『ヴィヨンの妻』 太宰 治
燦然と輝く栄光の中で
絶望と死を彷徨った悲しき天才
『ヴィヨンの妻』あらすじ
病弱な4歳の息子と、酒を飲んでばかりの夫を待つ「私」。いつも通り、夜中に帰ってきた夫は、珍しく子どもの心配をするなど、妙に優しい。その時、1組の夫婦が家に乗り込んで来ました。夫が、夫婦の営む小料理屋から金を盗んだというのです。言い合いの末に逃げ出す夫。事情を聞いた私は、お金を返すため、その店で働き始めます。妻の「私」は予想外に夜の客商売の楽しさを知るようになり、そして ...
冒頭と最後の一文
あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました ...
... 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言いました。
生きていさえすればいいのよ
夫の罪のために働き始めた妻は、生活にちょっとした生き甲斐も見出し、なぜか幸福感さえ感じるように。このヴィヨンの妻、放蕩者の妻は決して耐え忍ぶ愛だけを夫に捧げているのではなく、またダメな夫に恨み辛みをいって非難するわけでもない。どちらかというと、たくましく、みじめさを感じさせず生きているようです。若いお客にあっけなく「手に入れられ」ても、何事もなかったように翌日からまた働きにでます。ある意味、したたかな面を持ち、あっけらかんとした生き方のヴィヨンの妻。
最後の「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」に太宰の気持ちが、込められていそうです。
タイトルの「ヴィヨン」とは、15世紀のフランスの詩人、フランソワ・ヴィヨンからきています。小説に登場する詩人「大谷」と同じく、無法者で放蕩の人生を送った詩人だったようです。
全8編が収録された短編小説
① 親友交歓
② トカトントン
③ 父
④ 母
⑤ ヴィヨンの妻
⑥ おさん
⑦ 家庭の幸福
⑧ 桜桃
(Wikipedia引用)
太宰 治(だざいおさむ)
本名、津島修治。1909年(明治42年)青森県生まれ。その後、東京・三鷹で暮らす。身長175cm。大食漢で湯豆腐やうなぎ、スッポン料理が好物。なぜか「味の素」が好きだったらしい。高等学校時代に芥川龍之介に感銘を受け、左翼活動に傾倒。東京大学文学部仏文科に入学後、井伏鱒二に師事。欲しかった芥川賞の受賞候補になるも落選。数々の挫折や麻薬中毒に苦しみ、自殺未遂を4度繰り返した。代表作は『走れメロス』『津軽』『人間失格』『斜陽』など。1948年(昭和23年)玉川上水で入水自殺、享年38歳。
(Wikipedia、「文豪がよくわかる本」ほか引用)
『舞姫』 森 鴎外
『舞姫』あらすじ
父を早くに亡くし、母の手で育てられた秀才・太田豊太郎は某省から派遣されベルリンに留学する。そこで、踊り子のエリスと出会い、恋愛へと発展するも、留学生仲間から嫉妬、中傷され免官になる。それを知った母は自殺してしまう。天方大臣の秘書である親友・相沢謙吉の配慮で新聞社の通信員の職を得る一方、豊太郎はエリスの家に転がり込む。やがてエリスは身ごもる。
天方大臣とベルリンにやってきた相沢は、豊太郎の前途を憂い、エリスと別れることを勧め、天方大臣のロシア行きに通訳として豊太郎を随行させる。天方大臣の信任を得た豊太郎は、帰国を承知するが、エリスを裏切ったことに悩み、病に倒れる。その間、相沢はすべてをエリスに語り、それを聞いたエリスは発狂してしまう。豊太郎は断腸の思いを残しながらも帰国の途につく。
鴎外自身が、明治17(1884)年から4年間、軍医としてドイツに留学した際の、恋愛体験をもとに書かれた。明治23(1890)年発表の作品。
『舞姫』の出だしと最後の一文
石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり ...
