きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

ロビンソンと震災と文学

 

震災の日に誕生したスピッツの「ロビンソン」
プロデューサーが語る秘話 

 

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 結成当時はセールスに恵まれず

 結成30周年を迎えたスピッツ。これまで数々のヒット曲を世に送り出してきたが、1991年にメジャーデビューした当時はセールスに恵まれず、低迷が続いた。
 いくらいい曲を作っても結果を出さなければバンド活動を続けていけないと、1993年4月、初めて外部から招いたプロデューサーが、笹路正徳(ささじ・まさのり)さん。日本の音楽シーンを代表するプロデューサーとして知られ、当時プリンセス・プリンセスや、ユニコーンを手掛けていた笹路さん。バンドの方向性をむりやり変えるのではなく、メンバーが気付いていない長所を見つけ、違った魅力を引き出していくやりかただ。

 

文学的なマサムネの詞

 依頼を受けるまで、スピッツのことをよく知らなかったという。さっそく、それまでリリースした楽曲を聴いてみると「マサムネの書く詞はすごく文学的で、現代詩風というか、独特の世界観がありました」という笹路さん。そして独自の透明感がある歌声。この二つがスピッツの大きな武器になると考えた。

 

高いキーを活かす

 草野さんにこうアドバイスした。「マサムネは、ハイトーンに行ったときの声がいいんだから、それを活かさない手はないよ。高いキーで、もっと声を張って歌った方が聴き手の心に響くと思うな」 実は、草野さんは自分の高い声があまり好きではなく、レコーディングの際もボーカルの音量を小さくしていたのです。

 

空も飛べるはず』がヒット

 1994年にリリースされた『空も飛べるはず』がヒットし、ライブの動員は徐々に増え、そして翌年あの名曲が誕生します。
 1995年4月にリリースされた、11枚目のシングル『ロビンソン』。歌詞の中には一切、ロビンソンという人物は出てきません。「私にも分からないんですよ。マサムネは新曲を書くと、よく適当な仮タイトルをつけていたんですが、『ロビンソン』もそうで、そのまま正式タイトルになったんです。『ロビンソン』はミリオンセラーを記録。スピッツ出世作かつ、代表作となりました。

 

阪神・淡路大震災

 レコーディングされたのは、1995年1月17日 ... 阪神・淡路大震災が発生した日でした。当時を振り返り、笹路さんはこう語りました。
 「みんなで被災地の様子を見ていて「レコーディングどころじゃないな」という雰囲気になったんですが、自分たちはやれることをやろうと、予定通り収録したんです。改めて聴くと、このイントロには、そんな思いがこもっていたのかもしれませんね」

 

 


 

 

 

 

 

『読書について』 文芸批評の神様 小林秀雄 

 

全集を読むのが一番手っ取り早い
しかも確実な方法だ

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小林秀雄(こばやしひでお)

1902年(明治35年)東京出身。文芸評論家、編集者、作家。文芸批評の開拓者と呼ばれる。批評を創造的に高めた活動は、批評を一文学として確立する。
東京大学文学部仏文科卒。主な著書は『私小説論』『無常といふ事』『モオツァルト』『考えるヒント』など。昭和42年に文化勲章受章。ドストエフスキーベルクソン、アラン、ランボー泉鏡花幸田露伴志賀直哉などに影響を受ける。
1983年(昭和58年)腎不全による尿毒症と呼吸循環不全のため慶應義塾大学病院で死去。享年80歳。

 

小林秀雄の読むことに関する助言

1. つねに第一流作品のみを読め
 いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。こうして育まれる直観的な尺度こそ、後年一番ものをいう。

2. 一流作品は例外なく難解なものと知れ
 近づき難い天才の境地は兎も角、少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。あわてて覗こうとしても始まりはしない。

3. 一流作品の影響を恐れるな
 真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。こういう機会を恐れずに摑まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない。

4. 若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め
 或る名作家の作品全部を読む、彼の書簡、彼の日記の隅々までさぐる。世間が彼にはったレッテル乃至は凡庸な文学史家が解き明かす彼の性格とは、似ても似つかぬ豊富な人間に私たちは出会うのだ。

