薩英戦争や馬関戦争(下関戦争)で直接、日本の内政に手を突っ込んできます。ふたつの帝国の勢力が日本の地でこうして交わる背景があったのです。
越前藩の橋本左内という人が、当時の世界の大勢を見て、「日本はイギリスと組んでロシアと戦うか、ロシアと組んでイギリスと戦うのか、このどちらかを早晩、決断せざるを得なくなる。しかし、いずれにせよ、そのときに必要なことは、日本が近代的な統一国家になっていることだ」と誰よりも早く警告を発していたのです。左内の予言から50年後、日本はイギリスと同盟を結び、ロシアと戦うことになります。
ところで、イギリスはなぜ直接ロシアと戦わなかったのでしょうか。それは東アジアの権益を確保しようとしたら、新しい艦隊を作らなければならず、膨大な費用がかかります。それよりは日本をイギリスの代理人に仕立てて、代わりに戦わせたほうが万事都合がいいのです。それが大英帝国の英智でした。日露戦争敗退のあと、ロシア帝国は衰退期に入り、第一次世界大戦中の1917年(大正6年)にロシア革命が起き、ロマノフ王朝によるロシア帝国は滅亡することになるのです。
覇権国の戦いのはざまに立たされる日本
ところが、そうなってくるとアメリカとしてはおもしろくないのです。当時のイギリスとアメリカの関係は、現在とはまったく違いイギリスは世界一の大帝国でした。そのアメリカはハワイを取り、次はアジアの本命である、中国の巨大な人口のある市場に、日本を越えて参入していきたいと思っていたわけです。ところが、イギリスの勢力圏が強く阻まれていました。
それでアメリカは、のちに日英同盟を破棄させるようにしたのです。日本とイギリスがガッチリ組んでいられると、アメリカは東アジアに入っていけないのです。それで日本とイギリスを分断する必要がありました。日本が単独ならば戦えるし、イギリスは世界中に植民地があるわけだから、単独では東アジアのほうまで手が回らないだろうと。
新興国アメリカと旧帝国イギリスという、新旧の覇権国の戦いの間(はざま)に日本は立たされていたのです。
日本を仮想敵国としていたアメリカ
アメリカは、このころ日本を仮想敵国とした戦争計画である「オレンジ・プラン」を作っています。自国と交戦可能性のある全ての国に対してそれぞれ色分けした計画を作っていたのです。つまり、日本だけを特に敵視していたわけではなく、ドイツと戦う戦略も考えていましたし、イギリスやフランスと戦うことも考えていました。
日米関係は悪くなかった
日本は無理やりアメリカに開国させられたのですが、明治のころの日米関係はそんなに悪くはなかったのです。
アメリカへの移民が、明治の初めからずっと続いていました。最初の移民は1868年(明治元年)で、ハワイに行きました。ハワイに行った移民の一部はやがて本土カリフォルニアに渡っていきます。このように長年にわたって移民を受け入れているほどでしたからアメリカに対する感情は必ずしも悪くなかったのです。1923年(大正12年)の関東大震災のときも、アメリカから大変な援助が来ています。医療団の派遣や義捐金を呼びかけていました。
実は06年のサンフランシスコ地震があったときに、日本は高額の義捐金を出しており、日本政府初の海外緊急援助となりました。関東大震災の大規模な支援も、このサンフランシスコ大地震での絆から生まれたものだったのです。
対日感情を変えた移民排除運動
ところが、あるとき日米関係を180度変えてしまいます。アメリカにおける移民排斥運動の始まりです。カリフォルニア辺りから、日本人移民だけを排斥するという運動が起こりました。日本人移民はみな真面目に働いて、そのお金をコツコツ貯め、それで土地を買っていき、その結果、当時のカリフォルニアの農業生産の1割ぐらいを日系人が占めるほどになったのです。
日本人は勤勉で、真面目に働き、お金を稼いで、それで土地を買って広げていくと見られていました。移民一世は、子どもの教育はちゃんとしたいからと言って、日本に二世を送って教育して、またアメリカに戻したりします。そうすると、アメリカに同化しないと言われてしまう。アメリカの白人の農家からすると、日本人が大変な脅威に映るわけです。このままではカリフォルニアは彼らに乗っ取られてしまう、そういう話が広まるようになりました。
排外主義を煽る質の悪い新聞が悪質な反日プロパガンダを広めます。日本人だけがターゲットにされて、日本人移民だけを排斥するという法律が通ってしまいました。1924年(大正13年)4月に、排日移民法が米国上下両院で法案として可決されました。これが日米関係が悪くなっていくきっかけになります。
”排日移民法”(1924年移民法案)にサインするクーリッジ大統領
排日移民法は1924年7月1日に施行されたアメリカ合衆国の法律の日本における通称である。正確には1924年移民法、またはジョンソン=リード法であり、日本人移民のみを排除した法律ではない。南欧やユダヤ人も含む東欧からの移民が制限された。しかし、特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになり、アメリカ政府に対し日系移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えた。
衝突する運命にあった日米
第一次大戦までの世界は、パックス・ブリタニカです。大英帝国を中心として世界の秩序が保たれていました。第一次大戦ではイギリスが勝ったものの、大きく力が後退します。するとそれに代わって、アメリカのような新興国がどんどん伸びてきます。極東では日本が勢力を伸ばしていて台湾を、そして朝鮮半島を領有するなど、いわゆる列強(大国)の一角を占めるようになります。また第一次大戦で敗北を喫し、たたかれまくったドイツは、1920年代からナチズムが出てきて力を伸ばしつつありました。
