きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

京都より奈良

 

京都人気をよそ目に
奈良へやってきました

 

 

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近鉄奈良駅
京都から急行で約47分
大坂難波から快速急行で約39分
*駅構内の観光課で地図がもらえます

 

 

奈良観光、3時間でこんなに回れます
でも疲れます

 

 

近鉄奈良駅 9:30
 ↓

興福寺 9:40
 ↓

奈良ホテル 10:00
 ↓

奈良公園 10:10
 ↓

春日大社 10:30
 ↓

東大寺二月堂 11:00
 ↓

正倉院 11:20
 ↓

東大寺大仏殿 11:40
 ↓

⑧ 南大門 11:50
 ↓

奈良県庁前 12:00
 ↓

⑩ 喫茶休憩 
 ↓

近鉄奈良駅 12:30

 

 

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① まずは興福寺から
それぞれの歴史や詳細は省略します

 

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奈良ホテルあたりから眺める興福寺五重塔

 

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② 伝統ある奈良ホテル

 

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奈良公園の鹿

 

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春日大社近鉄奈良駅から直接歩くと30~40分くらいでしょうか

 

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春日大社

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春日大社。灯篭

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東大寺二月堂

 

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⑤ 二月堂

 

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⑤ 二月堂

 

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⑤ こんどは二月堂茶所
ここはセルフサービスです
使った茶碗は自分で洗っていきます

 

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⑤ 二月堂から次の正倉院

 

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正倉院に着きました

 

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正倉院の全体像です

 

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東大寺「南大門」金剛力士

 

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東大寺大仏殿

 

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東大寺大仏殿正面

 

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⑩ 奈良町で休憩

 

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観光パンフレットで、もう一度奈良の復習です
やっぱり奈良は大仏と鹿かと思いましたが、歴史や伝統、きれいに整備された奈良町など大和朝廷への旅ができる素敵な街でした

 

 

 

 

 

おとな旅プレミアム 奈良・大和路 '19-'20年

おとな旅プレミアム 奈良・大和路 '19-'20年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元米大統領の告発 『裏切られた自由』

 

 

思わず声を失う ...

 

 

太平洋戦争は
アメリカ側が、仕掛けた戦争

日本がその謀略にまんまとはまった

 

真珠湾を攻撃してくれて
チャーチルルーズベルトも大喜び

 

原爆という全く新しい兵器ができ
それを世界に誇示するために
使ってみたかった

 

 

 

*以下長文です(本1冊分相当)

 

 

 

 

フーバーの勇気ある告発

 フランクリン・ルーズベルトの前の大統領に、第31代のアメリカの大統領を務めたハーバート・フーバーという人がいました。その彼の著書が『フリーダム・ビトレイド( Freedom Betrayed )』(邦題『裏切りの自由』)という本です。ところが、この本はなんと50年近くの間、出版されませんでした。なぜ出なかったのか、というと「本当のことが書いてあるから」「知られてしまうとまずいことが書いてあるから」出せなかったのです。
 本書には、第二次世界大戦とは何だったのかを論じる第二次世界大戦論であり、同時にアンチ共産主義論になっているのです。『裏切られた自由』というタイトルですが、自由とはアメリカ人が、そしてこのフーバーが最も大事にしている価値観と言えます。その自由がどれだけ裏切られたか、いかにアメリカが共産主義によって侵食されてきたか、そして、ルーズベルトの時代が、いかにアメリカが本道から外れてひどい国家になっていたかということが、この「裏切られた自由」というタイトルに強く込められているのです。

 

 

『裏切られた自由』「FREEDOM BETRAYED」
フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症
本書はフーバーが第二次世界大戦の過程を詳細に検証した回顧録だ。第二次世界大戦とは何だったのか。従来の見方とは真っ向から対立する歴史観をもつ本書は長い間、公にされなかったが、2011年に米国フーバー研究所(スタンフォード大学内)から刊行され、話題を呼んでいる。さまざまな情報にアクセスできたアメリカの政治指導者が20年の歳月をかけて完成させた第一級の史料だ。なお邦訳は2017年春に出版されている。

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ハーバート・クラーク・フーバー
Herbert Clark Hoover
1874-1964  アメリカ合衆国の政治家、鉱山技術者、第31代アメリカ大統領。第3代商務長官を歴任。身長182cm。共和党スタンフォード大学卒業(地質学専攻)。『フーバー回顧録』でフーバーは広島への原爆投下を非難している。また、チャーチルルーズベルトスターリンを連合国側に引き入れたことはスターリン共産主義を広める助けになったと批判、スターリンヒトラーと同じろくでなしで彼ら2人同士を戦わせておけばよかったという意味のことを著書『裏切られた自由』(2011年発行)で述べている。1964年、ニューヨークにて90歳で死去。

 


  

日本は終戦まで何度もアメリカに
和平提案を送っていた

 

それを完全に無視し続けた
うえでの原爆投下

 

瀕死の日本にどうして
そこまでする必要があったのか

 

 

 

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ヤルタ会談(前列左から)チャーチルルーズベルトスターリン

ヤルタ会談とは1945年2月4日から11日にかけて当時のソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で行われた、アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦による首脳会談である。
第二次世界大戦が終盤に入るなか、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際レジームを規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。

 

 

 

日本の鎖国を終わらせたアメリ

 フーバーの『裏切られた自由』によるルーズベルト史観の検証を始めるまえに、日米関係の歴史を復習しておきましょう。
 江戸時代末期の1853年(嘉永6年)、アメリカのマシュー・ペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀に到着し、鎖国政策をとっていた徳川幕府に開国を迫ります。ペリーが日本に来た第一の理由は当時、日本近海で盛んに操業していたアメリカの捕鯨船に食糧、燃料、水などを供給する港を開くためでした。そのころのアメリカでは、捕鯨が一大産業でした。アメリカの人口が増大し、国家経済が発展するに従い、膨大な量の鯨油(げいゆ)が必要でした。鯨油はランプに使う燃料として最適だったからです。アメリカの捕鯨船は太平洋を西へ西へとその漁場を拡大していき、たどり着いたのが日本列島近海でした。日本には伝統的な捕鯨漁業が発達しており、それほどこのあたりは多数の鯨が生息していたのです。

 

南北戦争で生じた日米関係の空白

 ペリーから開国の要求を突き付けられた幕府は翌年、日米和親条約を結び、下田・函館を開港します。ここに日本の鎖国は終わりを告げました。江戸幕府はその土台が揺らいで一気に幕末へと向かいます。
 なお、ペリー提督には、その他に中国(当時の清朝)との交易を開始するという目的があり、こちらのほうが最終目的でした。交易の点からは中国が主で、日本はその次だったのです。
 日本の開国にアメリカは先鞭をつけた形でしたが、対日政策で大きく後れをとってしまいました。アメリカは南北戦争(1861~65年)を始めてしまったことで、東アジアでは何もできなくなってしまったのです。これはアメリカ史上最大の戦争で、60万人以上が死んでいます。アメリカ人同士の争いにより深い亀裂を国内に抱え込んだのです。
 幕末の日本は、フランスとイギリスによる奪い合いとなり、フランスが幕府側につく一方、イギリスは薩長の側についていました。表の歴史は薩長が勝ったということで、実際はイギリスの勝ちでした。

 

ハワイを乗っ取ったアメリ

 アメリカ国内では、1776年(安永5年)に13州連邦国家としてイギリスに対して独立を宣言しています。のちに次々と西部に進出して領土拡大を進め、1848年(嘉永元年)にカリフォルニアを獲得して太平洋岸まで到達しました。
 次は海の向こうのハワイを乗っ取るわけです。ハワイ王国は、初代国王カメハメハ1世とその子孫によって統治された、れっきとした独立国でした。しかし、19世紀中ごろから砂糖・パイナップル事業などでアメリカの進出が顕著になり、多くの土地が買いたたかれ、事実上アメリカがハワイを支配するに至ります。そして、1893年明治26年)に白人入植者がクーデターを起し、ハワイ王国を倒して共和国とします。98年8月、時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーがハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言し、1959年8月に50番目の州としてアメリカ合衆国領としてのハワイ州が正式に成立しています。

 

日本に助けを求めたハワイ王国

 19世紀中ごろ、ハワイ王国にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、互いに対立していました。ハワイの王は代々、アメリカを牽制するために親英的でした。増大するアメリカ人実業家の勢力を抑え、アメリカ世論におけるハワイ併合への動きを抑止するために、聖公会イギリス国教会の海外部門)をハワイに設立し、英国への接近を試みるなどしています。
 1881年明治14年)カラカウア王はひそかに、日本をはじめ、アジア、ヨーロッパをまわる旅に出ました。旅の表向きの理由はハワイへの移民の促進交渉と表敬訪問でした。アメリカに対抗するための各国との交渉やハワイの労働不足に対する協力要請などが王の狙いでした。
 ハワイ王国は今にも滅びそうになっていました。アジア太平洋地域で列強の植民地になっていない国は日本くらいでした。そこで、明治維新で近代化した日本と縁組をすれば、ハワイ王国の安泰につながるだろうと考えたのです。
 日本を訪れたカラカウア王は明治天皇に謁見し、日本人のハワイ移住促進を要請します。そして、王位継承者のカイウラニ王女と皇族のひとり山階宮定麿王との縁談をもちかけたのです。しかし、日本政府はアメリカとの対立を避けるため、これらの提案に対し親書をもって丁重に断りました。しかし、移民の促進に関しては問題がないと考え、85年から94年にかけて3万人近くの官斡旋の移民がハワイに渡りました。

 