5. 小説を小説だと思って読むな
 文学に何んら患わさればい眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来るのだ。巧いとか拙いとかいってる、何派だとか何主義だとかいっているのは、いつまでたっても小説というものの正体がわからない。

 

作家の希(ねが)い

 立派な作家は、世間の醜さも残酷さもよく知っている。そして世間の醜さも残酷さもよく知っている様な読書の心さえ感動させようとしている。これが作家の希いであり、夢想である。

 

小説の一番普通の魅力とは

 小説というものの一番普通の魅力は、読者に自分を忘れさせるところにある。自分を忘れ、小説中の人物となり、小説中の生活を自らやっている様に錯覚する。小説中の人物とともに恋愛し、殺人している様に錯覚する楽しみ、この楽しみに身をまかすという事こそ、小説の一番普通の魅力である。

 

教育問題はむつかしい

 あるとき、娘が、国語の試験問題を見せて、何んだかちっともわからない文章だという。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、わかりませんと書いておけばいいのだ、と答えたら、娘は笑い出した。
 だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、といった。へえ、そうかい、とあきれたが、ちかごろ、家で、われながら小言幸兵衛じみてきたと思っている矢先き、おやじの面目まるつぶれである。教育問題はむつかしい。

 

読書について

読書について

 

 

 

人よりも遠回りな人生

 

永遠に生きるかのように学べ
明日死ぬかのように生きろ

 

金メダル獲得後の会見では、過去の五輪も振り返り語った、スピードスケートの小平奈緒選手。五輪新記録での優勝という圧倒的なスピードでの勝利だったが、レース後の会見では「金メダルは名誉ですが、どういう人生を生きていくかが大事」などの名言を披露、大きな反響を呼んだ。実は小平選手はこれまでも数々の名言を残している。

バンクーバーは成長、ソチは屈辱、今回はまた成長。成長するというのは、学びが多いということ」(2018年2月金メダル獲得後会見)

 

「私は人より遠回りしているような人生の選び方をしている。まだまだできるかなと思います」(2018年2月テレビ朝日

 

「世界で私が一番スケートが好きなんだっていうのを体からあふれるくらい出していきたい」(2017年12月インタビュー)

 

今を過ぎたものはそれに執着していては積み上がるものも積み上がらない。今が過ぎ去った瞬間に次の今に向けて高めていきたい」(2017年10月インタビュー)

 

私『小平奈緒』っていう生き方をしていきたいなと思っているので、『永遠に生きるかのように学べ、明日死ぬかのように生きろ』っていう(ガンジーの)言葉があるんですけど、そういう言葉のようなシーズンを送れたらいいかなと」(2017年4月会見)

 

「与えられるモノは有限、求めるモノは無限」(「Number」2017年4月号)

 

ベストは尽くしたんですけど届かなくて ...  私にとってのスケートは『学び』なので、自分のレースを一生懸命やった後はしっかりと他の選手の滑りを学んで必ず超えたいなと思いました」(2014年2月ソチ冬季五輪出場後のインタビュー) 

 

小平選手は2014年のソチ冬季五輪の同種目では5位入賞。それから2か月後、さらなるレベルアップを目指して「スケート王国」のオランダに単身留学した。それから2年後、30歳にしてついに覚醒。2016年10月から国内外の大会で24連勝中と圧巻の滑りを続けて、五輪で大輪の花を咲かせた。

 

下記記事から抜粋しました

ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)

ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)

 

 

Learn as if you will  live forever.
       Live as if you will die tomorrow.