世界の覇権国の構造というものが大きく変わってきていたのです。アメリカが勢力を西へ西へとどんどん伸ばしていく一方で、日本は東アジアで日本を中心とした新しい秩序を作っていこうとしていました。日米はもう好きとか嫌いではなく、やはりライバルにならざるを得なかったということです。それが、第二次大戦の大きな枠と重なって起きたということなのです。イギリスの教科書を見るとそういう書き方をしていますね。しかしだからといって、日米両国があれほどの大戦争をする必然があったわけではありません。
日本の利権独占が許せなかった
アメリカは1898年(明治31年)の米西戦争でスペインとの戦争に勝つと、スペインの植民地だったフィリピンを手に入れます。アメリカの一番の狙いは中国でした。
ところが、日本は地理的に一番近いところにいるうえに、日清戦争、日露戦争に勝っていますから戦争によって合法的に獲得した権利や利権がいっぱいあります。日本が中国の権益を独占しようとしている状況を、アメリカは許せないのです。もちろん、利権というのは中国だけでなく、満州国も含んだ話です。日米の間で戦争に突入した直接の理由となったのが、中国と満州なのです。
アメリカは、1941年(昭和16年)の開戦前の日米交渉の過程で、シナ大陸から日本の兵隊をすべて引き揚げろと言ってきますが、日本側がそんな提案を受け入れられるわけがありません。日本だけ軍隊を引き揚げてしまったら、これまで合法的に獲得してきた大陸における日本の権益を守ることができなくなります。居住している日本人の安全も守れません。我が国からしたら、それは無理な話です。
アメリカはもう最後は、日本が受け入れられないのは承知で無理難題を言ってきたのです。ハル・ノートが最後通牒だとか、事実上の宣戦布告だと言われるのはそういうことです。相手が呑めないことを言って追いつめて、戦争にしようというのが、当時の大統領だったフランクリン・ルーズベルトの腹だったのです。
日米の衝突は、おかしなことにシナ大陸の利権がほしいというところから生じてきたものだったのです。要するにマーケットをどちらが取るかという話にすぎません。将来あそこの市場が欲しいという理由で戦争をするなんて通常はあり得ません。やはりこれは、ルーズベルト政権だからで、日本を追い込んで戦争を始めるために言ってきた口実に過ぎないのです。
日本への宣戦布告なき戦争
1941年(昭和16年)7月にアメリカは、日本に経済制裁をします。日本ではよくABCD包囲網と言われます。対日経済制裁をしていたアメリカ合衆国(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)の各国の頭文字を並べたものです。
特にアメリカによる経済制裁は、在米資産凍結、石油の禁輸という厳しいものでした。フーバーは『フリーダム・ビトレイド』の中で、これこそ「日本に対する宣戦布告なき戦争であった」のであり、「アメリカを戦争へ誘導していったのは他ならぬルーズベルト(大統領)その人であった」と書いています。要するに、ルーズベルト大統領こそが日本を戦争に導いていった張本人である、日本はそれに乗せられてしまった、ということを主張しているのです。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト
Franklin Delano Roosevelt
1882-1945 アメリカ合衆国の政治家。民主党。第32代大統領。世界恐慌、第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の一人。ハーバード大学とコロンビア大学を卒業。彼の政権下でのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。なお、ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。1945年4月12日に脳卒中で死去し、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後、5月にはドイツ、8月には日本が降伏し、第二次世界大戦の終結とその勝利を目前にした死であった。
ルーズベルト大統領が望んだ戦争
では、なぜルーズベルトは日本との戦争を望んだのでしょうか。1939年(昭和14年)、ドイツがポーランドに侵攻したところから第二次大戦は始まりました。この時点では日本もアメリカも開戦していません。
ところが、40年にドイツ軍はまたたく間にパリを占領、フランスを降伏させます。さらにイギリスの本土に空爆を開始するなど、イギリスはドイツに本土上陸寸前まで追いつめられていました。そして、41年6月にドイツ軍は独ソ不可侵条約を破棄してソビエト連邦に侵攻。そしてドイツ軍はヨーロッパの大半と北アフリカの一部を占領するなど圧倒的な優勢を保っていたのです。
また、日本軍の攻勢により、首都南京は37年12月に陥落、中華民国政府は四川省の重慶への疎開を余儀なくされなど、どんどん追いやられていました。
イギリスのチャーチルも、ソ連のスターリンも、中華民国の蒋介石もみな、とにかく早くアメリカに参戦してもらいたかったのです。アメリカは、すでに世界最大の工業国となっていました。ですからみな、ルーズベルト政権に対して、とにかく早く第二次大戦に参加してくれ、ということを一生懸命働きかけていたのです。
スターリン、チャーチル、蒋介石の3人はそもそもルーズベルトにとっては近い存在でした。ルーズベルトはソ連が大好きでした。冷酷な独裁者ヨシフ・スターリンをアンクル・ヨシフと呼ぶほどで、スターリンには親しみを持っていました。ルーズベルトの側近やブレーンにもソ連のスパイやシンパが山のようにいました。
ルーズベルトは大恐慌の経済危機を克服するために、ニューディール政策を行います。連邦政府が積極的に経済に介入することを基調としたものでした。急進的な社会革命の中身を見れば、それが計画経済そのものであって、彼の社会主義への志向の強さがうかがえます。