... ああ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得がたかるべし。されどわが脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。
身ごもったエリスと別れ、ひとり帰国した太田豊太郎は、最低な男という印象ですね。これでただの悲恋の小説として終わってしまうのでしょうか。秀才の鴎外が書いたものです。実はもっと深い「何か」があるのではないか、という疑問がわいてきます。そのあたりは、機会をあらためて追及してみたいと思います。
子孫はみんな、キラキラネーム
鴎外は最初の妻・登志子が長男を産むと、まもなく離婚。後妻の志げは判事の娘で美人だったらしい。鴎外はその二人の妻との間に子どもがおり、長男に於菟(おと・Otto)、長女に茉莉(まり・Marrie)、次女に杏奴(あんぬ・Anne)などと命名しました。いずれも明治生まれで珍しい名前ですね。若い頃のドイツ留学中に、本名の林太郎をきちんと発音されなかったことがコンプレックスになっていたため、特に独仏語で発音しやすい名前を選んだのだという。孫にも真章(まくす・Max)、富(とむ・Tom)、礼於(れお・Leo)、樊須(はんす・Hans)などがあり、鴎外の文学的な才能を受け継いでいたためか、子どもはみな、のちに著作を残しています。
森鴎外(もりおうがい)
本名、森林太郎。1862年(文久2年)島根県出身。東京大学医学部卒業後、軍医となり、ドイツ留学。帰国後は軍医総監医務局長にまで進んだ。公務の傍ら『舞姫』『ヰタ・セクスアリス』など数々の名作を発表し、翻訳、評論、戯曲などでも活躍。官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。ほかに『阿部一族』『山椒大夫』『雁』など。60歳没(肺結核)
(Wikipedia、「文豪がよくわかる本」ほか引用)
『山月記』 中島敦 江守徹の朗読
作品の魅力を引き出す
江守徹の朗読
『山月記』
山月記は、昭和17年(1942)に発表された中島敦の短編小説です。精緻な文章から今でも高校の国語の教科書などに掲載されることが多いので知名度が高いですね。漢文を書き下ろしたような文章は読むのは難解ですが、聞くと耳に心地よいです。以下はあらすじです。
若くして高級官僚となった秀才、李徴は詩人として名を残そうと考えて辞職し、詩作に専念した。しかし、これに挫折し仕方なく地方の小役人となったものの、ついに発狂し、消息を絶つ。実は虎に変身していたのだが、翌年のある月夜に旧友の高官、袁蛯に遭遇する。これまでの経緯を話し、自作の詩を書き取ってもらい、妻子には自分は死んだと伝えるよう頼んで姿を消す。
なぜ『山月記』なのか
虎になった李陵が詠む漢詩の一節に「此夕渓山対明月」(今夜、山渓を照らす明日に向かいながら)とあります。ここから採ったものと思われます。
虎になった李徴は、再び人間に戻れるのか
Yahoo! 知恵袋に「人間に戻る」ための、こんな素敵な答えが書かれていました。
李陵は、自分の能力のなさを知ることを恐れ、そのために人と付き合うことも恐れた。ただ、空想の中では自分はすごい、偉いと思い込んでいました。
その結果、人を見下し、人と距離を置き、自分の世界の中だけで生きていくようになりました。自分の欠点はもう何も見えなくなってしまったのです。
このように、自分の空想の中で自分を作り上げていくことは、誰にも多少なりとはあるものでしょう。これを『山月記』では「自分の心の中の獣を養う」と表現するのです。李徴は自分の心の中の獣を大きく育ててしまいました。そしてその結果、虎になってしまったのです。もし彼が完全に虎になっていないなら、人と付き合い、人から学び、自分の至らない点を見つめ、それを認め、そしてそれを直していくという生き方を続けていけば、やがては心の中の虎も小さくなっていき、つまり、人に戻ることができるでしょう。
中島敦の『山月記』は名作で、ごく短い作品なので、朗読に適しているようです。YouTube にあった江守徹の朗読が、作品の魅力を引き出しています。
朗読の魅力のひとつは「想像する楽しさ」でしょうか。またこの「想像する楽しさ」は読書の魅力でもあります。それと「表現する楽しみ」もありますね。YouTube などで多くの朗読作品がアップされていますので、手軽に楽しめます。
芥川賞と直木賞の違い
対象となる作品が違います
芥川賞
各新聞や同人誌を含む雑誌に発表された純文学短編作品中、最も優秀なものに呈する賞。ちなみに純文学とは、大衆文学や小説一般に対して、商業性よりも「芸術性」「形式」に重きを置いていると見られる小説を総称する、日本文学の用語を示す。中編、短編が対象となる。
直木賞
各新聞や同人誌を含む雑誌あるいは単行本として発表された短編および長編の大衆文芸作品中、最も優秀なものに呈する賞で応募形式ではない。大衆小説、大衆文学とは、純文学に対して、芸術性よりも娯楽性、商業性を重んじる小説の総称である。「娯楽小説」「娯楽文学」も同義語。「通俗小説」「通俗文学」とも呼ばれた。
年に2回の同時選考会
芥川賞も直木賞も昭和10年に文藝春秋社の菊池寛によって制定されました。選考対象は、まだこの賞を受賞したことがない無名、新進作家や中堅作家(直木賞)で、選考は年に2回です。賞品は芥川賞も直木賞も懐中時計と副賞100万円。
直木賞の直木ってどんな人?