ロシアとイギリスのグレートゲーム

 日本は日清戦争(1894〜95年)に勝利し、日露戦争(1904〜05年)が起こります。日露戦争というと日本とロシアの戦いのようですが、当時の日本はイギリスの代理人でしたから、東アジアにおけるイギリスの代理人としてロシアと戦ったというのが実情です。02年に結ばれた日英同盟がそういう性質の軍事同盟だったからです。
 日清戦争に勝利した日本が、下関条約で中国(清朝)から遼東半島を獲得したことに対して、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉し、その返還を迫ってきました。日本単独ではこれら3大国に対抗することができず、悔し涙を呑みます。このとき日英同盟があれば拒絶できただろうという想いでした。そこで、中国と朝鮮半島における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的として、日英同盟が締結されることになりました。これにより、日本はロシア帝国とようやく相対峙する体制を整えました。悪く言えば、大英帝国の東アジアにおける代理人となったのです。
 ロシアとイギリスは、当時対決する運命にあり、このアジアの覇権をめぐる大英帝国ロシア帝国のぶつかり合いはグレート・ゲームと言われています。ロシアはランドパワー、すなわち大陸国家ですから、ユーラシア大陸を南と東へと進んで自分たちの領地をどんどん拡大していました。ロシアはついに中国とぶつかってしまいます。両国は1689年(元禄2年)にネルチンスク条約を結んで国境線を確定しますが、機会があれば南下してくるのがロシアです。
 イギリスは、アフリカ大陸のケープタウンを植民地として獲得し、完成したスエズ運河を押さえ、アジアに対して本格的な帝国主義政策を取るようになります。かくして、イギリスは海洋国家として、中東さらにインドを制圧し、マラッカ海峡を経てマレーシアからシナ大陸にまで進出していきます。

 

英露ふたつの大国と日本の関係

 イギリスとロシアというふたつの帝国の勢力が本格的に衝突したのが、19世紀中ごろの日本だったのです。幕末のころに、ロシアは日本に盛んに使いを寄こして開国を迫っています。イギリスは薩英戦争や馬関戦争(下関戦争)で直接、日本の内政に手を突っ込んできます。ふたつの帝国の勢力が日本の地でこうして交わる背景があったのです。
 越前藩の橋本左内という人が、当時の世界の大勢を見て、「日本はイギリスと組んでロシアと戦うか、ロシアと組んでイギリスと戦うのか、このどちらかを早晩、決断せざるを得なくなる。しかし、いずれにせよ、そのときに必要なことは、日本が近代的な統一国家になっていることだ」と誰よりも早く警告を発していたのです。左内の予言から50年後、日本はイギリスと同盟を結び、ロシアと戦うことになります。
 ところで、イギリスはなぜ直接ロシアと戦わなかったのでしょうか。それは東アジアの権益を確保しようとしたら、新しい艦隊を作らなければならず、膨大な費用がかかります。それよりは日本をイギリスの代理人に仕立てて、代わりに戦わせたほうが万事都合がいいのです。それが大英帝国英智でした。日露戦争敗退のあと、ロシア帝国は衰退期に入り、第一次世界大戦中の1917年(大正6年)にロシア革命が起き、ロマノフ王朝によるロシア帝国は滅亡することになるのです。

 

覇権国の戦いのはざまに立たされる日本

 ところが、そうなってくるとアメリカとしてはおもしろくないのです。当時のイギリスとアメリカの関係は、現在とはまったく違いイギリスは世界一の大帝国でした。そのアメリカはハワイを取り、次はアジアの本命である、中国の巨大な人口のある市場に、日本を越えて参入していきたいと思っていたわけです。ところが、イギリスの勢力圏が強く阻まれていました。
 それでアメリカは、のちに日英同盟を破棄させるようにしたのです。日本とイギリスがガッチリ組んでいられると、アメリカは東アジアに入っていけないのです。それで日本とイギリスを分断する必要がありました。日本が単独ならば戦えるし、イギリスは世界中に植民地があるわけだから、単独では東アジアのほうまで手が回らないだろうと。
 新興国アメリカと旧帝国イギリスという、新旧の覇権国の戦いの間(はざま)に日本は立たされていたのです。

 

日本を仮想敵国としていたアメリ

 アメリカは、このころ日本を仮想敵国とした戦争計画である「オレンジ・プラン」を作っています。自国と交戦可能性のある全ての国に対してそれぞれ色分けした計画を作っていたのです。つまり、日本だけを特に敵視していたわけではなく、ドイツと戦う戦略も考えていましたし、イギリスやフランスと戦うことも考えていました。

 

日米関係は悪くなかった

 日本は無理やりアメリカに開国させられたのですが、明治のころの日米関係はそんなに悪くはなかったのです。
 アメリカへの移民が、明治の初めからずっと続いていました。最初の移民は1868年(明治元年)で、ハワイに行きました。ハワイに行った移民の一部はやがて本土カリフォルニアに渡っていきます。このように長年にわたって移民を受け入れているほどでしたからアメリカに対する感情は必ずしも悪くなかったのです。1923年(大正12年)の関東大震災のときも、アメリカから大変な援助が来ています。医療団の派遣や義捐金を呼びかけていました。
 実は06年のサンフランシスコ地震があったときに、日本は高額の義捐金を出しており、日本政府初の海外緊急援助となりました。関東大震災の大規模な支援も、このサンフランシスコ大地震での絆から生まれたものだったのです。

 

対日感情を変えた移民排除運動

  ところが、あるとき日米関係を180度変えてしまいます。アメリカにおける移民排斥運動の始まりです。カリフォルニア辺りから、日本人移民だけを排斥するという運動が起こりました。日本人移民はみな真面目に働いて、そのお金をコツコツ貯め、それで土地を買っていき、その結果、当時のカリフォルニアの農業生産の1割ぐらいを日系人が占めるほどになったのです。
 日本人は勤勉で、真面目に働き、お金を稼いで、それで土地を買って広げていくと見られていました。移民一世は、子どもの教育はちゃんとしたいからと言って、日本に二世を送って教育して、またアメリカに戻したりします。そうすると、アメリカに同化しないと言われてしまう。アメリカの白人の農家からすると、日本人が大変な脅威に映るわけです。このままではカリフォルニアは彼らに乗っ取られてしまう、そういう話が広まるようになりました。
 排外主義を煽る質の悪い新聞が悪質な反日プロパガンダを広めます。日本人だけがターゲットにされて、日本人移民だけを排斥するという法律が通ってしまいました。1924年大正13年)4月に、排日移民法が米国上下両院で法案として可決されました。これが日米関係が悪くなっていくきっかけになります。

 

 

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”排日移民法”(1924年民法案)にサインするクーリッジ大統領

排日移民法1924年7月1日に施行されたアメリカ合衆国の法律の日本における通称である。正確には1924年民法、またはジョンソン=リード法であり、日本人移民のみを排除した法律ではない。南欧ユダヤ人も含む東欧からの移民が制限された。しかし、特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになり、アメリカ政府に対し日系移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えた。

 

 

 

衝突する運命にあった日米

 第一次大戦までの世界は、パックス・ブリタニカです。大英帝国を中心として世界の秩序が保たれていました。第一次大戦ではイギリスが勝ったものの、大きく力が後退します。するとそれに代わって、アメリカのような新興国がどんどん伸びてきます。極東では日本が勢力を伸ばしていて台湾を、そして朝鮮半島を領有するなど、いわゆる列強(大国)の一角を占めるようになります。また第一次大戦で敗北を喫し、たたかれまくったドイツは、1920年代からナチズムが出てきて力を伸ばしつつありました。
 世界の覇権国の構造というものが大きく変わってきていたのです。アメリカが勢力を西へ西へとどんどん伸ばしていく一方で、日本は東アジアで日本を中心とした新しい秩序を作っていこうとしていました。日米はもう好きとか嫌いではなく、やはりライバルにならざるを得なかったということです。それが、第二次大戦の大きな枠と重なって起きたということなのです。イギリスの教科書を見るとそういう書き方をしていますね。しかしだからといって、日米両国があれほどの大戦争をする必然があったわけではありません。

 

日本の利権独占が許せなかった

 アメリカは1898年(明治31年)の米西戦争でスペインとの戦争に勝つと、スペインの植民地だったフィリピンを手に入れます。アメリカの一番の狙いは中国でした。
 ところが、日本は地理的に一番近いところにいるうえに、日清戦争日露戦争に勝っていますから戦争によって合法的に獲得した権利や利権がいっぱいあります。日本が中国の権益を独占しようとしている状況を、アメリカは許せないのです。もちろん、利権というのは中国だけでなく、満州国も含んだ話です。日米の間で戦争に突入した直接の理由となったのが、中国と満州なのです。
 アメリカは、1941年(昭和16年)の開戦前の日米交渉の過程で、シナ大陸から日本の兵隊をすべて引き揚げろと言ってきますが、日本側がそんな提案を受け入れられるわけがありません。日本だけ軍隊を引き揚げてしまったら、これまで合法的に獲得してきた大陸における日本の権益を守ることができなくなります。居住している日本人の安全も守れません。我が国からしたら、それは無理な話です。
 アメリカはもう最後は、日本が受け入れられないのは承知で無理難題を言ってきたのです。ハル・ノート最後通牒だとか、事実上の宣戦布告だと言われるのはそういうことです。相手が呑めないことを言って追いつめて、戦争にしようというのが、当時の大統領だったフランクリン・ルーズベルトの腹だったのです。
 日米の衝突は、おかしなことにシナ大陸の利権がほしいというところから生じてきたものだったのです。要するにマーケットをどちらが取るかという話にすぎません。将来あそこの市場が欲しいという理由で戦争をするなんて通常はあり得ません。やはりこれは、ルーズベルト政権だからで、日本を追い込んで戦争を始めるために言ってきた口実に過ぎないのです。

 

日本への宣戦布告なき戦争

 1941年(昭和16年)7月にアメリカは、日本に経済制裁をします。日本ではよくABCD包囲網と言われます。対日経済制裁をしていたアメリカ合衆国(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)の各国の頭文字を並べたものです。
 特にアメリカによる経済制裁は、在米資産凍結、石油の禁輸という厳しいものでした。フーバーは『フリーダム・ビトレイド』の中で、これこそ「日本に対する宣戦布告なき戦争であった」のであり、「アメリカを戦争へ誘導していったのは他ならぬルーズベルト(大統領)その人であった」と書いています。要するに、ルーズベルト大統領こそが日本を戦争に導いていった張本人である、日本はそれに乗せられてしまった、ということを主張しているのです。

 

 

 

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フランクリン・デラノ・ルーズベルト
Franklin Delano Roosevelt

1882-1945 アメリカ合衆国の政治家。民主党。第32代大統領。世界恐慌第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の一人。ハーバード大学コロンビア大学を卒業。彼の政権下でのニューディール政策第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済を世界恐慌どん底から回復させたと評価される。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。なお、ルーズベルトアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。1945年4月12日に脳卒中で死去し、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後、5月にはドイツ、8月には日本が降伏し、第二次世界大戦終結とその勝利を目前にした死であった。