ルーズベルトは社会主義こそが新しい時代のトレンドであって、アメリカも長期的には計画経済の方向に行くべきであると考えていました。だから、この点でスターリンと世界観が一致していました。
また、チャーチルとも仲が良く、早くからアメリカの参戦を訴えていました。チャーチルとルーズベルトは、太平洋戦争前の1941年(昭和16年)8月に大西洋憲章を調印しますが、その時点でアメリカの参戦について話し合っていたことが、明らかになっています。
そして、アメリカのルーズベルト政権を誰よりも頼りにしていたのが、中華民国の蒋介石です。もうこのままでは日本にやられてしまうという思いがありましたから、アメリカに早く参戦してもらいたいわけです。
中国とキリスト教宣教師との奇妙な関係
蒋介石はアメリカ国内のキリスト教会を煽(あお)って、「日本は悪者であり、中国はその可哀想な犠牲者である」というプロパガンダをアメリカ中に広めています。実はアメリカの教会関係者には中国に対する強い思い入れがありました。アメリカは19世紀から中国にキリスト教布教のために宣教師を送り続け、お金を使い続けてきたのです。いくらやっても本心からキリスト教徒に改宗する人はちっとも増えないのですが、熱心に布教し続けていました。
中国に行くと形のうえでは信者が増えるのです。食べることもできない人が多い国ですから、教会に行けば食事にありつけるということで、人がやって来ました。アメリカの宣教師からは、中国の人たちはもう本当に貧しくてだらしなくて神の救いを求めている人たちがたくさんいる、そう見られていました。殺されても殺されても中国の奥地に行ったりして一生懸命布教するのです。
こうして親中反日になった教会関係者が多かったのです。アメリカ国内では教会の聖職者には極めて大きな影響があります。地方には素朴なグッド・クリスチャンの信者が大変多くいます。その人たちが聖職者から「日本人は悪いやつらだ」「中国はかわいそうだ」という話を聞かされると、そんな嘘の話でも疑いを持たれることなくアメリカ社会に浸透していきました。
嘘をついて大統領選を勝ち抜いた
こうして、ルーズベルトのところには、三方からアメリカに早く参戦してほしいと矢の催促が来ていました。ルーズベルトは、1940年(昭和15年)の大統領選で三選を果たしますが、それはすでにヨーロッパで始まっていた戦争にアメリカを介入させないと国民に公約したことも一因でした。
ルーズベルトは「攻撃を受けない限りアメリカは絶対に参戦しない」と何回も繰り返して言い、「アメリカのお母さんたちよ、安心してくれ、あなたがたの息子をヨーロッパの戦争に送ることは絶対あり得ない」と言って、堂々と嘘をついて、大統領選を勝ち抜いたのです。実際は、彼の腹の中では参戦を固めていたわけですが、選挙では本音を隠し続けたということです。
日独伊三国同盟を悪用した米国
国内の世論もあり、ルーズベルトだって簡単に戦争を始めるわけにはいきません。それで当初はドイツを挑発しようと手を尽くすのですが、ヒトラーも頭がいいので、なかなかそれに乗ろうとはしません。
それなら日独伊三国同盟を悪用しよう、何とか日本から先に一発目を打たせるように仕向けて、それでアメリカが第二次大戦になだれ込めばいいという計画を立てるわけです。結果から言うと、これがものの見事に成功してしまうのです。
フーバーとマッカーサーとの会談
フーバーが、1946年8昭和21年)5月上旬に来日しました。目的は敗戦国への食糧援助でした。時のトルーマン大統領から依頼されて日本、ドイツの視察に来たのです。
敗戦後の日本は、大変な食糧不足でしたから、食糧状況を視察に来ていたフーバーは、「食糧の輸入がなければ、日本国民の食糧の供給量はドイツの強制収容所並みからそれ以下になるだろう」と訴えて、マッカーサーに食糧援助を進言しています。
そして、マッカーサーに会ったとき、フーバーは第二次大戦について話し合っています。特に日本との戦争ですね。アメリカから見て太平洋戦争とは何だったのか。という話をします。その会談が、46年5月4~6日と3日間に渡って続きました。
日本が始めた戦争ではなかった
このときフーバーが率直に言います。日本との戦争のすべては、ということは太平洋戦争は ... 戦争に入りたいという狂人(マッドマン)の欲望であった、と。
ルーズベルトのことをはっきりマッドマンと言っているのです。狂人の欲望、つまりあいつは気が狂っていて、気が狂っていると言っても精神異常ではなくて、本当に戦争をやりたくてしょうがない、そういう意味で狂人だ、と言っています。その欲望の結果が、今度の日米戦争になったんだと、私(フーバー)が言うと、マッカーサーは同意した、と。ということは、日本が始めた戦争ではない、日本は悪くなかったということです。
日本が始めた戦争ではない、ルーズベルトが始めた戦争であり、ルーズベルトが日本を追いつめてやった戦争であるということです。マッカーサーはその通りだと答えました。
フーバーは続けて次のように言った。『1941年7月の日本に対する金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になるとわかっていても日本が戦争をせざるを得ない状況に追い込んだのだ。制裁は殺戮(さつりく)と破壊以外のすべての戦争行為を実現するものであり、いかなる国といえども、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかった』と述べた。
これは、1941年(昭和16年)7月末に日本軍が南部仏印に進駐、サイゴンへ入城したことへの報復として、アメリカが対日石油全面輸出禁止の制裁強化に踏み切ったことを指しています。これにより、日本はより窮地に立たされることになりました。
「ルーズベルトが犯した巨大な誤りは、1941年7月、つまりスターリンと隠然たる同盟関係とばったその一か月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが、本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたってそんな挑発をすれば、遅かれ早かれ、日本が報復のための戦争を引き起こすことになる、と警告を受けていた」