永遠に生きるかのように学べ
   明日死ぬかのように生きろ

 

 

 

 

北朝鮮の受難と生きる道

 

国家の行動原理は生き残りである
隣国同士は対立する
敵の敵は味方

 

 長引く拉致被害者問題、核開発も止めない、そして敵対行為ばかりの北朝鮮。まったく理解できない国だが、朝鮮半島情勢も地政学を学べばさまざまなことが見えてくる。

 

マンガでわかる地政学 (池田書店のマンガでわかるシリーズ)

マンガでわかる地政学 (池田書店のマンガでわかるシリーズ)

 

 

地政学を読み解く用語

チョークポイント
「チョーク」は「首を絞める」という意味。そこを封鎖されると貿易がストップしてしまうような海峡や運河のこと。
 例えば、石油タンカーが中国や日本に向かう場合、マラッカ海峡が最短ルートになるが、このポイントを特定の国が封鎖すると他国への石油供給を止めることができる。別ルートで遠回りをすれば価格競争に負けてしまう。

パクスアメリカーナ
 パクスとは、古代ローマ帝国が周辺国を威圧して平和を維持していたこと。パクスは「平和」という意味で、「力による平和」といえる。パクスアメリカーナは「世界の警察官」か。一極支配状態は、圧倒的な軍事力で他国を威圧して実現する。その力が紛争発生の抑止力となって国際秩序は安定する。

シーパワー
 海上交通路を自由に支配できるイギリスのような海洋国家のことを、「シーパワー」と呼ぶ。シーパワーは島国、海洋国家で海上貿易に依存し、海軍中心の国家をいう。大西洋にも太平洋にも面しているアメリカは、地理的には大陸でも地政学ではシーパワーとしてとらえられている。
  アメリカ海軍の軍人で軍事史の専門家であった、アルフレッドマハンは、アメリカを「巨大な島」と考えた。ヨーロッパから遠く離れたアメリカに攻め込む国はないと。ただ、現在のアメリカはもう衰退がはじまっている。「パクス」が崩れれば世界は再び無法地帯になる可能性もある。

ランドパワー
 ロシアや中国のような海への出口が少ない内陸国家を「ランドパワー」と呼ぶ。大陸国家で陸続きの国境があるため、必然的に陸軍が強化され、陸軍主体になった国だ。ランドパワーは広大な国土そのものが周辺諸国に対する防波堤になる一方、余力のあるときは海への出口を求めて膨張する。

 

他国の侵略にさらされ続けた朝鮮半島

 朝鮮半島ランドパワーの侵攻にさらされ続けてきた。中国だけでなく、北方騎馬民族も攻めてきた。紀元前2世紀からは、朝鮮半島北部は「楽浪郡」と名付けられ、漢王朝に占領され、13世紀には北方騎馬民族のモンゴルが中国を攻め取り、朝鮮半島にも侵攻して全土を占領した。襲来時に20万人が奴隷として連行された。それ以外の時代にも朝鮮の歴代王朝は中華帝国に従属してきた。
 近代にはロシア帝国も加わる。南からはシーパワーの倭寇の襲来や秀吉の出兵を受け、近代には欧米列強に圧迫され、1910年日本に併合された。第二次世界大戦後は、ソ連アメリカによって南北に分断され、今日に至る。

 

生き残り策としての核開発

 歴史上何度も侵攻してきた中国を金日成は警戒していた。北朝鮮は、中ソ対立を利用して核兵器を開発した。「付け根」という地政学的な弱点を持つ朝鮮半島は、常にランドパワーの脅威に晒されている。韓国側にはアメリカ軍の支援(核兵器搭載可能な戦闘機を含む)があるため、軍事的に劣勢な北朝鮮は核保有に踏み切った。 

 

南北統一は至難の業

 北朝鮮と韓国は、異なる政治体制を隔てるバッファーゾーン(緩衝地帯)となっている。日本やアメリカから見れば韓国があるおかげで、北朝鮮や中国、ロシアという、政治・経済・イデオロギーが異なる国々と直面せずにすんでいる。逆もまたしかりで、中国・ロシアは北朝鮮の存在によって、韓国という親米国家と国境を接さずにすむ。韓国にとっても北朝鮮は、有史以来の脅威・中国に対する貴重なバッファーゾーンだ。
 韓国は地政学的に「島」と言えるような状態となり、ランドパワーからの脅威が減じている。周辺諸国が「必要」としている限り、北朝鮮は滅びない。
 このように、分断された国や民族を再統一することは、より多くの恩恵を周辺国に与えることがない限り難しく、至難の業なのだ。
 東西ドイツの統一は、ソ連民主化と東欧共産圏諸国の崩壊によって可能になった。しかし、南北朝鮮の統一を望む周辺国はない。これが現実だ。