 

 

ルーズベルト大統領が望んだ戦争

 では、なぜルーズベルトは日本との戦争を望んだのでしょうか。1939年(昭和14年)、ドイツがポーランドに侵攻したところから第二次大戦は始まりました。この時点では日本もアメリカも開戦していません。
 ところが、40年にドイツ軍はまたたく間にパリを占領、フランスを降伏させます。さらにイギリスの本土に空爆を開始するなど、イギリスはドイツに本土上陸寸前まで追いつめられていました。そして、41年6月にドイツ軍は独ソ不可侵条約を破棄してソビエト連邦に侵攻。そしてドイツ軍はヨーロッパの大半と北アフリカの一部を占領するなど圧倒的な優勢を保っていたのです。
 また、日本軍の攻勢により、首都南京は37年12月に陥落、中華民国政府は四川省重慶への疎開を余儀なくされなど、どんどん追いやられていました。
 イギリスのチャーチルも、ソ連スターリンも、中華民国蒋介石もみな、とにかく早くアメリカに参戦してもらいたかったのですアメリカは、すでに世界最大の工業国となっていました。ですからみな、ルーズベルト政権に対して、とにかく早く第二次大戦に参加してくれ、ということを一生懸命働きかけていたのです。

 

社会主義へひた走るルーズベルト

  スターリンチャーチル蒋介石の3人はそもそもルーズベルトにとっては近い存在でした。ルーズベルトソ連が大好きでした。冷酷な独裁者ヨシフ・スターリンをアンクル・ヨシフと呼ぶほどで、スターリンには親しみを持っていました。ルーズベルトの側近やブレーンにもソ連のスパイやシンパが山のようにいました。
 ルーズベルト大恐慌の経済危機を克服するために、ニューディール政策を行います。連邦政府が積極的に経済に介入することを基調としたものでした。急進的な社会革命の中身を見れば、それが計画経済そのものであって、彼の社会主義への志向の強さがうかがえます。
 ルーズベルト社会主義こそが新しい時代のトレンドであって、アメリカも長期的には計画経済の方向に行くべきであると考えていました。だから、この点でスターリンと世界観が一致していました。
 また、チャーチルとも仲が良く、早くからアメリカの参戦を訴えていました。チャーチルルーズベルトは、太平洋戦争前の1941年(昭和16年)8月に大西洋憲章を調印しますが、その時点でアメリカの参戦について話し合っていたことが、明らかになっています。
 そして、アメリカのルーズベルト政権を誰よりも頼りにしていたのが、中華民国蒋介石です。もうこのままでは日本にやられてしまうという思いがありましたから、アメリカに早く参戦してもらいたいわけです。

 

中国とキリスト教宣教師との奇妙な関係

 蒋介石アメリカ国内のキリスト教会を煽(あお)って、「日本は悪者であり、中国はその可哀想な犠牲者である」というプロパガンダアメリカ中に広めています。実はアメリカの教会関係者には中国に対する強い思い入れがありました。アメリカは19世紀から中国にキリスト教布教のために宣教師を送り続け、お金を使い続けてきたのです。いくらやっても本心からキリスト教徒に改宗する人はちっとも増えないのですが、熱心に布教し続けていました。
 中国に行くと形のうえでは信者が増えるのです。食べることもできない人が多い国ですから、教会に行けば食事にありつけるということで、人がやって来ました。アメリカの宣教師からは、中国の人たちはもう本当に貧しくてだらしなくて神の救いを求めている人たちがたくさんいる、そう見られていました。殺されても殺されても中国の奥地に行ったりして一生懸命布教するのです。
 こうして親中反日になった教会関係者が多かったのです。アメリカ国内では教会の聖職者には極めて大きな影響があります。地方には素朴なグッド・クリスチャンの信者が大変多くいます。その人たちが聖職者から「日本人は悪いやつらだ」「中国はかわいそうだ」という話を聞かされると、そんな嘘の話でも疑いを持たれることなくアメリカ社会に浸透していきました。

 

嘘をついて大統領選を勝ち抜いた

  こうして、ルーズベルトのところには、三方からアメリカに早く参戦してほしいと矢の催促が来ていました。ルーズベルトは、1940年(昭和15年)の大統領選で三選を果たしますが、それはすでにヨーロッパで始まっていた戦争にアメリカを介入させないと国民に公約したことも一因でした。
 ルーズベルトは「攻撃を受けない限りアメリカは絶対に参戦しない」と何回も繰り返して言い、「アメリカのお母さんたちよ、安心してくれ、あなたがたの息子をヨーロッパの戦争に送ることは絶対あり得ない」と言って、堂々と嘘をついて、大統領選を勝ち抜いたのです。実際は、彼の腹の中では参戦を固めていたわけですが、選挙では本音を隠し続けたということです。

 

日独伊三国同盟を悪用した米国

 国内の世論もあり、ルーズベルトだって簡単に戦争を始めるわけにはいきません。それで当初はドイツを挑発しようと手を尽くすのですが、ヒトラーも頭がいいので、なかなかそれに乗ろうとはしません。
 それなら日独伊三国同盟を悪用しよう、何とか日本から先に一発目を打たせるように仕向けて、それでアメリカが第二次大戦になだれ込めばいいという計画を立てるわけです。結果から言うと、これがものの見事に成功してしまうのです。

 

フーバーとマッカーサーとの会談

 フーバーが、1946年8昭和21年)5月上旬に来日しました。目的は敗戦国への食糧援助でした。時のトルーマン大統領から依頼されて日本、ドイツの視察に来たのです。
 敗戦後の日本は、大変な食糧不足でしたから、食糧状況を視察に来ていたフーバーは、「食糧の輸入がなければ、日本国民の食糧の供給量はドイツの強制収容所並みからそれ以下になるだろう」と訴えて、マッカーサーに食糧援助を進言しています。
 そして、マッカーサーに会ったとき、フーバーは第二次大戦について話し合っています。特に日本との戦争ですね。アメリカから見て太平洋戦争とは何だったのか。という話をします。その会談が、46年5月4~6日と3日間に渡って続きました。

 

日本が始めた戦争ではなかった

 このときフーバーが率直に言います。日本との戦争のすべては、ということは太平洋戦争は ...  戦争に入りたいという狂人(マッドマン)の欲望であった、と。
 ルーズベルトのことをはっきりマッドマンと言っているのです。狂人の欲望、つまりあいつは気が狂っていて、気が狂っていると言っても精神異常ではなくて、本当に戦争をやりたくてしょうがない、そういう意味で狂人だ、と言っています。その欲望の結果が、今度の日米戦争になったんだと、私(フーバー)が言うと、マッカーサーは同意した、と。ということは、日本が始めた戦争ではない、日本は悪くなかったということです。
 日本が始めた戦争ではない、ルーズベルトが始めた戦争であり、ルーズベルトが日本を追いつめてやった戦争であるということです。マッカーサーはその通りだと答えました。
 フーバーは続けて次のように言った。『1941年7月の日本に対する金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になるとわかっていても日本が戦争をせざるを得ない状況に追い込んだのだ。制裁は殺戮(さつりく)と破壊以外のすべての戦争行為を実現するものであり、いかなる国といえども、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかった』と述べた。
 これは、1941年(昭和16年)7月末に日本軍が南部仏印に進駐、サイゴンへ入城したことへの報復として、アメリカが対日石油全面輸出禁止の制裁強化に踏み切ったことを指しています。これにより、日本はより窮地に立たされることになりました。

 「ルーズベルトが犯した巨大な誤りは、1941年7月、つまりスターリンと隠然たる同盟関係とばったその一か月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが、本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたってそんな挑発をすれば、遅かれ早かれ、日本が報復のための戦争を引き起こすことになる、と警告を受けていた」

 経済制裁がすでに戦争の開始であるというのは、当時の国際法上からも認められていた原則だったのです。その後もマッカーサーは「日本の戦争は自衛戦争であった」ことを証言しています。日本は自らの防衛のために戦争に向かわざるを得なかったんだという、まっとうな意見を述べています。また次のような発言もしています。

 「太平洋において米国が過去100年間に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考えています」

 マッカーサーが、このような考え方に到達するのは、朝鮮戦争が起きて、日本の地政学的重要性を理解してからだと言われていました。アメリカが日本を占領してみて初めて、過去半世紀にこの地域で日本が直面し、対処してきた問題と責任をアメリカが代わって引き受けなくてはならなくなりました。

 

日本からの和平交渉は拒絶された

  1941年(昭和16年)の春から、日本はとにかく日米交渉、対米交渉で非常に苦労していました。なんとかして日本の国益もメンツも守りながら、アメリカと戦争しない方向を探ろうと大変な苦労を続けていました。
 近衛文麿(このえふみまろ)首相は、駐日アメリカ大使と9月に会談します。そこで、ルーズベルト大統領と直接会って、日米首脳会談でなんとか日米戦争を回避したいと強く訴えました。しかし、アメリ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示しました。

 フーバーはこうも書いております。「1941年9月の近衛首相の和平提案は、東京にいる駐日アメリカ大使も、駐日イギリス大使も祈るような気持ちでその実現を期待していた」。それにもかかわらず、ルーズベルトはこれを拒絶しました。満州のことについてもアメリカの権益に便宜を図ってもいいという打診があったとフーバーは書いています。ですから今で言えば、日本がほとんどベタ降りしているようなものだったのです。
 そしてフーバーは、戦争は日本が始めたんじゃない、日本は戦争を避けたかったんだとも言っています。

 

裏でつながっていた世界

 当時の世界情勢全体を見ると、ルーズベルトのもとには蒋介石チャーチルスターリンのところからそれぞれ密使が来ていて、とにかく早く参戦してくれと催促しているわけです。それでは日本は、それに対抗できるようなことをしていたのかというと、今にしてみると非常にまずいことがありました。
 1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟です。この三国同盟さえなかったら、ルーズベルトが日本をいじめても対ドイツ戦に参戦する口実にはならないわけです。三国同盟があったからこそ、それを逆手に取られてやられてしまったのです。

 