経済制裁がすでに戦争の開始であるというのは、当時の国際法上からも認められていた原則だったのです。その後もマッカーサーは「日本の戦争は自衛戦争であった」ことを証言しています。日本は自らの防衛のために戦争に向かわざるを得なかったんだという、まっとうな意見を述べています。また次のような発言もしています。
「太平洋において米国が過去100年間に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考えています」
マッカーサーが、このような考え方に到達するのは、朝鮮戦争が起きて、日本の地政学的重要性を理解してからだと言われていました。アメリカが日本を占領してみて初めて、過去半世紀にこの地域で日本が直面し、対処してきた問題と責任をアメリカが代わって引き受けなくてはならなくなりました。
日本からの和平交渉は拒絶された
1941年(昭和16年)の春から、日本はとにかく日米交渉、対米交渉で非常に苦労していました。なんとかして日本の国益もメンツも守りながら、アメリカと戦争しない方向を探ろうと大変な苦労を続けていました。
近衛文麿(このえふみまろ)首相は、駐日アメリカ大使と9月に会談します。そこで、ルーズベルト大統領と直接会って、日米首脳会談でなんとか日米戦争を回避したいと強く訴えました。しかし、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示しました。
フーバーはこうも書いております。「1941年9月の近衛首相の和平提案は、東京にいる駐日アメリカ大使も、駐日イギリス大使も祈るような気持ちでその実現を期待していた」。それにもかかわらず、ルーズベルトはこれを拒絶しました。満州のことについてもアメリカの権益に便宜を図ってもいいという打診があったとフーバーは書いています。ですから今で言えば、日本がほとんどベタ降りしているようなものだったのです。
そしてフーバーは、戦争は日本が始めたんじゃない、日本は戦争を避けたかったんだとも言っています。
裏でつながっていた世界
当時の世界情勢全体を見ると、ルーズベルトのもとには蒋介石、チャーチル、スターリンのところからそれぞれ密使が来ていて、とにかく早く参戦してくれと催促しているわけです。それでは日本は、それに対抗できるようなことをしていたのかというと、今にしてみると非常にまずいことがありました。
1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟です。この三国同盟さえなかったら、ルーズベルトが日本をいじめても対ドイツ戦に参戦する口実にはならないわけです。三国同盟があったからこそ、それを逆手に取られてやられてしまったのです。
三国同盟締結が日本を滅ぼした
その日独伊三国同盟ですが、通常の軍事同盟とは異なる性質のものでした。一般的に軍事同盟とは、安全保障のために戦争を抑止する目的で国家が相互に軍事力の援助を行うことを定めたものです。つまり通常は、戦争をやっている国とは同盟は結ばないものなのです。
ところが当時は、すでにドイツは1939年(昭和14年)から戦争状態に入っていました。戦争中のドイツと同盟関係に入るということは、自動的にイギリスをはじめとした国々と敵対することになってしまうわけです。「バスに乗り遅れるな」という言葉が、このとき盛んに言われたわけですが、そんな時代の空気も大きく後押ししていたのでしょう。
当時、天皇の重臣から、三国同盟は非常に危ないという話がでていました。それと陛下を運命共同体にするというのはまずいだろうというわけです。だから、日本はよほど慎重にしなければいけないということです。しかし、その意見が通ることはありませんでした。
日独伊三国同盟は日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟。1940年(昭和15年)9月27日にベルリンで調印された日独伊三国間条約に基づく日独伊三国同盟関係。
安堵して眠りについたチャーチル
1941年(昭和16年)12月8日、日本手帝国海軍はハワイ真珠湾基地を奇襲。太平洋戦争が始まりました。日本ではそれを大東亜戦争と命名しました。日本軍は不意を突くために、攻撃は宣戦布告と同時に行うと予定されていました。実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告が届いたため、アメリカ側はこれを卑怯な奇襲と受け取ることになります。
日本軍がパールハーバーを襲ったとき、世界で初めてのホットラインが、ルーズベルトとチャーチルの間につながっていました。大西洋を渡る海底ケーブルの電話です。そのとき、チャーチルもルーズベルトも大変に喜んだのです。
チャーチルは「We are on the same boat」、ついに一緒の船に乗った。これで英米は運命共同体だ。これでアメリカが参戦してくれる。ジャップのバカめと思ったことでしょう。「これで勝てる!」と確信したチャーチルは、その夜はぐっすりと眠れたと『第二世界大戦回顧録』に書いているほどです。
日本軍が真珠湾を攻撃した直接の意味は、このようにアメリカの第二次大戦参戦を可能にしたということにありました。アメリカに参戦の絶好の口実を与えたのです。
アメリカでは大統領には宣戦布告をする権利がありません。これはアメリカで憲法を作ったときに大統領が勝手に戦争を始めることのないようにということで、宣戦布告をするのは議会の権限とされています。