ところで芥川賞は、知名度抜群の芥川龍之介ですが、直木賞の直木はあまり聞きませんね。とても不思議です。そして、苗字は知っていても下の名前は聞いたことがないし、どんな小説を書いた人なのかもあまり知られていません。
毎年名前を変えていた
「直木賞」にその名を残す作家、名前は直木三十五(なおきさんじゅうご)です。彼は自分の年齢に合わせて毎年、ペンネームをかえていました。31歳のとき「直木三十一」のペンネームでデビュー。その後年齢とともに「三十二」「三十三」と増やし、「三十四」を飛ばして「三十五」となったときに定着させました。
本名は植村惣一です。「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものです。34歳の誕生日を迎えたとき、本人は「直木三十四」と書いたのに、編集者が勘違いから「直木三十三」と書き直してしまった。しかし、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず、「直木三十三」を使っていました。しかしながら「三十三」は字面が良くない、あるいは「さんざん」とか「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌がって、直木三十五と名を改めました。
それ以降は改名することはありませんでした。理由は「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だったからと。また菊池寛から「もういい加減にやめろ」と忠告されたとも言われています。
なぜ直木賞なのか
そんな直木さんですが、なぜ「直木賞」というカンムリに抜擢されたのでしょうか。また日本文学の最高峰とされる賞につけられた名前の作家の本がなぜ、知られていないのでしょうか。
その直接的な理由は、直木三十五が小説家としてだけでなく、この賞の主催者である文藝春秋社に売上げなど様々な面で多大な貢献をしたということらしいのです。彼の才能は小説だけでなく、雑誌の企画や編集も優れていたとも言われています。さらに文藝春秋社の経営者でもあった菊池寛との親交もまたその理由です。賞の制定は、あくまでも雑誌の宣伝として始めたもので、現代ほど有名な賞になるとは想像していなかったのでしょうね。
直木三十五の代表作は「南国太平記」で、幕末の薩摩藩の有名なお家騒動であるお由羅騒動をテーマにした時代物ですが、史実に忠実な歴史小説というよりは、かなり荒唐無稽な伝奇小説に近く、はじめて忍者を登場させるなど画期的なものだったとも。本作を原作に10本の映画がつくられ、そして封切りされると異常な人気だったという。短い期間ではあったけれど売れっ子作家という存在だったらしい。
ただ、作品はほとんどが作家が生きているときは書店にたくさん並びますが、死後は再版もなくなっていき、私たちの目には触れなくなってしまったのでしょう。
(Wikipedia引用)
直木三十五
1891-1934(43歳没)
大阪生まれ・早稲田大学
小説家、脚本家、映画監督
年収と読書量は正比例する
ともかくむさぼるように本を読め
そうすれば出口は必ず見つかる
本書『ほんとうに頭がよくなる「速読脳」のつくり方』は、速読に関する書籍ですが、実は「読書と年収の関係について」の福音とも思える記述があります。そこに注目してみました。以下は本書からの抜粋です。
「年収と読書量は正比例する」が示唆するもの
時代が大きく変化するいま、どうしたら困窮から抜け出せるのか、あるいはどうしたら人生をより豊かなものにできるのか。「年収と読書量は正比例する」は、その状況を打破するうえで、とても示唆に富んでいるという。
年収と読書量は正比例する
読書習慣をもつだけで、情報勝者になれるのがいまの日本だ。日本経済新聞社産業地域研究所の調査によると、年収の高い人ほど書籍や雑誌の購入費が高いという結果が出ている。一部の富裕層とワーキングプア。日本人の収入格差はこれからさらに広がっていくことだろう。富める者はさらに富み、貧しい者はそこから抜け出す術すら見いだしにくい状況が今後も続く。
しかし、「年収と読書量は正比例する」は、その状況を打破するうえで、とても示唆に富んでいる。どうやったらいまの困窮状態から抜け出せるのかと、誰もが模索している中で、「ともかくむさぼるように本を読め、そうすれば出口は必ず見つかる」といっているわけだから。(本書より)
困窮から抜け出したい、人生をより豊かなものにしたい。「年収と読書量は正比例する」は、そう望む人への道標となるのでしょうか。それには、まず本を読んでくださいと著者はいう。そう「むさぼるように」。そうすれば出口は必ず見つかると。
日本人の半数が本を読まない
文化庁が行った平成25年の「国語に関する世論調査」を見ると「1か月に1冊も本を読まない」と答えた人が全体の47.5%にものぼっている。なんと日本人の半数近くが本を読む習慣がない。また「月に1、2冊は読む」と答えた人が34.5%、「月に3、4冊」が10.9%、「月に5、6冊」が3.4%という結果。このことから月に3冊読めば、読書家として胸を張れるのがいまの日本だということだ。
どれくらい読めばいいか
今回のテーマである「年収と読書量は比例する」であれば、やはり1か月で3~4冊というのは少ない読書量です。統計的にみれば申し分ない量ですが、絶対的な情報量としては少ない。ではどれくらい読めばいいのか。「むさぼるように読め」と言っているわけですから、個人的には1か月に最低でも10冊以上は必要ではないかと思います。多いと感じるかもしれませんが、習慣化され、読みなれてしまうと大した量ではなくなります。
なにを読めばいい?