三国同盟締結が日本を滅ぼした

  その日独伊三国同盟ですが、通常の軍事同盟とは異なる性質のものでした。一般的に軍事同盟とは、安全保障のために戦争を抑止する目的で国家が相互に軍事力の援助を行うことを定めたものです。つまり通常は、戦争をやっている国とは同盟は結ばないものなのです。
 ところが当時は、すでにドイツは1939年(昭和14年)から戦争状態に入っていました。戦争中のドイツと同盟関係に入るということは、自動的にイギリスをはじめとした国々と敵対することになってしまうわけです。「バスに乗り遅れるな」という言葉が、このとき盛んに言われたわけですが、そんな時代の空気も大きく後押ししていたのでしょう。
 当時、天皇重臣から、三国同盟は非常に危ないという話がでていました。それと陛下を運命共同体にするというのはまずいだろうというわけです。だから、日本はよほど慎重にしなければいけないということです。しかし、その意見が通ることはありませんでした。

 

 

 

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ドイツ総統府でアドルフ・ヒトラーとの会談に臨む松岡洋右

日独伊三国同盟は日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟。1940年(昭和15年)9月27日にベルリンで調印された日独伊三国間条約に基づく日独伊三国同盟関係。

 

 

 

安堵して眠りについたチャーチル

  1941年(昭和16年)12月8日、日本手帝国海軍はハワイ真珠湾基地を奇襲。太平洋戦争が始まりました。日本ではそれを大東亜戦争命名しました。日本軍は不意を突くために、攻撃は宣戦布告と同時に行うと予定されていました。実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告が届いたため、アメリカ側はこれを卑怯な奇襲と受け取ることになります。
 日本軍がパールハーバーを襲ったとき、世界で初めてのホットラインが、ルーズベルトチャーチルの間につながっていました。大西洋を渡る海底ケーブルの電話です。そのとき、チャーチルルーズベルトも大変に喜んだのです。
 チャーチルは「We are on the same boat」、ついに一緒の船に乗った。これで英米運命共同体だ。これでアメリカが参戦してくれる。ジャップのバカめと思ったことでしょう。「これで勝てる!」と確信したチャーチルは、その夜はぐっすりと眠れたと『第二世界大戦回顧録』に書いているほどです。
 日本軍が真珠湾を攻撃した直接の意味は、このようにアメリカの第二次大戦参戦を可能にしたということにありました。アメリカに参戦の絶好の口実を与えたのです。

  

日増しにソ連共産主義の侵略が激化

 アメリカでは大統領には宣戦布告をする権利がありません。これはアメリカで憲法を作ったときに大統領が勝手に戦争を始めることのないようにということで、宣戦布告をするのは議会の権限とされています。
 真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領は日本に対して宣戦布告を求める議会演説を行いました。この演説に下院議員としてそれを支持する演説をしたのが、ハミルトン・フィッシュⅢ世でした。ルーズベルトとは若いころからの知り合いです。しかし、ルーズベルトがヨーロッパの戦争に介入したがっているのを知り、アメリカ中立運動の先頭に立っていたフィッシュは真正面から対立するのです。
 フィッシュは後日、自分の本(『ルーズベルトの開戦責任』など)で「私はハル・ノートのことは全く知らなかった」と繰り返し書いています。ハル・ノート」はコーデル・ハル国務長官が日本側に示した覚え書きのような文書ですが、事実上の最後通牒でした。フィッシュはこれを「誰がどう見ても宣戦布告そのもの。これを突き付けられたら、どの国でも開戦せざるを得ない。ルーズベルトは国民を欺(あざむ)いた」と言って激怒しました。
 ルーズベルトは、とにかくアメリカのプログレッシビズム、進歩主義を代表する人でした。日本で言えば、革新のチャンピオンみたいな人です。だから共産主義にも近かったし、社会主義政策もやったし、スターリンとも親しかったのです。
 一方、フーバーにしても、ハミルトン・フィッシュにしても共和党アメリカにとって一番大事な価値観は自由だと思っている人たちです。彼らにとって共産主義というのは不倶戴天(ふぐたいてん)の敵なのです。そもそもアメリカはキリスト教的伝統のもとにできている国です。それに対して共産主義というのは、神を否定する思想であり、唯物論ですから、こんなものとは絶対に一緒にやっていけないのです。
 ところが1929年(昭和4年)の大恐慌以降、社会主義的なものがアメリカにも大量に入ってきてしまいました。しかも33年、ルーズベルトソ連を承認したことによって、アメリカに対するソ連共産主義の侵略が日増しに激しくなっていくのです。

 *「ハル・ノートその原稿を書いたのはハル長官自身ではありません。財務省補佐官のハリー・ホワイトなる人物でした。それをルーズベルト大統領が気に入り、これでいけ、ということになりハル長官から野村大使に手渡されたので、以後「ハル・ノート」と呼ばれるようになりました。ハル・ノートを書いたこのハリー・ホワイトは共産党員であり、ソ連のスパイであったことが、戦後明らかになっています。このようにハル・ノートが対日強硬要求となった背景には、日米間に戦争を起こそうとするコミンテルン(国際共産主義組織)の謀略があったのです。

日米戦争とは何だったか

 

米国を侵略する共産主義の脅威

 フーバーはとにかく共産主義が大嫌いでした。革命はもちろんですし、戦争もまた、共産主義の脅威が引き起こすものである、そういうことをはっきり見抜いていた人です。
 共産党浸透の第一の方法は、工場細胞、農村細胞などの細胞活動で成り立っていました。会社の中などにそういう細胞を送り込んで、内側から徐々にがん細胞のように増殖していきます。また ”フロント(戦線の意)” と呼ばれる組織は「平和のために声をあげましょう」とか、「環境問題で一緒に行動しましょう」と言って人を集めるのですが、それをオーガナイズしているのは共産主義者です。日本やアメリカの社会体制を弱くして、共産主義を浸透させるためにやっているのです。
 平和を求める人たち、戦争反対だという人たちを集めて、デモをやっていたら煽動(せんどう)に乗せられていた、ということになるわけです。大衆に対して情報操作、印象操作をしながら共産主義を広めていくのです。
  こうした方法が、共産主義を広める常套(じょうとう)手段として使わてれきました。気づかれないうちに浸透させるのですから、要するに間接侵略です。これによってアメリカという国の根幹である「自由」が侵されていきました。そして、実はルーズベルト政権こそは、共産主義アメリカ進出に大成功した政権だったのだということにフーバーは気づくのです。

 

日本の憲法に色濃く残る社会主義思想

  後に1950年代になって、アメリカで激しい「赤狩り」が起きました。多数の政治家、公務員、マスコミ、芸術家などが親共産主義者として告発されました。赤狩りが始まった当時はまだ民主党トルーマン政権でしたが、彼は非常に保守的な人でしたから、積極的に共産主義の弾圧に動き、ニューディール時代からの民主党系のリベラルな連邦公務員やスタッフを追放しています。それまでのルーズベルト政権から続いていた政策にもストップをかけます。ニューディール政策は革命の一部だったのです。ニューディーラーはそれによってアメリカを本格的に社会主義化しようとしていたのですが、トルーマンに邪魔されてしまいました。
 ところで、アメリカで夢を果たせなかったニューディーラーたちが日本に来て、ここで思い切り社会主義革命をやろうと言って作ったのが、日本の憲法とか戦後の体制なのですね。
 1950年(昭和25年)の朝鮮戦争くらいから、これは明らかにおかしいとアメリカも共産主義の脅威に気がつきます。そして、それからは日本の占領政策を方向転換します。それからは、アメリカは日本をアジアにおける共産主義の防波堤にしなければいけないといって、ニューディーラーたちが日本でそれまでやってきたことをひっくり返すことになるわけです。それ以降、共産主義がアジアを次々に侵略していったということもあって、日本という国が戦前にやってきたことはまともなことだったのだ、ソ連共産主義を防ぐ防波堤になっていたということに、アメリカもやっと気がつきます。

 

日本と米国の敵は中国共産党

  日本とアメリカの現在の第一の敵は、中国の独裁政権である共産党なのです。したがって、歴史問題で日米関係に不協和音が生じるのは、アメリカの国益にも日本の国益にも反していることなのです。
 中国もいろいろ策謀をめぐらしています。その一環でやっているのが、例えば慰安婦像の各地への建設です。これは韓国がやっていると思われていますが、最近は中国がそれを主に後押しするようになっています。
 中国はなぜそんなことをするのかというと、アメリカでもオーストラリアでも対日不信感を植えつけようとしているのです。日本人とは、こういう性奴隷を生み出した残虐な民族であって、信用できない国だと大宣伝をしているのです。そのためには、過去の歴史を捏造することも全然いとわない。彼らの目的は、日米同盟にひびを入れることなのですから。
 南シナ海南沙諸島で現在、中国がやっていることも、アメリカで日本を悪宣伝したり、慰安婦問題でやっていることも、全く同じ意味です。これは中国が言う「超限戦」です。あらゆるものが戦争の手段となり、あらゆる場所が戦場となり得る、という思想です。つまり、銃弾が飛び交うだけが戦争なのではなく、戦わずして相手を屈服させる「仕掛け」そのものも戦争である、というわけです。情報戦争なのです。

 

「持てる国」と「持たざる国」との戦い

  国内資源や植民地を有していて、「持てる国」であったイギリス・フランス・アメリカは、それぞれブロック経済圏を作って大恐慌から生き残りを図ることができました。一方、「持たざる国」であったドイツ、イタリア、日本は「自給自足圏」を確保するために軍事的侵略も辞さない道を選ぶことになります。
 第二次大戦の本質は、軍国主義とデモクラシーの戦いなどではなく、日独伊の後進資本主義国が、英米の先進資本主義国の覇権に挑んだ戦いであったし、大恐慌から自国を守るために各国がブロック経済政策をとったことが、世界大戦のきっかけとなったのです。

ブロック経済とは世界恐慌後に植民地などを持つ国が、植民地を「ブロック」として他国へ高率関税などの関税障壁を張り巡らせて、他のブロックへ需要が漏れ出さないようにすることで経済保護した状態の経済体制をいう。

 