真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領は日本に対して宣戦布告を求める議会演説を行いました。この演説に下院議員としてそれを支持する演説をしたのが、ハミルトン・フィッシュⅢ世でした。ルーズベルトとは若いころからの知り合いです。しかし、ルーズベルトがヨーロッパの戦争に介入したがっているのを知り、アメリカ中立運動の先頭に立っていたフィッシュは真正面から対立するのです。
フィッシュは後日、自分の本(『ルーズベルトの開戦責任』など)で「私はハル・ノートのことは全く知らなかった」と繰り返し書いています。「ハル・ノート」はコーデル・ハル国務長官が日本側に示した覚え書きのような文書ですが、事実上の最後通牒でした。フィッシュはこれを「誰がどう見ても宣戦布告そのもの。これを突き付けられたら、どの国でも開戦せざるを得ない。ルーズベルトは国民を欺(あざむ)いた」と言って激怒しました。
ルーズベルトは、とにかくアメリカのプログレッシビズム、進歩主義を代表する人でした。日本で言えば、革新のチャンピオンみたいな人です。だから共産主義にも近かったし、社会主義政策もやったし、スターリンとも親しかったのです。
一方、フーバーにしても、ハミルトン・フィッシュにしても共和党でアメリカにとって一番大事な価値観は自由だと思っている人たちです。彼らにとって共産主義というのは不倶戴天(ふぐたいてん)の敵なのです。そもそもアメリカはキリスト教的伝統のもとにできている国です。それに対して共産主義というのは、神を否定する思想であり、唯物論ですから、こんなものとは絶対に一緒にやっていけないのです。
ところが1929年(昭和4年)の大恐慌以降、社会主義的なものがアメリカにも大量に入ってきてしまいました。しかも33年、ルーズベルトがソ連を承認したことによって、アメリカに対するソ連共産主義の侵略が日増しに激しくなっていくのです。
*「ハル・ノート」その原稿を書いたのはハル長官自身ではありません。財務省補佐官のハリー・ホワイトなる人物でした。それをルーズベルト大統領が気に入り、これでいけ、ということになりハル長官から野村大使に手渡されたので、以後「ハル・ノート」と呼ばれるようになりました。ハル・ノートを書いたこのハリー・ホワイトは共産党員であり、ソ連のスパイであったことが、戦後明らかになっています。このようにハル・ノートが対日強硬要求となった背景には、日米間に戦争を起こそうとするコミンテルン(国際共産主義組織)の謀略があったのです。
米国を侵略する共産主義の脅威
フーバーはとにかく共産主義が大嫌いでした。革命はもちろんですし、戦争もまた、共産主義の脅威が引き起こすものである、そういうことをはっきり見抜いていた人です。
共産党浸透の第一の方法は、工場細胞、農村細胞などの細胞活動で成り立っていました。会社の中などにそういう細胞を送り込んで、内側から徐々にがん細胞のように増殖していきます。また ”フロント(戦線の意)” と呼ばれる組織は「平和のために声をあげましょう」とか、「環境問題で一緒に行動しましょう」と言って人を集めるのですが、それをオーガナイズしているのは共産主義者です。日本やアメリカの社会体制を弱くして、共産主義を浸透させるためにやっているのです。
平和を求める人たち、戦争反対だという人たちを集めて、デモをやっていたら煽動(せんどう)に乗せられていた、ということになるわけです。大衆に対して情報操作、印象操作をしながら共産主義を広めていくのです。
こうした方法が、共産主義を広める常套(じょうとう)手段として使わてれきました。気づかれないうちに浸透させるのですから、要するに間接侵略です。これによってアメリカという国の根幹である「自由」が侵されていきました。そして、実はルーズベルト政権こそは、共産主義のアメリカ進出に大成功した政権だったのだということにフーバーは気づくのです。
後に1950年代になって、アメリカで激しい「赤狩り」が起きました。多数の政治家、公務員、マスコミ、芸術家などが親共産主義者として告発されました。赤狩りが始まった当時はまだ民主党のトルーマン政権でしたが、彼は非常に保守的な人でしたから、積極的に共産主義の弾圧に動き、ニューディール時代からの民主党系のリベラルな連邦公務員やスタッフを追放しています。それまでのルーズベルト政権から続いていた政策にもストップをかけます。ニューディール政策は革命の一部だったのです。ニューディーラーはそれによってアメリカを本格的に社会主義化しようとしていたのですが、トルーマンに邪魔されてしまいました。
ところで、アメリカで夢を果たせなかったニューディーラーたちが日本に来て、ここで思い切り社会主義革命をやろうと言って作ったのが、日本の憲法とか戦後の体制なのですね。
1950年(昭和25年)の朝鮮戦争くらいから、これは明らかにおかしいとアメリカも共産主義の脅威に気がつきます。そして、それからは日本の占領政策を方向転換します。それからは、アメリカは日本をアジアにおける共産主義の防波堤にしなければいけないといって、ニューディーラーたちが日本でそれまでやってきたことをひっくり返すことになるわけです。それ以降、共産主義がアジアを次々に侵略していったということもあって、日本という国が戦前にやってきたことはまともなことだったのだ、ソ連の共産主義を防ぐ防波堤になっていたということに、アメリカもやっと気がつきます。
日本と米国の敵は中国共産党
日本とアメリカの現在の第一の敵は、中国の独裁政権である共産党なのです。したがって、歴史問題で日米関係に不協和音が生じるのは、アメリカの国益にも日本の国益にも反していることなのです。
中国もいろいろ策謀をめぐらしています。その一環でやっているのが、例えば慰安婦像の各地への建設です。これは韓国がやっていると思われていますが、最近は中国がそれを主に後押しするようになっています。
中国はなぜそんなことをするのかというと、アメリカでもオーストラリアでも対日不信感を植えつけようとしているのです。日本人とは、こういう性奴隷を生み出した残虐な民族であって、信用できない国だと大宣伝をしているのです。そのためには、過去の歴史を捏造することも全然いとわない。彼らの目的は、日米同盟にひびを入れることなのですから。