読むジャンルについては、著者は小説がベストだという。小説が IQを高めるのには最高の活字媒体だから。「小説を読んで涙を流す」ことで脳は登場人物のキャラクターや境遇を脳内空間の中でしっかり構築している。でなければ、涙を流すことなどできない。文字情報を脳内で、立体的に臨場感をもって構築する能力は、そのままIQを上げるのに直結すると。
しかも、小説は情報量も莫大。例えば、時代小説や経済小説は、綿密な下調べをしたうえで書かれている。その1冊を書くために作者は数十冊もの本を読み、資料をあさり、関係者に取材してから書いている。あなたの代わりに作者が本を読み、取材までし、自分の経験談まで吐き出してくれて1冊にまとめたのが小説なのである。
古典がおすすめ
個人的には、小説のほかに古典などもおすすめします。はじめて読むにはむずかしそうですが、読み始めはマンガやコミックになっているものでも構わないと思います。「ビジネス書を10冊読むんだったら、古典を1冊読みなさい」ともいわれます。長い年月を生き抜いてきたのは、多くの読者による読み直しの努力の賜物です。
芥川龍之介 『羅生門』 近藤サトの朗読が秀逸
或る日の暮方の事である
一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた
下人の行方は、誰も知らない ...
『羅生門』
京の都が、天災や飢饉でさびれすさんでいた頃。荒れはてた羅生門に運びこまれた死人の髪の毛を一本一本とひき抜いている老婆を目撃した男が、餓死か盗人になるか、生きのびる道を見つける。そして漆黒の闇夜に行方をくらました。
出だしと最後の一文
或る日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、きりぎりすが一匹とまっている ...
... 下人の行方は、誰も知らない。
東大在学中、23歳の時にこの『羅生門』で文壇デビューし、夏目漱石門下生となりました。10ページ程度の短編小説ですが、人間の本質を表しています。
最後の一文に注目!
ここで最後の一文に注目してみよう。平安京の都に天災や飢饉で、羅生門に運びこまれた多くの死体。門の下で雨宿りをしていた一人の下人(男)はここで飢え死にするか、盗人になるか、生きのびる道を探します。そして、盗人になるより外に仕方がないと。死体から髪の毛を抜いていた老婆の着物をはぎ取り、足にしがみつこうとする老婆を蹴り倒して、またたく間に夜の底へかけ下りた。
鬼がすむ平安京の闇。現代には鬼はもういない、本当にそうでしょうか。羅生門で鬼となった下人のその後を、芥川龍之介は最後にこう書いています。
「下人の行方は、誰も知らない ... 」
鬼はいまも心の闇にすんでいるのです。
作品の多くが『今昔物語』に出典を仰ぐ
芥川龍之介の歴史小説には出典があり、圧倒的に『今昔物語』に仰いだものが多い。この『今昔物語』の美しさや価値を発見したのは、専門の国文学者ではなく、実に芥川その人でした。彼がこの物語に近づいたのは、おそらく少年のころからの「ミステリアスな話」に対する嗜好からだといいます。
そして、大正文学を代表する夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介らが現代の文学的教養の基礎をつくったといわれています。
近藤サトの凛とした朗読
格調高い文章で、読んでいてテンポがよく、姿勢を正したくなる印象です。YouTubeに元フジテレビアナウンサー近藤サトの『羅生門』の朗読映像があります。 アルトの声がしっかりと響きわたり余韻が残る、凛とした美しさがあります。羅生門の天災や飢餓で、すさんだ光景が面前に現れてくるようです。
『接待の一流』 田崎真也 おもてなしは技術です
いい店を頼むよ ...