戦争を必要としたルーズベルト

  ルーズベルトのときは、国内の経済は一向によくなりませんでした。ニューディール政策も完全に失敗していたのです。ここに来てルーズベルトは猛烈に戦争を必要としていました。それはウォール街の利害とも一致するものでした。
 民主国家でも戦争の指導者は全能の力を得ます。それが戦争ということになったら、政策の失敗なんて全部覆い隠すことができます。ルーズベルトは国内の経済問題も含めて、一挙に戦争政策で解決してしまおうという腹でした。
 戦争というのはとにかく物をバンバン消費します。ですから戦争が始まるや落ち込んでいた消費が爆発的な伸びを見せます。消費が一気に増えるから、それに引きずられて生産力がフル稼動していきます。失業していた人々も雇われるようになります。不況脱出のためには、マーケットの消費をものすごく増やさなければならない。戦争をすることで、それをたやすく実現できたというわけです。

 

戦争終結へ必死の模索を続ける日本

 日本国内では、サイパン島の陥落以降、大東亜戦争の帰趨は決したとして、戦争終結への動きが模索されるようになります。近衛文麿元首相や岡田啓介らの重臣グループが和平運動を展開していました。外務大臣東郷茂徳は、日ソ中立条約がいまだ有効であるからとしてソ連を仲介とした和平交渉を行おうとします。
 しかし、45年2月のヤルタ会談で、ソ連は対日宣戦ですでに合意しており、日本政府の依頼を受ける気はありませんでした。
 一方、ソ連の仲介を期待していた日本政府はポツダム宣言に対して当初「黙殺」する方針を取り続けました。その結果、広島・長崎への原子爆弾投下、続くソ連対日参戦を回避することができなかったのです。
 原爆による死亡者(5年後までの統計)は、広島で約20万人、長崎で約14万人に及んでいますが、ソ連対日参戦においても関東軍はほとんど抵抗できずに敗北し、日本側の死傷者は10万人、シベリアに抑留されて捕虜となった人が60万人と推計されます。日本政府は、8月10日に「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定しました。

 

戦争を長引かせた無条件降伏の要求

  1945年(昭和20年)5月にはドイツが無条件降伏していました。連合国にとって最後の敵国となった日本への対応と戦争処理を話し合うために、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の首脳がポツダムに集まって会談を開きます。そこで発表されたのがポツダム宣言であり、日本に対する無条件降伏を勧告するものでした。この無条件での降伏を日本に対して求めたのは、ルーズベルトの強い個人的な意向だったと言われています。
 ドイツは国家、政府がなくなるまで完全に破壊しつくされました。首都ベルリンまで陥落したのですから。そこまでやる必要は果たしてあったのでしょうか。
 45年3月にフィリピンが陥落すた後は、日本には有効な反撃は何もできなくなっていましたし、もう勝ち目はなくなっていました。5月のドイツ降伏以降、日本は降伏のチャンスをずっと待っていたのですが、ドイツ同様、無条件降伏を突きつけられてしまったために、日本は最後まで戦わざるを得なくなっていったのです
 ですから無条件降伏の要求さえなければ、原爆投下はもちろん沖縄戦だって避けることはできただろうというのが、フーバーの主張です。

 「1945年の5月、6月、7月と、日本は白旗を掲げて和平を求めていたが、トルーマンはこれを拒否した。トルーマンは、ルーズベルトの無条件降伏という愚かな条件に従う義務は無かったのだが。ヨーロッパにおける米国の軍事指導者たちは無条件降伏にこだわることに反対していたのだ。日本との和平はただひとつの譲歩で達成できた。それは天皇の地位の保全である。日本の天皇は世俗国家の元首であるばかりでなく、国民の精神的権威でもある。天皇の地位は信仰と伝統に基づくものなのだ。米国側が、最終的にこの条件を受け入れたのは、数十万人の人命が犠牲になった後であった」

 日本側が出していた条件は「天皇の地位の保全」だけでした。アメリカが天皇の地位を保証さえすれば、日本はすぐにでも降伏して早く戦争を終わらせられました。多くの犠牲を回避することができたのです。

 

 

 

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ポツダム会談」ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域となったポツダムアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。
ポツダム宣言1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国に対して発せられた、全13ヵ条から成る宣言である。

 

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ポツダム会談が行われた場所はドイツの首都ベルリン郊外にある小さな町ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿。ポツダム宣言が採択された場所です。第二次世界大戦による被害がベルリンよりも少なかったのでこの場所が選ばれたとのこと。現在は世界遺産に登録されています。宮殿内ではポツダム会談が行われた当時のままに保存された部屋が見学できます。

 

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ルーズベルト大統領が犯した3つの大罪

 フーバーが『フリーダム・ビトレイド』の中で強く主張したかったこととは何だったのでしょうか。
 ルーズベルト大統領が犯した3つの大罪を挙げるとすれば、ひとつ目は「日米戦争は、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが日本に向けて仕掛けたものであり、日本の侵略が原因ではない」ということです。
 ふたつ目は「41年の日米交渉では、ルーズベルトは日本側の妥協を受け入れる意図は初めから全くなかった。彼は日本側の誠実な和平の努力をことごとく潰した」ということです。そして3つ目に、アメリカは45年に「原爆を投下せずに日本を降伏させることができた」ということです。「原爆投下の罪は、アメリカ人の良心の上に重くのしかかっている」とまでフーバーは言っています。

 

落とす必要がなかった原爆

 このように終戦に関しても、原爆についてもフーバーは率直に書いています。
原爆を落としたのはトルーマン大統領かもしれませんが、その絵を描いたのはルーズベルトでした「1944年(昭和19年)11月に例のない四選を果たしたルーズベルトは翌年4月に脳卒中で死去、副大統領ハリー・トルーマンが大統領に昇格していました」。
 終戦に向かう時期には、日本は繰り返しアメリカに和平を求める意向を示していました。それにもかかわらずアメリカが原爆投下に踏み切ったのは、アメリカの歴史において未曾有の残虐行為でした。これは「アメリカ人の良心を永遠に責め苛(さいな)むものである」とフーバーははっきり書いています。落とす必要は全くなかったということです。

 

原爆投下でアメリカの覇権を誇示

 原爆はなぜ投下されなければならなかったのでしょうか。日本は和平の手段を模索して動いていました。原爆を投下せずに日本を降伏させることは十分可能でした。
 原爆を日本に落とすのは、ルーズベルトが決定することでした。トルーマンは実際に命令を下しただけです。戦後のアメリカの圧倒的な軍事力というものを示すためにも使ってみたかったというのがトルーマンの本音でしょう。作った以上は、実験も済んでいるので、実戦兵器として使ってみたかったのでしょう。一方、トルーマンソ連を非常に警戒していました。
 日本を徹底的に破壊して早く降伏させるというのが表の理由でしょうけれど事実上、戦後世界で覇権争いをすることになるソ連に対する抑えや威嚇(いかく)の意味が強かったのでしょう。それと同時に全く新しい兵器ができたわけですから、それを世界に誇示して新世界における超大国アメリカの覇権を示す意味もありました。

 

共産主義革命を目指した陸軍

 終戦を模索する勢力の中では、陸軍の統制派を警戒する動きがありました。1945年(昭和20年)2月、近衛文麿昭和天皇に「近衛文麿上奏文」を出して早く戦争を終わらせるよう訴えました。この上奏文が特別な意味を持つのは「天皇制維持のため、日本の共産化を防ぐ」ことでした。そのために早期の停戦を上奏したのでした。
 この中で近衛は「陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀である」とする反共産主義に基づく陰謀論を主張していました。早く終戦にしないと社会主義革命が起きてしまう。天皇を守るために、急いで終戦にしなければいけないという危機感からの上奏でした。
 しかし、近衛の主張は統制派の妨害に加えて二・二六事件などにより皇道派を嫌悪していた天皇には受け入れ難いものであったため、彼らの和平の動きが進展することはありませんでした。

 

イギリスの伝統的な外交政策

 そもそもアメリカが自国の国益を本気で考えるなら、ヨーロッパにおいてスターリンヒトラーが直接戦争をしているのであれば、勝手にやらせておけばよかった、というのがフーバーの考え方です。
 要するに、ヒトラースターリンは両方とも不倶戴天(ふぐたいてん)の敵なのです。ナチズムというのは初めから共産主義こそが正面の敵です。ですから双方を戦わせておけばいいのであって、アメリカが介入する必然性はなかったのです。
 それはイギリスの場合も全く同じです。チャーチルナチス・ドイツを敵視し過ぎて、非常にバカなことをやってしまいました。というのはイギリスの伝統的な外交政策というのは、ヨーロッパ大陸をひとつの大国によって支配させないことなのです。なぜなら、そうなったら次はイギリスが狙われるからです。かつてのナポレオンがそうだったようにです。
 イギリスにとってはナチズムもソ連コミュニズム共産主義)も間違いなく敵です。ヒトラースターリンも悪いやつら同士が戦っているんだから戦わせておけばよかったのです。それでどちらも疲労困憊して両方が戦争を終わりにしたいとなったときに仲介役として出ていって介入すればいいのです。そうすればヨーロッパを共産主義者やナチズムが支配することから防止することも可能だったはずです。
 もちろんどちらかが大きく勝つかもしれません。極端なことを言えば、大英帝国からすればヨーロッパ大陸すべてをナチスが制覇したところで、大して困らないはずなのです。イギリスの利権というのは世界中に分散しているからで、インドをドイツが奪いに来るという話でもなかったし、中東を取るという話でもなかったわけです。
 これがイギリスの伝統的な外交政策です。これをバランス・オブ・パワーと言います。一般的な意味は、突出した脅威が生み出されないように国家間の勢力均衡を図ることを意味する言葉です。

 

大局観に基づく知恵を持っていたか

 イギリスのバランス・オブ・パワーという考え方は、日本が行っていた戦争でも通じる考え方でした。
 中国大陸まで出かけていって中国大陸を全部制覇しようなんていうことは、日本の国力を考えてみたらとても無理な話なのです。中国にはあちこちに軍閥がいて分裂してやりあっています。これをそのまま放っておけばよかったのです。こういう知恵が、残念ながら日本人にはありません。日本人は親切だから、挑戦を立派な国にしようとか中国もちゃんとした国にしてやろうなんて思うから、かえってとんでもない結果になってしまいます。どちらも放っておけばよかったのです。
 ところが、日本が介入したものだから、英米の支援を受けた蒋介石ソ連の支援を受けた毛沢東が強くなり、ついに毛沢東が中国を統一してしまいました。日本がやったことは、結果として共産党の進出を促したわけです。

 