 

 

西田幾多郎が創設した「京都学派」とは

 

京都学派とは、多くの成果を残した
哲学研究の一大グループ

 

 

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西田幾多郎(にしだきたろう)
1870年(明治3年)石川県出身。日本を代表する哲学者。京都大学教授、名誉教授。京都学派の創始者東京大学文科大学哲学科選科修了。学位は文学博士。1940年に文化勲章受章。名言は「人が環境をつくり、環境が人をつくる」など。主著に『善の研究』がある。1945年(昭和20年)鎌倉にて、尿毒症により急逝。享年75歳。

 

哲学研究の一大グループ

 京都学派とは、20世紀前半明治から戦前の昭和期にかけて、京都大学の研究者を中心に形成された哲学研究の一大グループのことを指す。京都帝国大学教授の西田幾多郎が創設したもの。京都学派は西洋哲学の輸入によって思索を始め、そこから日本独自の哲学が生み出された。京都学派の哲学者たちは、日本の思想と融合させ、まったく新しい哲学を生み出していった。

 

西洋哲学と禅を融合

 西田の主著善の研究で唱えた純粋経験は、西洋哲学の経験論をベースに禅の無の境地を融合させることで、経験概念の中に主客未分の状態を見出す。つまり、人間が物事を経験する際には、自分でもまだそのことに気づいていないような段階があるということ。

 

高く評価される京都学派

 西田の後継者と称される田辺元は、個人と集団の関係を論じた「種の論理」で有名だが、この概念はフランスのデュルケームやベクソンといった思想家にインスピレーションを得たもの。さらに京都学派の傍流である和辻哲郎も、代表作『風土』に明らかなごとく、ヘーゲル哲学を日本の風土とうまく融合させ、独自の共同体論を完成させた。
 こうした京都学派の哲学は、世界的にも日本独自のものとして注目を浴びている。また、西田の著作は世界中で翻訳され、他の京都学派の哲学者についても高く評価されると同時に、盛んに学問的批判が行われている。

 

戦争への関与

 近年発見された京都学派と海軍との秘密会合のメモ「大島メモ」によると、彼らは決して侵略戦争を肯定していたわけではなく、あくまで陸軍の方針を是正し、和平工作を模索しようとしていたとも見られる。戦争への関与は、京都学派の本質ではなく、あくまで時代の波に翻弄されてしまった。
 西洋哲学でも、ハイデガーナチスに加担したといわれるように。ハイデガーは、ナチスに入党し、その後ろ盾によってフライブルク大学の総長に就任したといわれる。

 

上記は『世界のエリートが学んでいる教養としての日本哲学』小川仁志著)から抜粋したものです。

 

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

 

 

 

 

 

 

 

終末期 米原万理

 

嚢腫の疑いが癌と診断され 
最後まで生きるための治療法を模索し挑戦した

 

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 米原万里(よねはらまり)
1950年に東京都中央区の聖路加病院で生まれる。ロシア語同時通訳・エッセイスト・小説家。代表作に『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、『オリガ・モリソヴナの反語法』、『ロシアは今日も荒れ模様』など。東京外国語大学ロシア語学科卒業、東京大学大学院露文学修士課程修了。2006年に卵巣癌で死去。父親の仕事の関係で、チェコスロバキアの首都プラハに渡欧。9歳から14歳まで少女時代の5年間、ソビエト大使館付属学校で過ごす。通訳時代は、エリツィン随行通訳を務める。ロシア語通訳協会会長を務め、また同時通訳の待遇改善にも尽力した。

 

 