この店僕も初めてなので
なんでこんな店を予約したんだ
あの店にいけば安心して任せられる
この料理でいい
こちらの方、ワインに詳しいので選んでもらって
こんな発言は「もてなしベタ」
接待の席で、こんな発言をしたことのある人は、立派な「もてなしベタ」。世界一のソムリエが明かす、もてなし上手になるための心遣いと技の数々です。
大切なデートにも役立つ
会社の接待だけでなく、大切なデートやちょっとした飲み会、食事会にも役立つことがたくさん書かれています。お店の選び方から席の配置、お料理の決め方、ホストとゲストの関係など、参考になります。
なぜ日本の男性は「もてなしベタ」なのか
「接待の店選びは、部下である私の役目。ビールを注がされるのも私。しょっちゅう注いでないと気が利かないといわれるからもう大変。料理がでてくるのが遅いとか、味つけが塩辛いとか、お客様の前で小言をいわれたこともあります。上司が接待をする席なのに、これっておかしくないですか」
「デートでお寿司屋さんに誘われたときは、とてもうれしかった。普段、女の子同士で行くことはないから。『なんでも好きなものを頼んで』っていわれたときは、思わず彼をハートマークで見てしまったけど、彼が最初にイカとかタコを頼んだ瞬間にがっかり。いくら好きなものを頼んでっていわれても、それじゃあ、ウニとかイクラとか高級ネタは頼めないでしょ」
さまざまなお客様を見てきた田崎さん、接待でもデートでもスマートにふるまえる日本の男性は、欧米の男性に比べてとても少ないという。「もてなしベタ」の理由は、日本の男の子はつねにもてなされる側にいるだけでなく、お客様扱いの父親の背中を見て育ち、そんな男の子が社会人になって急に人をもてなそうとしてもできない、と語っています。
もてなしとは何か
それは「ホスピタリティ」と「サービス」。たとえば、友人を自宅に招くときは、まずどんな料理をだそうかと考えるでしょう。大切なのは、その席の主役は自分ではなく、ゲストの友人だということです。友人の好みそうな料理に思いをめぐらせ、実際に作り、友人の好きなお酒を選ぶ。もし自宅に泊まる予定なら、新しいシーツや枕カバー、歯ブラシを用意する。こんな具合に精一杯、友人に尽くそうとするでしょう。もちろんお金は一切受け取らない。これが「もてなし」の原点です。別の言葉を使うと「ホスピタリティ」です。つまり、最上のもてなし=ホスピタリティは、お金を受け取らない、無償の提供物なのです。
ホスピタリティは英語ですが、その語源はラテン語の「ホスピス」です。「ホスピス」とは、フランスやスペインの巡礼の旅路にある修道僧たちを無償で泊まらせる施設のことでした。毛布と温かい食事を提供し、旅の疲れを癒してもらうのが目的でした。ヨーロッパの「ホスピス」は、その後「ホテル」と「ホスピタル(病院)」の起源になりますが、いずれも有償の施設です。かつての「ホスピス」のように無償ではなく、ホテルや病院が「サービス」を提供する見返りに、利用者は代金を支払うというシステムが構築されました。つまり「もてなし」=「ホスピタリティ」は無償ですが、「サービス」は有償なのです。
せっかくのデートなのに
「イタリアンに行ったときに、メニューを見るなり、『あ、僕はこのパスタでいいや。君は?』といわれ、『え?』という感じだった。前菜を食べて、パスタを食べて、メインを食べてという店なのに、注文したのはパスタ一品だけ。メインはなしです。すごく悲しかった。彼、『ファミレス育ち』の人だったのかもしれない」
田崎真也さんの技を抜粋して以下に箇条書きにしましたが、詳しくはぜひ本書に目を通してみてください。フレンチからお寿司屋さん、中華、焼き鳥屋まで、それぞれの所作が丁寧に説明されています。
・下見こそ最初の気遣い
・座る位置(上席、上座など)に配慮する
・相手の好みを確認する
・まずメインディッシュを決める
・メニューは同じものを頼む
・飲めない人には炭酸水ミネラルウォーターを
・同じものを同じタイミングで食べる(これ意外と大事です)
・お酒を注ぐのも料理のとり分けも男の役割
・ホストがまず料理に手をつける
・ホストが先に美味しいとは言わない
・遠慮しすぎない
・「楽しかった」と言われるのが理想
・会計はさりげなく