構図を変えた第二次世界大戦

 第二次大戦は世界に何をもたらしたのでしょうか。まず、連合国側の完全な勝利、枢軸国側の敗北に終わりました。そして、戦後の国際社会の枠組みも大きく変化します。米ソ2大国の強大化と、東西冷戦の開始です。そして中国などのアジア諸民族の自立の動きが大きくなります。
 第二次大戦の実質上の一番の戦勝国として世界史に登場したのがアメリカです。1945年(昭和20年)以降は、イギリスに代わって、アメリカがナンバー1の世界覇権国家となりました。準覇権国家としてアメリカのライバルとなったのがソビエト連邦です。この2大国が対立する時代、言い換えれば米ソ冷戦が第二次大戦後の世界秩序の中枢を構成していきます。

  

大きかったイギリスの勝利の代償

  第二次大戦の結果、チャーチルはイギリスを戦勝国に導くことには成功しました。しかし、その代償は余りに大きかったと言えるでしょう。というのもイギリスは第二次大戦後、次々にその植民地を失い、覇権国家としては完全に没落してしまったからです。
 大英帝国の植民地は世界7つの海にあるのであって、ヨーロッパの大陸の中ではありませんでした。ヒトラーが何をしようが、スターリンが何をしようが両方がくたびれるまでしばらく黙って見ていればよかったのです。
 そして、大英帝国崩壊に最も影響を持ったのは、大日本帝国です。第二次大戦中の日本の軍事行動はアジア諸国に独立の気運と機会を与えるものとなりました。戦後、イギリスは植民地を維持することができなくなり、植民地の大半を失うのです。
 チャーチルはドイツと戦うためにアメリカを参戦させ、日本を巻き込んだ形になりました。結局、日本がアジアの植民地解放をやらざるを得ない立場になって、実際にやってしまったわけです。いわば大日本帝国が崩壊するとき、大英帝国をも抱き合い心中で滅ぼしてしまったようなものです。それもこれも、チャーチルルーズベルトが日本を経済封鎖で追い込み、開戦させたことが始まりでした。

 

大戦後の本当の勝者は誰か

  戦勝国の一角であったソ連ですが、戦後は東ヨーロッパ地域のほとんどを占領し、バルト三国を併合します。そして、ポーランドチェコスロバキア東ドイツハンガリールーマニアブルガリアなどに親ソ政権を樹立しました。冷戦時代には、これらを「衛星国」という名の新たな植民地として支配し続けました。
 またイギリスと異なり、ソ連は戦後もずる賢く立ち回っています。戦争があったら、負けた国ではだいたい革命が起きる、というのが世の習いです。疲弊した国々で社会主義革命を起こすためにソ連共産主義プロパガンダをやったり、反政府勢力を支援したりするなどしていました。
 国によっては社会にどんどん共産主義の影響が浸透していきました。そうやってイギリスでもアメリカでもコミュニストが増えていきました。このように戦後、世界にコミュニズムを広めようという動きが本格化していきました。
 チャーチルルーズベルトも、スターリンの戦略には遠く及ばなかったと言えるでしょう。スターリンは、資本主義国同士を戦わせて漁夫の利を得ました。戦後は疲弊した国々で社会主義革命を起こすという明確な戦略を立てていたのです。
 ですから、第二次大戦で本当の勝者というのはソ連であり、スターリンでしょう。ソ連は第二次大戦で死者2000万人以上という最大の犠牲者を出したと言われますが、ドイツとの戦争で獲得した東ヨーロッパで、次々と共産党政権を樹立させました。スターリンにとっては国民が何人死のうが関係ありません。共産主義の世界的な大進展や、なおかつソ連の強大化が現実になりました。

 

中国を労せずして得た毛沢東

  スターリンに次いで儲かったのは、毛沢東共産党でしょう。第二次大戦が終わると中国では蒋介石の国民党と毛沢東共産党による国共内戦(第二次)が起こります。トルーマンは国民党と共産党の連立政権を中国に樹立するという幻想にとらわれていました。この時点ではアメリカ政府内に共産主義シンパがたくさんいたこともあり、国民党への援助を停止してしまうのです。トルーマンは内戦に巻き込まれることを避け、中国からの撤退を表明します。
 ついに1949年(昭和24年)10月、毛沢東中華人民共和国の樹立を宣言します。蒋介石の国民党は台湾に逃れ、中華民国を存続させています。
 前のほうで述べたように、アメリカは中国を自分たちのマーケットにしたいと思っていました。そのため日本に戦争を仕掛けたのです。

 

 

 

 

長い文章になりましたが、以上です
世界を支配していたのはアメリカなのです

ですが ...  そのアメリカも支配されていたのでした
続きは後日また ...

 

 

 

 

 

 

 *上記は『裏切られた自由』の要約本とも言える『太平洋戦争の大嘘』からの備忘録としての書き写しです

裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症

裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症

 
裏切られた自由 下: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症

裏切られた自由 下: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症

 
Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath (Hoover Institution Press Publication)

Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath (Hoover Institution Press Publication)

 
文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫)

文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫)

 
太平洋戦争の大嘘

太平洋戦争の大嘘

 

 

 

 

 

 

 

 

 49-24871

孫子の兵法 「戦わずして勝つ」

 

内に向かえば身を修めることができ
外は事変に対応できる

戦いの哲学は軍事を超えて人生哲学として

 

 

史書史記』を記した司馬遷孫子呉子の兵法を評して、「内に向かえば身を修めることができ、外は事変に対応できる」と言う。
確かに兵法は自他に打ち勝ち、自他を治めることを教えるものである。

 

 

新訂 孫子 (岩波文庫)

新訂 孫子 (岩波文庫)

 
孫子の兵法 (図解雑学)

孫子の兵法 (図解雑学)

 

 

 

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軍事の書は人生哲学の意味を持つ

孫子(そんし)』十三編は、中国春秋時代に呉(ご)の将軍の任にあった孫武(そんぶ)の著作と伝えられる。この書は戦国時代の末には『呉子(ごし)』とともに代表的な兵書(軍事論の書)としての地位を獲得し、武人の必読書となって二千年の歳月が流れている。また中国のみならず、広く日本、さらには西欧にまで伝えられてその戦争史に大きな影響を与えてきた。しかも、軍事を超えて人生哲学としての意味を持ち、不朽の古典として今日なおその光芒(こうぼう)を放っている。

 

 

 

戦わずして勝つ

 人類の歴史は戦争の歴史である。絶え間ない春秋戦乱の世にあって、同時代の思想家には反乱、非戦に通ずる主張をする者もいた。しかし、孫子は戦争のなくならない現実をしかと見すえ、戦争の惨禍(さんか)を極力少なく抑える道を模索した。それは武力に頼って敵を殲滅(せんめつ)するのではなく、勝つことより負けないことを主眼に置き、武力以外の要素も使って敵を屈服させることであった。これがいわゆる「戦わずして勝つ」という孫子兵法の要諦(ようてい)に他ならない。

 

戦わずして勝つの意味

 最善の勝利は戦闘にはない。孫子兵法の要諦は「戦わずして勝つ」と言い習わされてきたが、これは戦闘を避け、政治や外交等によって敵軍に打ち勝つ方法を指している。このことばは『太平記』の楠木正成の緒言に「良将は戦わずして勝つと申し候えば... 」というのを見ることができる。出典はこれよりさかのぼる可能性はあるが、ともかくこのような軍事物語が語り継がれていく中で日本人に定着していった表現であろう。

 

戦闘を回避する戦い

 孫子の真意は、戦闘によれば人命と国費の損傷を招くため、政治や外交の力により、あるいは陰謀や工作により敵国や敵軍を屈服させよということである。決して非戦論でも無抵抗主義でもない。また非武装論とも無縁で、確固たる軍備は自明のことである。政治・外交が効力を発揮するのもこの軍備あればこそと考えている。
 戦闘に至る場合も十分想定しており、『孫子』は戦力の運用法について仔細に解説するが、この場合にも消耗は最小限に止めようとする「戦わずして勝つ」という精神を忘れることはない。

 

実践よりすぐれた方法

 政治・外交・秘密工作等すべて戦争である。戦争はある目的を達成するための手段であり、その目的が達成されるなら他にも安全な方法が考えられる。
 一般に戦争とは武力の行使によってその目的を達成するものとの認識がある。しかし、孫子はその方法を決してすぐれた戦争のあり方とはしなかった。それはおびただしい人命の犠牲と莫大な国費の消耗がともなうからである。その目的達成に限れば、戦闘よりはるかに安全で有効な方法があり、それも戦争であるとしているのである。

 

実践以外の方法と孫子の発想

 孫子は戦争と交戦を短絡的に結びつけることはなかった。最上の戦争は敵国の策謀をいち早く察知し、その策謀を実行不能にすることだとした。これができれば自軍を損傷させることなく、実践に臨んで勝利したのと同じ結果が得られるのである。次善の策は敵国の同盟関係を解体させることだとした。
 敵国の策謀が同盟国との連携を前提にしていたとすれば、これも敵国の策謀を実行不能に追い込む有効な方法であり、国益にも十分繋がるものであろう。
 この両者についてはいずれも具体策を明示していないが、表では政治・外交の力を用い、裏では工作活動を盛んに行う等が推測される。とすれば孫子は政治・外交も工作活動もすべて戦争という枠から見ていることに気づく。これこそ戦争に責任を負う将軍の目に他ならない。

 

秘密工作と外交

①戦闘や城攻めのみに頼る戦争は下策で、まず敵の策謀を防ぐこと、次に敵を孤立させることを考えるのが上策の戦争と言える。
②間者などにより事前に敵の策謀を察知し、これを実行不能にする。
③戦国の同盟国に働きかけて、これを離反させて敵国を孤立させる

 

 

*戦いの基本は手の内を見せないこと

*敵の意表を突くこと

*彼我の戦力を正確に把握せよ

*勝負は戦前に決定する

*戦争は速くやれ

*敵地で食料を確保せよ

*長期戦は回避せよ

*最善の勝利は戦闘にはない

*政治・外交・秘密工作等すべて戦争である

*君主は口出しするな

*勝てる敵と戦え

*奇法で勝つ

*奇法を連続させよ

*敵を上手に誘導して待ち伏せをせよ

*敵を利害で制御せよ

*自然に自在に変化して敵の嘘をつけ

*戦場に先着せよ

*敵が怠情となるときに仕掛けよ

*戦いは兵力の多寡ではない

*軍令は平素からの信頼が必要

*地形を熟知せよ

*兵士を愛育せよ

*敵が大事にしているものを奪え

*一時の感情によって戦争をしてはならぬ

*軍事の要は秀逸な間者

など

 