南シナ海の南沙諸島で現在、中国がやっていることも、アメリカで日本を悪宣伝したり、慰安婦問題でやっていることも、全く同じ意味です。これは中国が言う「超限戦」です。あらゆるものが戦争の手段となり、あらゆる場所が戦場となり得る、という思想です。つまり、銃弾が飛び交うだけが戦争なのではなく、戦わずして相手を屈服させる「仕掛け」そのものも戦争である、というわけです。情報戦争なのです。
「持てる国」と「持たざる国」との戦い
国内資源や植民地を有していて、「持てる国」であったイギリス・フランス・アメリカは、それぞれブロック経済圏を作って大恐慌から生き残りを図ることができました。一方、「持たざる国」であったドイツ、イタリア、日本は「自給自足圏」を確保するために軍事的侵略も辞さない道を選ぶことになります。
第二次大戦の本質は、軍国主義とデモクラシーの戦いなどではなく、日独伊の後進資本主義国が、英米の先進資本主義国の覇権に挑んだ戦いであったし、大恐慌から自国を守るために各国がブロック経済政策をとったことが、世界大戦のきっかけとなったのです。
*ブロック経済とは世界恐慌後に植民地などを持つ国が、植民地を「ブロック」として他国へ高率関税などの関税障壁を張り巡らせて、他のブロックへ需要が漏れ出さないようにすることで経済保護した状態の経済体制をいう。
戦争を必要としたルーズベルト
ルーズベルトのときは、国内の経済は一向によくなりませんでした。ニューディール政策も完全に失敗していたのです。ここに来てルーズベルトは猛烈に戦争を必要としていました。それはウォール街の利害とも一致するものでした。
民主国家でも戦争の指導者は全能の力を得ます。それが戦争ということになったら、政策の失敗なんて全部覆い隠すことができます。ルーズベルトは国内の経済問題も含めて、一挙に戦争政策で解決してしまおうという腹でした。
戦争というのはとにかく物をバンバン消費します。ですから戦争が始まるや落ち込んでいた消費が爆発的な伸びを見せます。消費が一気に増えるから、それに引きずられて生産力がフル稼動していきます。失業していた人々も雇われるようになります。不況脱出のためには、マーケットの消費をものすごく増やさなければならない。戦争をすることで、それをたやすく実現できたというわけです。
戦争終結へ必死の模索を続ける日本
日本国内では、サイパン島の陥落以降、大東亜戦争の帰趨は決したとして、戦争終結への動きが模索されるようになります。近衛文麿元首相や岡田啓介らの重臣グループが和平運動を展開していました。外務大臣東郷茂徳は、日ソ中立条約がいまだ有効であるからとしてソ連を仲介とした和平交渉を行おうとします。
しかし、45年2月のヤルタ会談で、ソ連は対日宣戦ですでに合意しており、日本政府の依頼を受ける気はありませんでした。
一方、ソ連の仲介を期待していた日本政府はポツダム宣言に対して当初「黙殺」する方針を取り続けました。その結果、広島・長崎への原子爆弾投下、続くソ連対日参戦を回避することができなかったのです。
原爆による死亡者(5年後までの統計)は、広島で約20万人、長崎で約14万人に及んでいますが、ソ連対日参戦においても関東軍はほとんど抵抗できずに敗北し、日本側の死傷者は10万人、シベリアに抑留されて捕虜となった人が60万人と推計されます。日本政府は、8月10日に「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定しました。
戦争を長引かせた無条件降伏の要求
1945年(昭和20年)5月にはドイツが無条件降伏していました。連合国にとって最後の敵国となった日本への対応と戦争処理を話し合うために、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の首脳がポツダムに集まって会談を開きます。そこで発表されたのがポツダム宣言であり、日本に対する無条件降伏を勧告するものでした。この無条件での降伏を日本に対して求めたのは、ルーズベルトの強い個人的な意向だったと言われています。
ドイツは国家、政府がなくなるまで完全に破壊しつくされました。首都ベルリンまで陥落したのですから。そこまでやる必要は果たしてあったのでしょうか。
45年3月にフィリピンが陥落すた後は、日本には有効な反撃は何もできなくなっていましたし、もう勝ち目はなくなっていました。5月のドイツ降伏以降、日本は降伏のチャンスをずっと待っていたのですが、ドイツ同様、無条件降伏を突きつけられてしまったために、日本は最後まで戦わざるを得なくなっていったのです
ですから無条件降伏の要求さえなければ、原爆投下はもちろん沖縄戦だって避けることはできただろうというのが、フーバーの主張です。
「1945年の5月、6月、7月と、日本は白旗を掲げて和平を求めていたが、トルーマンはこれを拒否した。トルーマンは、ルーズベルトの無条件降伏という愚かな条件に従う義務は無かったのだが。ヨーロッパにおける米国の軍事指導者たちは無条件降伏にこだわることに反対していたのだ。日本との和平はただひとつの譲歩で達成できた。それは天皇の地位の保全である。日本の天皇は世俗国家の元首であるばかりでなく、国民の精神的権威でもある。天皇の地位は信仰と伝統に基づくものなのだ。米国側が、最終的にこの条件を受け入れたのは、数十万人の人命が犠牲になった後であった」
日本側が出していた条件は「天皇の地位の保全」だけでした。アメリカが天皇の地位を保証さえすれば、日本はすぐにでも降伏して早く戦争を終わらせられました。多くの犠牲を回避することができたのです。
「ポツダム会談」ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域となったポツダムにアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。