米原万理の終末期

 2003年10月、卵巣嚢腫の診断を受け、内視鏡で摘出手術すると、嚢腫と思われたものが卵巣癌であり、転移の疑いがあると診断される。近藤誠の影響を受けていた米原は開腹手術による摘出、抗癌剤投与、放射線治療を拒否し、いわゆる民間療法にて免疫賦活などを行う。1年4ヶ月後には左鼠径部リンパ節への転移が判明し、手術を提案されるが拒否。温熱治療法などを試みる。

 2006年(平成18年)5月25日に神奈川の自宅で死去したことが、同29日に報道された。享年56歳。生前最後の著作は『必笑小咄のテクニック』(2005年)となった。

 闘病の経緯は米原の著書『打ちのめされるようなすごい本』に掲載されているが、終末期の哲学とも言えるほど壮絶だった。以下にその一部を抜粋した。誰にもいずれ訪れる死、子どもの頃からの読書家だった米原万里は闘病中にたくさんの医学関係の本を読んでいた。特に近藤誠の書物に影響され、治療方法を変更した。本好きで研究熱心な米原が最後まで生きるための治療法を模索し挑戦した。

×月×日
 診断は卵巣嚢腫。破裂すると危険なので内視鏡で摘出することになった。「健康保険制度がないため入院費がバカ高いアメリカでは日帰りで済ませる手術です」と執刀医。「入院は五日間で十分です。すぐ仕事に復帰できます」とも。
 それでも、術後は真夜中まで朦朧としていた。麻酔が切れかかったとき、母が危篤状態になったと知らされた。翌朝、車椅子を押してもらって母の病連まで行った。回復不能なのに人工呼吸器が取り付けられた母の身体は温かく、手を握り締めていると涙が止めどなく流れてくる。

 ×月×日
 自らの意志で徹夜したことは数限りなくあるが、不眠症に苦しんだことは皆無な私が昨晩は一睡もできなかった。なのに今夜も眠れそうにない。次々に癌で死んでいった友人たちの顔が浮かぶ。
 嚢腫だと思っていたものが、癌だったと告知された。未転移の一期なのか、リンパ節にすでに転移した三期なのか不明なのと転移防止のため、術後の体力回復を待って再入院、今度は開腹して卵巣の残部、子宮、腹腔内リンパ節、腹膜を全摘した上で、抗癌剤治療を行う、と言う。
 医師が退室して、すぐにインターネットで調べまくる。五年前癌に苦しむ親友Gに送った、近藤誠著『患者よ、がんと闘うな』。Gは乳癌から肺、そして骨に転移している状態で、抗癌剤による苦しみと自殺願望にのたうちまわる最中だったが、大いに触発されて抗癌剤治療を拒み、以後どんどん体力が回復し、仕事と生活を楽しむほどになってきている。穏やかに死を受け容れる心の準備もしている。
 文藝春秋の編集者Fが見舞いに来て、くだんの近藤誠本の文庫化されたものを持参。癌には本物ともどきがあり、本物は発見時にすでに転移しているし、手術という刺激によりさらに増殖を早める。一方でもどきは放置しても転移しない。だから手術も早期発見も無意味というのが、近藤理論 。『抗がん剤の副作用がわかる本』では、癌の九割に抗癌剤は無効と主張する著者が医学界の実名まであげて現在実施されている抗癌剤治療、放射線治療の恐るべき実態を暴いている。これで抗癌剤治療は拒絶しようと心に決めた。

 ×月×日
 予定通り入院六日目に退院。直前に母が息を引き取り、一緒に自宅に戻ることに。

 ×月×日
 左足付け根のリンパ節が固くなっている。嫌な予感がしてインターネットで「リンパ節」「炎症」を検索。腫れが空豆大より大きく硬く無痛の場合は、悪性リンパ腫か癌の転移らしい。

 ×月×日
 覚悟はしていたが、抗癌剤治療を受けた直後の一週間は凄まじい嘔吐と吐き気に襲われ、死にたいと思うほどに辛かった。三週間以上が経過している今も未だに後遺症に苦しんでいる。
 そもそも二年半前に卵巣癌を摘出して以降、何とか肉体へのダメージが大きい手術と放射線抗癌剤治療だけは避けようと、癌治療に関する書籍を読みまくり、代替治療法と呼ばれる実にさまざまな治療法に挑戦してきたのだ。身を以て、本が提案する治療法を検証してきたとも言える。結果的に抗癌剤治療を受けざるを得なくなった。