 

 ※『孫子の兵法(図解雑学)』より

 

 

 

 

 

07-2278

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない

 

パスポートを持っている
アメリカ人は国民の2割にすぎない
他の8割は外国に関心がない

 

アメリカの地図を見て
ニューヨーク州の場所を
示せない者が5割もいたのだ

 

 

 

アメリカのTV番組のインタビュー

たとえば、北京オリンピックの最中にはこんな感じ

「今、オリンピックをやってる国はどこですか?」
アメリカ?  じゃないのね ...  」

「ヒント。アジアです」
「タイかしら?」

「 ... オリンピック発祥の地は?」
アメリカ?」

答えているのは小学生とかチンピラじゃない。

「ところで職業は?」
「大学生。教育学部よ。先生になるの!」

 

ヤラセでも仕込みでもない番組

「今まで世界大戦は何回あった?」
「3回?」

ヒロシマナガサキといえば?」
「ジュードー?」

ベトナム戦争アメリカは勝った? 負けた?」
「え! もちろん私たちの勝ちでしょ! ... ベトナム戦争ってアメリカがしたんだっけ?」

第2次大戦を経験している老人の答えだ。この手の番組は「ヤラセ」や「仕込み」じゃないの?と疑ってしまうが、これが現実だ。

 

将来を担う若者たちの現実

 パスポートを持っているアメリカ人は国民の2割にすぎない。他の8割は外国に関心がない。彼らが外国の土を踏むのは、銃を持って攻め込む時だけだ。さらにナショナル・ジオグラフィックの調査では、アメリカの地図を見てニューヨーク州の場所を示せない者が5割もいたのだ。これが世界一の覇権国家の将来を担う若者たちの現実である。

 

自分の生活のこともわかっていない

 戦争や外交だけじゃない。自分たちの生活すらよくわかっていない。日本では国民年金が大問題になったが、アメリカにもソーシャル・セキュリティ(社会保障)という国が運営する年金制度がある。しかし、ベビーブーマーの老齢化と、ブッシュ政権財政赤字のために破綻した。そこでブッシュは年金を民営化し、株式投資で運営させる「自己責任システム」にしようとしたが、大統領選ではまるで争点にもならなかった。なぜならば、国民の半分は年金危機自体を全然知らなかったからだ。

 

時事ニュースを知らない

 新聞やテレビのニュースは見ないのか?  見ないのだ。デヴィット・ミンディック著『無関心/なぜ40歳以下のアメリカ人は時事ニュースを知らないか』によると、18歳から34歳のアメリカ人で新聞を読むのは3割に満たない。高齢者だとこの数は増えるが、『NYタイムズ』や『ワシントンポスト』などの全国紙を読む割合は半分以下だ。アメリカ人は基本的に、地元のことしか書いていないローカル紙しか読まない。

 

 

 

アメリカ人は単に無知なのではない
その根には「無知こそ善」とする
思想、反知性主義があるのだ

 

 

無知こそ善という思想

 同じく18歳から34歳でネットで時事ニュースをチェックする人もたった11パーセントにすぎない。「アメリカの知識人階級と大衆のあいだに巨大で不健全な断絶があることが明白になった」そう書いたのは『タイム』誌だが、最近ではなく1952年の記事である。こんな状況は今始まったことではなかった。
 アメリカ人は単に無知なのではない。その根には「無知こそ善」とする思想、反知性主義があるのだ。

 

キリスト教福音主義とは

 1963年の名著アメリカの反知性主義で、歴史学者リチャード・ホフスタッターは、アメリカ人の知識に対する反感の原因のひとつにキリスト教福音主義を挙げている。福音主義とは、福音、つまり聖書を一字一句信じようとする生き方で(特に過激なのは聖書原理主義と呼ばれる)、自らを福音派とするアメリカ人は全人口の25~30%を占めている。彼らにとって余計な知識は聖書への疑いを増すだけであり、より無知なものほど聖書に純粋に身を捧げることができる。

 

福音派が知性を否定

 中世ヨーロッパでは、聖書以外の書物に価値はなかったが、ルネッサンス以降、書物によって知識と論理的な思考が普及し、近代科学が生まれた。しかしその結果としてキリスト教信仰は弱体化した。しかし、アメリカでは福音派が何度となく巨大な信仰回帰運動を起し、知性を否定してきた。たとえば、福音派の伝道師ドワイト・L・ムーディー牧師は「聖書以外の本は読まない」ことを誇りとした。

 

無知が強力な票田になる

 「アメリカの成人の2割は、太陽が地球の周りを回っていると信じている」という調査('05年ノースウエスト大学ジョン・D・ミラー博士)があるが、無理もないのだ。
 ただ、福音派は元来、俗事にすぎない政治には関心が薄かった。それが強力な票田になることに気づいたのは共和党だった。
 アメリカの大統領選挙は、各州ごとに決められた「選挙人」というポイントを、その州で過半数を取った候補が全取りするルールだ。この集計公式だと、都市のある東海岸や西海岸の州よりも、人口の少ない南部や中西部や西部の州のほうが一票の重さは重くなる。福音派は田舎に集中して住んでいるので選挙への影響力は大きい。教会やテレビ伝道で信者をごっそり投票に動員することもできる。

トランプ大統領福音派から圧倒的多数の支持を集めたことが勝利を決定づける要因のひとつになりました。国民の4人に1人を占める福音派からの支持なしには選挙に勝てない現実があるのですね。保守的なキリスト教徒を支持基盤とする共和党の大統領はもちろん、リベラルな民主党の大統領も、とりわけ保守的な南部の各州で党内の予備選挙を勝ち抜かなければなりませんから事情は同じです。しかし、いまの福音派に限らずアメリカのキリスト教団体は深刻な懸念を抱えています。それは若者たちの宗教離れです。

 

世界を巻き込むアメリカの無知

 その他、アメリカ人の時事問題への無知の原因には右派メディアの暴走や、教育の崩壊などいろいろな理由があるが、とにかくニュースを知らない人たち、外国に興味のない人たちによって大統領が決定され、その大統領が無茶な戦争を起こし、デタラメな政策で経済メルトダウンを起こして日本や世界を巻き込んでいるわけで、この不条理には、もはや笑うしかない。

 

原爆投下を知っているのは49%

 アメリカでは、そんな笑うしかない現実が宗教、政治、経済、メディア、あらゆる場所にあふれています。この本は2006年から2008年夏までの2年間に、筆者がアメリカで生活しながら見聞きしたバカげたニュースを集めたものです。笑って読んで欲しいけど、ムカッときたらごめんなさい。ちなみにリック・シュンクマン著『アメリカ人は嘆く われわれはどこまでバカか?』(08年)によると、自分たちの国が日本に原爆を投下した事実を知っているアメリカ人は49%にすぎないそうです。
 

 

 

*本記事は本書の序章を書き写したものです

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (文春文庫)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (文春文庫)

 

 *参考書籍

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 10-2952

ユダヤ人の迫害理由とキリスト教の誕生

 

ユダヤ人はなぜ
ヨーロッパで迫害されたのか

エスはなぜ磔の刑に
処されたのか

 

 

 

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ユダヤ人はなぜ迫害されたのか


ユダヤ教から分かれたキリスト教イスラム

 ヨーロッパの問題を理解するには、キリスト教の基本的な考え方を理解しておく必要がある。キリスト教イスラム教は、どちらもユダヤ教から分かれた宗教である。そのキリスト教を知るにはユダヤ教を知らなければならない。ユダヤ教の教典といえば、『旧約聖書』だが、この中に「イサクの犠牲」という話が出てくる。

 

試されるアブラハム

 その話はユダヤ人の先祖とされるアブラハムという年老いた羊飼いが主人公だ。アブラハム夫婦は、男の子に恵まれなかった。そこに唯一の神ヤハウェがお告げをした。
アブラハム、おまえはきっと男の子を授かる」
 半信半疑だったが、本当に男の子が生まれた。イサクと名づけたその男の子を溺愛しそして神に感謝の気持ちを捧げるために、アブラハムは羊を焼いて生贄(いけにえ)とした。数年後、神がまたアブラハムにお告げを下す。
アブラハム、もう羊はいい、イサクを捧げなさい」
 大事な息子を生贄にしろというのです。

神への忠誠心が大事な宗教

 アブラハムはイサクの手を引いて羊を生贄にする台の上に載せ、イサクの頭の上から剣を振り下ろそうとした。
 ところが、そのとき天使があらわれ、こう言った。
アブラハム、わかった。もうよい。おまえの忠誠心は確かめられた」
旧約聖書』は、アブラハムのこの行動を引き合いに出して、「人間とはこうあるべきだ」と讃えている。つまりユダヤ教とは「親子の縁よりも神様への忠誠心が大事」という宗教なのである。

 

律法にそむいた者は死刑に

 このように「神が絶対」の厳しい宗教だから、ユダヤ教には生活のあらゆることを定めた神の掟がある。これを「律法」といって、守らなければ人々は救われないとされている。たとえば、安息日の規定。安息日とは「その日は一切の労働をしてはならない。ひたすら神に祈れ」という日。ユダヤ教の場合は、土曜日が安息日と定められている。
 土曜日は労働することを禁じられていて、律法にそむいた者は死刑になる。「安息日に働くのは神への反逆だ」というわけだ。食べ物にも決まりがあり、「豚肉を食べてはいけない」というのもそのひとつ。イスラム教にも同じ決まりがあるが、もともとはユダヤ教の律法に由来している。

 

異民族と融和せず独特の文化を持つユダヤ

 このようにユダヤ教は厳しすぎる律法のため、異民族には広がらなかった。ユダヤ人は歴史上、何度も迫害を受けて土地を追われてきた。ナチスヒトラーによる迫害は有名だが、それでもユダヤ人が滅びなかったのは「律法を守った者は天国に導かれ、異教徒は地獄に落とされる。われわれは神によって選ばれた民である」という強い信念のたまもの。これを選民思想という。
 だからユダヤ人は異民族と融和せず、独特の文化を保ってきた。しかし、このことが逆にユダヤ人が嫌われ、差別される理由にもなってきたのである。