「ポツダム宣言」1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国に対して発せられた、全13ヵ条から成る宣言である。
ポツダム会談が行われた場所はドイツの首都ベルリン郊外にある小さな町ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿。ポツダム宣言が採択された場所です。第二次世界大戦による被害がベルリンよりも少なかったのでこの場所が選ばれたとのこと。現在は世界遺産に登録されています。宮殿内ではポツダム会談が行われた当時のままに保存された部屋が見学できます。
ルーズベルト大統領が犯した3つの大罪
フーバーが『フリーダム・ビトレイド』の中で強く主張したかったこととは何だったのでしょうか。
ルーズベルト大統領が犯した3つの大罪を挙げるとすれば、ひとつ目は「日米戦争は、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが日本に向けて仕掛けたものであり、日本の侵略が原因ではない」ということです。
ふたつ目は「41年の日米交渉では、ルーズベルトは日本側の妥協を受け入れる意図は初めから全くなかった。彼は日本側の誠実な和平の努力をことごとく潰した」ということです。そして3つ目に、アメリカは45年に「原爆を投下せずに日本を降伏させることができた」ということです。「原爆投下の罪は、アメリカ人の良心の上に重くのしかかっている」とまでフーバーは言っています。
落とす必要がなかった原爆
このように終戦に関しても、原爆についてもフーバーは率直に書いています。
原爆を落としたのはトルーマン大統領かもしれませんが、その絵を描いたのはルーズベルトでした「1944年(昭和19年)11月に例のない四選を果たしたルーズベルトは翌年4月に脳卒中で死去、副大統領ハリー・トルーマンが大統領に昇格していました」。
終戦に向かう時期には、日本は繰り返しアメリカに和平を求める意向を示していました。それにもかかわらずアメリカが原爆投下に踏み切ったのは、アメリカの歴史において未曾有の残虐行為でした。これは「アメリカ人の良心を永遠に責め苛(さいな)むものである」とフーバーははっきり書いています。落とす必要は全くなかったということです。
原爆投下でアメリカの覇権を誇示
原爆はなぜ投下されなければならなかったのでしょうか。日本は和平の手段を模索して動いていました。原爆を投下せずに日本を降伏させることは十分可能でした。
原爆を日本に落とすのは、ルーズベルトが決定することでした。トルーマンは実際に命令を下しただけです。戦後のアメリカの圧倒的な軍事力というものを示すためにも使ってみたかったというのがトルーマンの本音でしょう。作った以上は、実験も済んでいるので、実戦兵器として使ってみたかったのでしょう。一方、トルーマンはソ連を非常に警戒していました。
日本を徹底的に破壊して早く降伏させるというのが表の理由でしょうけれど事実上、戦後世界で覇権争いをすることになるソ連に対する抑えや威嚇(いかく)の意味が強かったのでしょう。それと同時に全く新しい兵器ができたわけですから、それを世界に誇示して新世界における超大国アメリカの覇権を示す意味もありました。
共産主義革命を目指した陸軍
終戦を模索する勢力の中では、陸軍の統制派を警戒する動きがありました。1945年(昭和20年)2月、近衛文麿が昭和天皇に「近衛文麿上奏文」を出して早く戦争を終わらせるよう訴えました。この上奏文が特別な意味を持つのは「天皇制維持のため、日本の共産化を防ぐ」ことでした。そのために早期の停戦を上奏したのでした。
この中で近衛は「陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀である」とする反共産主義に基づく陰謀論を主張していました。早く終戦にしないと社会主義革命が起きてしまう。天皇を守るために、急いで終戦にしなければいけないという危機感からの上奏でした。
しかし、近衛の主張は統制派の妨害に加えて二・二六事件などにより皇道派を嫌悪していた天皇には受け入れ難いものであったため、彼らの和平の動きが進展することはありませんでした。
イギリスの伝統的な外交政策
そもそもアメリカが自国の国益を本気で考えるなら、ヨーロッパにおいてスターリンとヒトラーが直接戦争をしているのであれば、勝手にやらせておけばよかった、というのがフーバーの考え方です。
要するに、ヒトラーとスターリンは両方とも不倶戴天(ふぐたいてん)の敵なのです。ナチズムというのは初めから共産主義こそが正面の敵です。ですから双方を戦わせておけばいいのであって、アメリカが介入する必然性はなかったのです。
それはイギリスの場合も全く同じです。チャーチルはナチス・ドイツを敵視し過ぎて、非常にバカなことをやってしまいました。というのはイギリスの伝統的な外交政策というのは、ヨーロッパ大陸をひとつの大国によって支配させないことなのです。なぜなら、そうなったら次はイギリスが狙われるからです。かつてのナポレオンがそうだったようにです。
イギリスにとってはナチズムもソ連のコミュニズム(共産主義)も間違いなく敵です。ヒトラーもスターリンも悪いやつら同士が戦っているんだから戦わせておけばよかったのです。それでどちらも疲労困憊して両方が戦争を終わりにしたいとなったときに仲介役として出ていって介入すればいいのです。そうすればヨーロッパを共産主義者やナチズムが支配することから防止することも可能だったはずです。
もちろんどちらかが大きく勝つかもしれません。極端なことを言えば、大英帝国からすればヨーロッパ大陸すべてをナチスが制覇したところで、大して困らないはずなのです。イギリスの利権というのは世界中に分散しているからで、インドをドイツが奪いに来るという話でもなかったし、中東を取るという話でもなかったわけです。