 ×月×日
 注目したのは、癌細胞が熱に弱いことを利用した温熱療法。このテーマで数冊目を通した。患者が高熱を出すウイルスや細菌に感染した結果、癌が自然消滅した例はかなり昔から医師たちによって観察されて来た。
 そこへ、文藝春秋の担当編集者Fからみ看過できない情報が入る。「当初、放射線と温熱療法の併用で効果を高める治療を積極的に推進してきたものの、現在では、温熱療法は害が無いどころか転移の危険があり、今では全国の主要な病院ではほとんどやっていない」という。週刊文春 2006年3月30日)

 

打ちのめされるようなすごい本 (文春文庫)

打ちのめされるようなすごい本 (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

『ソビエト帝国の崩壊』 小室直樹 40年前のベストセラー本

 

40年前の名著を読んでみて
小室直樹の人となりを、あらためて見てみる

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (1980年) (カッパ・ビジネス)

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (1980年) (カッパ・ビジネス)

 

 

ソビエト帝国の崩壊を予見

 ソビエト帝国は、『資本論』という一冊の本が生んだ巨大な人造国家である。レーニン、スターリンの天才が育てた人類の夢であった。しかし、実際のソビエトはどうであろうか。平等社会の理念のかげに恐るべき特権階級がいる。彼らの生活の贅沢さは大資本家以上だ。ソビエト崩壊(1991年12月)の11年前にソビエト連邦の科学的な分析を通して、内部崩壊の局面に至っていることを論じ、その崩壊を予見した。それだけではなく、現代の日本にも通ずる、日本の各分野での認識の甘さも指摘している。
 今回は、ソビエト帝国の崩壊を10年以上前に予見した小室直樹について、その人となりをあらためて見てみたい。なお、以下の内容はWikipediaからのもので、ほんの一部です。『ソビエト帝国の崩壊』は、1980年(昭和55年)に出版された。

 

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小室直樹(こむろなおき)
1932年東京都出身。日本の社会学者、評論家。学位は法学博士(東京大学・1974年)。東京工業大学世界文明センター特任教授、現代政治研究所所長などを歴任する。2010年に心不全のため死去。満77歳没。

 

典型的な軍国少年

 1932年、東京都世田谷区生まれ。1937年、5歳のときに同盟通信の記者であった父が死去し、母の故郷である福島県会津若松市に転居する。典型的な軍国少年で、日本の敗戦の知らせを聞いたときの悔しさが学問を志す原体験と自身が述べている。母子家庭ということで幼少期の生活はかなり苦しかった。
 福島県会津高等学校入学。高校時代は秀才の誉れ高く、数学、物理などの学力は高校教師を凌ぐほどだった。後に政治家となる渡部恒三と知り合う。会津高校時代は昼食の弁当を用意できず、昼休みになるといつも教室から姿を消していた。ある時、それを知った渡部恒三が、自分の下宿に頼んで弁当を2個用意してもらうように手配し、以後、昼食にありつけるようになった。

 

打倒アメリカを目指し京大理学部へ

 会津高校在学中に湯川秀樹博士のノーベル賞受賞を聞くと、日本がアメリカ合衆国を打ち倒し、世界から尊敬を受けることができるようになる国になるための研究ができると思い、京大理学部を志望する。1951年に京都大学理学部に入学。受験の際も渡部恒三の父の友人から京都までの旅費を援助してもらったが、滞在中の費用がかさみ、帰途の交通費が無くなってしまう。小室はやむなく京都から福島まで徒歩で帰ってきたという。京大では位相幾何学を専攻するが、ジョン・ヒックスの「価値と資本」の解説を書いていた市村真一の論文を読んで、理論経済学に興味を持つようになる。

 