 

 

 

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キリスト教ユダヤ教の対立


律法など意味がない

 キリスト教ユダヤ教の分派である。ユダヤ人の大工の子として生まれたイエスが、しばらく砂漠に行って、戻ってきたら説教を始めた。そこで衝撃的なことを言う。
「律法など意味がない」
 何を食べてはいけないか、安息日の土曜日に休むか休まないか、そんなことはどうでもいい、と言い放ったのだ。このイエスの言葉を喜んだのが、貧困層の人たち。こっそりと土曜日に働く人もいれば、豚肉をやむを得ずに食べる人もいたからだ。

 

キリスト教世界宗教になった理由

 律法を破ったからといって彼らは罪人なのか。「そんなことはない。心の底から神を信ずれば救われる」とイエスは説いた。律法という形式ではなく、信仰の心が大事。異民族でも、敵のローマ人であっても信仰すれば救われるということになる。これこそキリスト教世界宗教になった大きな要因といえるだろう。

 

エスを危険人物として告発

 ユダヤ教の指導者は「律法を汚された」と憤り、イエスを告発した。当時のユダヤは、ローマ帝国支配下にあったので「イエス貧困層を集め、ローマへの反逆を煽り立てる危険人物だ」という罪状で告発したのだ。エスは反逆罪で有罪とされ、磔(はりつけ)の刑に処された。

 

処刑されたイエスが蘇った

 このあと不思議なことが起こる。「処刑されたイエスが蘇った」という話が広まったのだ。イエスゴルゴタの丘で処刑されたのは金曜日。翌日が土曜日で安息日だ。これを避けて、葬式を日曜日に行なおうとしたら、仮埋葬の墓が開いていて中は空っぽだった。イエスが消えてしまったのだ。

 

エスの復活

 そのあと、イエスの弟子だった人たちから目撃証言がもたらされた。「処刑されたあとのイエスに会って話をした」という。
「日曜日の朝にイエスは復活した」
「神自らが、人々を悔い改めさせるためにイエスの姿になって地上にあらわれたのだ」こうして生まれたのがキリスト教である。

 

キリスト教ユダヤ教の対立理由

 イエス自身はユダヤ教の改革者で、「私は神だ」とは言っていない。ペテロやパウロといった弟子たちによって神として祭り上げられたのだ。ユダヤ教徒から見れば、律法を守ることは意味がないと説くイエスは裏切り者である。まして人間であるイエスを「神」と呼ぶなど言語道断。
 大工の息子であるイエスを神と認めるか認めないか。これがユダヤ教キリスト教の根本的な違いである。この一点において両者は絶対に相容れない。キリスト教徒とユダヤ教徒が対立する最大の理由なのである。

 

流浪の民としてのユダヤ

 ユダヤ人は「流浪の民」として有名である。イエスなきあと、ローマ帝国に対する2度の反乱を起こして失敗し、流浪の生活が始まった。定住しなければ農業もできないし、生活も安定しない。土地や建物など不動産も所有できない。だからユダヤ人は、金銀や宝石といった動産(不動産以外の財産)を積み上げるしかなかった。どこにいっても生計が立てられるように、やむなく「金貸し」になったのである。

 

ユダヤ教徒はますます孤立

 ローマ帝国の崩壊後に生まれたヨーロッパ諸国がキリスト教を採用したため、キリスト教を認めないユダヤ教徒はますます孤立した。キリスト教徒から見れば「よそ者のくせに、なぜ俺たちに合わせないんだ。しかも金貸しで儲けているなんて、けしからん」となる。こうした背景からユダヤ人はヨーロッパでたびたび迫害されてきたのである。

 

 

 

 

 

 

* 本書『ニュースの”なぜ?”は世界史に学べ』から備忘録用として要約しています
*使用写真は本書とは関係ありません

 

 

 

 

 

 

 13-2831

上野千鶴子さんの東京大学入学式祝辞

 

あなたたちのがんばりを
どうぞ自分が勝ち抜くためだけに
使わないでください 

 

異文化を怖れる必要はありません
人間が生きているところでなら
どこでも生きていけます

 

 

 

4月12日、東京大学の2019年度入学式が日本武道館で行われた。
祝辞には女性学のパイオニアである社会学者の上野千鶴子名誉教授が登壇。

2018年に発覚した東京医科大学の性別や年齢による差別的な不正得点調整について言及し、性差別について、がんばりが報われない社会、そして「知」とは何かについて新入生に語りかけた。

 

 

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上野千鶴子(うえのちづこ)
1948年(昭和23年)富山県出身。日本のフェミニスト社会学者。専攻は家族社会学ジェンダー論、女性学。東京大学名誉教授、立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘教授。博士(社会学)。京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業。京都大学大学院。父は内科医。

 

 

 

平成31年東京大学学部入学式 祝辞全文】


ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。

文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。

問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。

ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。

女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。

「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」

ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。

事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。

統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。

2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

 

最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。

それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。

そうやって東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。

東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。

なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。

女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。

東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。

加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。

「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります。

東大には今でも東大女子が実質的に入れず、他大学の女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。

わたしが学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。この3月に東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等の理念に反すると警告を発しました。

これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。

学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。その先、研究職となると、助教の女性比率は18.2、准教授で11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員の女性比率より低い数字です。女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。

こういうことを研究する学問が40年前に生まれました。女性学という学問です。のちにジェンダー研究と呼ばれるようになりました。私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。

なかったから、作りました。

女性学は大学の外で生まれて、大学の中に参入しました。4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。そして女性学を教壇で教える立場に立ちました。女性学を始めてみたら、世の中は解かれていない謎だらけでした。

どうして男は仕事で女は家事、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?ナプキンやタンポンがなかった時代には、月経用品は何を使っていたの?日本の歴史に同性愛者はいたの?...誰も調べたことがなかったから、先行研究というものがありません。

ですから何をやってもその分野のパイオニア、第1人者になれたのです。今日東京大学では、主婦の研究でも、少女マンガの研究でもセクシュアリティの研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。そして私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。

学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学、障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。

言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。

わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、国立大学初の在日韓国人教授、姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重の障害者である教授、福島智さんもいらっしゃいます。

 

あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。

そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと... たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。

 

これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。

学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。

未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。

異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。

大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。

ようこそ、東京大学へ。
 

 

平成31年4月12日
認定NPO法人 ウィメンズ アクション ネットワーク理事長
上野千鶴子

 


 

 

 

 

 

 

 01-4723

仕事ができる人は朝が早い? 村上春樹は4時起き

 

「成功者は早起き」だとか「朝型人間が成功する」といった考え方が、世の中にはあります。確率から見たら、そうだと思いますが ... 

早起きをしてどんなメリットを得たいのか?
早起きをして何をするのか?

自分なりの指針がないと形だけに終わります。
ぜひ皆さんにとっての最適な睡眠スタイルを見つけてください。

『やりたいことを全部やる! 時間術』(臼井由紀)より

 

 

やりたいことを全部やる! 時間術 (日経ビジネス人文庫)
 

 


『やりたいことを全部やる!時間術』目次より抜粋

・忙しいときに勉強をすると心のゆとりが生まれる
・長く熱心に話すほど人に伝わらない
・1週間は金曜日から始めなさい
・15分以上考えるのは時間の無駄
・お金で時間を買う
・デスクがベストポジションとは限らない
・「朝2時起き」で時間の主導権を握る
・身についた起床時間はずらさない
・なぜ腕時計をすると時間リッチになれるのか
・1つ買ったら2つ捨てる ほか

 

 

 

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著名人の起床時間
*以下はネットからの収集データ(あくまでも参考)です。
*今回紹介した書籍とは関係ありません。(赤字は睡眠時間)


2:00 臼井由紀(本記事『やりたいことを全部やる!時間術』著者)

3:00 豊臣秀吉安土桃山時代の武将) 

3:00 タモリ(タレント・司会者)     

4:00 村上春樹(作家)*午前中は原稿書きと1時間の運動、午後は読書など自由時間

4:00 トーマス・エジソンアメリカの発明家)5時間 

4:00 二宮金次郎二宮尊徳・江戸時代の思想家)4時間

4:00 織田信長安土桃山時代の武将)

4:00 宗次徳二CoCo壱番屋創業者)*毎朝広小路通りを清掃している

4:30 ハワード・シュルツスターバックスCEO)*6時前に出社

4:30 ティム・クック(アップルCEO)7時間 

4:30 ミシェル・オバマオバマ元大統領夫人)

5:00 浅田次郎直木賞作家・冬は6時)

5:00 マーガレット・サッチャー(第71代英国首相)

5:00 大前研一経営コンサルタント・起業家)5時間

5:00 哀川 翔(俳優)

5:00 ジェフ・ペソスAmazon共同創業者)7時間 

5:00 アリアナ・ハフィントン(ハフィントンポスト創業者)7時間

5:00 ベンジャミン・フランクリンアメリカ建国の父)7時間

5:30 ジャック・ドーシーTwitter共同創設者)*10kmのジョギング 7時間  

5:30 アーネスト・ヘミングウェイアメリカの小説家)

5:45 リチャード・ブランソン(ヴァージングループ創設者)

6:00 徳川家康安土桃山時代の武将)

6:00 スティーブ・ジョブズ(アップル創業者)

6:00 岩瀬大輔ライフネット生命保険代表取締役会長)*夜はテレビを観ない

6:00 谷田千里タニタ社長)

6:00 アマデウスモーツァルトオーストリアの音楽家5時間

6:00 ベートーヴェン(ドイツの音楽家

7:00 バラク・オバマ(元アメリカ大統領)6時間

7:00 小柴昌俊(物理学者・天文学者ノーベル物理学賞11時間

7:00 ビル・ゲイツマイクロソフト創業者)7時間

7:00 イーロン・マスクテスラモーターズ会長兼CEO)6時間 

8:00 ウィンストン・チャーチル(イギリス元首相)5時間 

 

 

村上春樹の「働き方」 は規則正しい生活から
長編小説を書いているとき午前4時に起き、仕事をする。その後にランニングや水泳をし、午後は本を読んだり音楽を聞いたりして過ごす。そして9時には就寝という規則正しい日課を繰り返すという。

 

 



 

 

 03-1519