きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『徳川がつくった先進国日本』 磯田道史

 

徳川がつくった先進国日本 (文春文庫)

徳川がつくった先進国日本 (文春文庫)

 

 

あらすじ

 江戸時代には、内乱、自然災害、侵略など数々の危機があった。にもかかわらず、なぜ平和は保たれたのか。そこには血生ぐさい戦国の風潮から脱し、民を慈しみ、人命を尊重する国家へと転換していった為政者たちの姿があった。”徳川の平和”がもたらした大いなる遺産を、4つの歴史的事件から時代をさかのぼって解説する。

 

ロシアとの「露寇(ろこう)事件」が徳川の平和をつくった?

 「泰平の世」と呼ばれる時代は、いかにして築かれたのか。この観点から時代の大きな転換をもたらしたターニングポイントを選ぶとすると、文化年間(1804~18)に起きた「露寇事件」だ。1804年にニコライ・レザノフ一行のロシア使節が長崎に現れた。彼は露米会社の総支配人で、日本を中継地として利用しようとしたが、半年以上も幽閉され、手ひどい仕打ちを受けたことに日本への報復を計画する。1806年にロシア軍艦が突如、松前藩の施設を襲撃する。これが露寇事件で、関ケ原合戦などの戦乱が終わってすでに二百年近く経ち、いわば平和ボケのような気風の時に多大な緊張を与えた。

 一歩間違えば大国ロシアとの戦争という非常事態であった。幕府は、この一連の紛争を通じて対外的危機への備えを固めるようになる。こうした国防意識の高まりが、結果として江戸時代後期の繁栄を持続させることにつながった。

 この露寇事件のおよそ五十年後、日本は黒船来航、すなわちペリーによる強制的な開国を迎えるが、ロシアとの対外危機を経験したことは幕府にとって外国の脅威に対する予行演習、いわばワクチン接種のような動きをもたらした。日本の近代はアメリカ=ペリーが開いたように語られているが、ロシアこそが国境を接する唯一の西洋国であり、まずロシアとの対峙という前史があって、日本の近代化があるのである。

 長く続いた「徳川の平和」は世界史的にも奇跡的な達成だったが、その平和とは何もせず、常に一貫して平和だったわけではなく、こうした危機や、また自然災害、飢饉との戦いのうえに成り立っていた。

 

そのほかに

島原の乱
生類憐みの令発布
浅間山噴火・天明飢饉
江戸の打ちこわし
宝永の地震津波
急増した新田開発などでの環境破壊 など