理論経済学から心理学へ

 1955年京大を卒業し、大阪大学大学院経済学研究科に進学。1958年阪大大学院博士課程に進学。1959年阪大大学院を中退し、フルブライト留学生としてアメリカのミシガン大学大学院に留学。ダニエル・スーツから計量経済学を学び、更に奨学金を得て研究を続けた。
 1960年マサチューセッツ工科大学大学院でポール・サミュエルソン他、ハーバード大学大学院ではケネス・アロー他から経済学を学ぶ。しかし、ヒックス、サミュエルソン、アローなどにより理論経済学の研究は完成されてしまったと考え、社会学政治学の理論化を研究しようと決意する。そのためには心理学を学ぶことが有益であると考えた。

 

丸山眞男政治学を学ぶ

 1963年東京大学大学院法学政治研究科に進学。丸山眞男が指導教官となり政治学を学ぶが、小室が心理学ばかり勉強しているので、丸山の弟子の京極純一に預けられた。その他にも、東大のゼミを渡り歩き、中根千枝から社会人類学を、篠原一から計量政治学を、川島武宜から法社会学をそれぞれ学ぶ。
 1965年には高田保馬の『社会学概論』の解説を書いた富永健一から社会学を学ぶ。論文「構造機能分析と均衡分析」では行動主義心理学社会学に応用したパーソンズの構造機能分析を日本で他に先駆けて発表した。

 

小室ゼミのスタート

 1967年からボランティアで、所属や年齢、専攻を問わない自主ゼミ(小室ゼミ)を開講し、経済学を筆頭に法社会学、比較宗教学などを幅広く無償で教授していた。小室ゼミには橋爪大三郎宮台真司副島隆彦盛山和夫・志田基与師・今田高俊・山田昌弘大澤真幸らがいる。
 1970年に大塚久雄の近所に引越し、直接マックス・ウェーバーについて学びながら、宗教についての研究を始める。「社会科学における行動理論の展開」で城戸賞受賞。1972年東京大学から「衆議院選挙区の特性分析」で法学博士の学位を取得し、東京大学非常勤講師に就任。

 

大学の教授に家庭教師をしていた

 1979年12月、それまで清貧な学究生活を送っていた小室は、自宅アパートで研究に没頭し栄養失調で倒れているところを門下生に発見され病院に運ばれた。しばらく入院し身体は回復したが自身で入院費が払えず、友人知人のカンパで支払う。小室の才能を知る友人の渡部弁護士や山本七平などの勧めで本を出版することにした。
 そして『ソビエト帝国の崩壊』が刊行されベストセラーになり、評論家として認知されるようになる。この後十数年間にわたって光文社のカッパビジネス、カッパブックスより27冊の著作が刊行され、光文社にとって小室の著作群はドル箱になった。ほかに徳間書店文藝春秋などから著作を刊行。こうした著作活動の成功により、経済的安定を得ることができた。ベストセラーを書くまでの主な収入は家庭教師で、受験生のほか、大学の教授にまで教えていた。

 

速読による驚異の読書力

 他の研究者が驚くほどの読書力を持っているようで、本人の話では日本語、英語の普通の本ならば、1時間で読破し、また重要と思われる本は最低10回は読むとのことで、学生にもテキストの徹底した精読をアドバイスしている。長い貧困時代、狭いアパートの部屋にはほとんど本がなく(金がなくて本が買えなかった)「小室は自宅に本をほとんどもっていないのになぜあんなに知識が豊富なのだろう」と友人や教官は訝しんでいたが、実は小室は本屋での立ち読みでこうした速読・精読術を使いこなしており、それによって知識を身につけていた。

 

著書・共著の一部

国民のための戦争と平和
数学を使わない数学の講義
日本教社会学
日本人のための憲法原論
小室直樹の中国原論
日本人のための宗教原論
小室直樹の資本主義原論
経済学をめぐる巨匠たち
痛快!憲法
日本人のための経済原論
危機の構造ー日本社会崩壊のモデル
日本いまだに近代国家に非ず
韓国の悲劇
ソビエト帝国の崩壊
小室直樹の学問と思想
人にはなぜ教育が必要なのか
日本国憲法の問題点
小室直樹の世界
封印の昭和史