これがイギリスの伝統的な外交政策です。これをバランス・オブ・パワーと言います。一般的な意味は、突出した脅威が生み出されないように国家間の勢力均衡を図ることを意味する言葉です。
大局観に基づく知恵を持っていたか
イギリスのバランス・オブ・パワーという考え方は、日本が行っていた戦争でも通じる考え方でした。
中国大陸まで出かけていって中国大陸を全部制覇しようなんていうことは、日本の国力を考えてみたらとても無理な話なのです。中国にはあちこちに軍閥がいて分裂してやりあっています。これをそのまま放っておけばよかったのです。こういう知恵が、残念ながら日本人にはありません。日本人は親切だから、挑戦を立派な国にしようとか中国もちゃんとした国にしてやろうなんて思うから、かえってとんでもない結果になってしまいます。どちらも放っておけばよかったのです。
ところが、日本が介入したものだから、英米の支援を受けた蒋介石やソ連の支援を受けた毛沢東が強くなり、ついに毛沢東が中国を統一してしまいました。日本がやったことは、結果として共産党の進出を促したわけです。
構図を変えた第二次世界大戦
第二次大戦は世界に何をもたらしたのでしょうか。まず、連合国側の完全な勝利、枢軸国側の敗北に終わりました。そして、戦後の国際社会の枠組みも大きく変化します。米ソ2大国の強大化と、東西冷戦の開始です。そして中国などのアジア諸民族の自立の動きが大きくなります。
第二次大戦の実質上の一番の戦勝国として世界史に登場したのがアメリカです。1945年(昭和20年)以降は、イギリスに代わって、アメリカがナンバー1の世界覇権国家となりました。準覇権国家としてアメリカのライバルとなったのがソビエト連邦です。この2大国が対立する時代、言い換えれば米ソ冷戦が第二次大戦後の世界秩序の中枢を構成していきます。
大きかったイギリスの勝利の代償
第二次大戦の結果、チャーチルはイギリスを戦勝国に導くことには成功しました。しかし、その代償は余りに大きかったと言えるでしょう。というのもイギリスは第二次大戦後、次々にその植民地を失い、覇権国家としては完全に没落してしまったからです。
大英帝国の植民地は世界7つの海にあるのであって、ヨーロッパの大陸の中ではありませんでした。ヒトラーが何をしようが、スターリンが何をしようが両方がくたびれるまでしばらく黙って見ていればよかったのです。
そして、大英帝国崩壊に最も影響を持ったのは、大日本帝国です。第二次大戦中の日本の軍事行動はアジア諸国に独立の気運と機会を与えるものとなりました。戦後、イギリスは植民地を維持することができなくなり、植民地の大半を失うのです。
チャーチルはドイツと戦うためにアメリカを参戦させ、日本を巻き込んだ形になりました。結局、日本がアジアの植民地解放をやらざるを得ない立場になって、実際にやってしまったわけです。いわば大日本帝国が崩壊するとき、大英帝国をも抱き合い心中で滅ぼしてしまったようなものです。それもこれも、チャーチルとルーズベルトが日本を経済封鎖で追い込み、開戦させたことが始まりでした。
大戦後の本当の勝者は誰か
戦勝国の一角であったソ連ですが、戦後は東ヨーロッパ地域のほとんどを占領し、バルト三国を併合します。そして、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ政権を樹立しました。冷戦時代には、これらを「衛星国」という名の新たな植民地として支配し続けました。
またイギリスと異なり、ソ連は戦後もずる賢く立ち回っています。戦争があったら、負けた国ではだいたい革命が起きる、というのが世の習いです。疲弊した国々で社会主義革命を起こすためにソ連は共産主義のプロパガンダをやったり、反政府勢力を支援したりするなどしていました。
国によっては社会にどんどん共産主義の影響が浸透していきました。そうやってイギリスでもアメリカでもコミュニストが増えていきました。このように戦後、世界にコミュニズムを広めようという動きが本格化していきました。
チャーチルもルーズベルトも、スターリンの戦略には遠く及ばなかったと言えるでしょう。スターリンは、資本主義国同士を戦わせて漁夫の利を得ました。戦後は疲弊した国々で社会主義革命を起こすという明確な戦略を立てていたのです。
ですから、第二次大戦で本当の勝者というのはソ連であり、スターリンでしょう。ソ連は第二次大戦で死者2000万人以上という最大の犠牲者を出したと言われますが、ドイツとの戦争で獲得した東ヨーロッパで、次々と共産党政権を樹立させました。スターリンにとっては国民が何人死のうが関係ありません。共産主義の世界的な大進展や、なおかつソ連の強大化が現実になりました。
中国を労せずして得た毛沢東
スターリンに次いで儲かったのは、毛沢東の共産党でしょう。第二次大戦が終わると中国では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党による国共内戦(第二次)が起こります。トルーマンは国民党と共産党の連立政権を中国に樹立するという幻想にとらわれていました。この時点ではアメリカ政府内に共産主義シンパがたくさんいたこともあり、国民党への援助を停止してしまうのです。トルーマンは内戦に巻き込まれることを避け、中国からの撤退を表明します。
ついに1949年(昭和24年)10月、毛沢東は中華人民共和国の樹立を宣言します。蒋介石の国民党は台湾に逃れ、中華民国を存続させています。
前のほうで述べたように、アメリカは中国を自分たちのマーケットにしたいと思っていました。そのため日本に戦争を仕掛けたのです。
長い文章になりましたが、以上です
世界を支配していたのはアメリカなのです
ですが ... そのアメリカも支配されていたのでした
続きは後日また ...
*上記は『裏切られた自由』の要約本とも言える『太平洋戦争の大嘘』からの備忘録としての書き写しです
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