きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『舟を編む』 三浦しをん

 

辞書は、言葉の海を渡る舟
海を渡るにふさわしい舟を編む

 

あらすじ

 出版社のさえない営業部員馬締光也(まじめみつや)は、「右」を定義せよという質問に答え、言葉への鋭いセンスを買われて辞書編集部に引き抜かれた。新しい辞書『大渡海(だいとかい)』の完成に向け、彼と編集部の面々の長い長い旅が始まる。定年まじかのベテラン編集者荒木、日本語研究に人生を捧げる老学者松本、辞書作りに情熱を持ち始める荒木の部下西岡など同僚たち、そして馬締がついに出会った運命の女性林香具矢。不器用な人々の思いが胸を打つ、本屋大賞受賞作です。

 

「右」を説明できますか

 馬締光也にテストした「右」の定義、あなたならどう説明しますか。馬締の答えはこうでした。「方向としての『右』ですか、思想としての『右』ですか」「前者だ」「そうですね」...「『ペンや箸を使う手のほう』と言うと、左利きのひとを無視するし、『体を北に向けたとき、東にあるほう』とでも説明するのが、無難ではないでしょうか」。また、学者の松本は、10という数字の、0の方が「右」と言っています。
 基本的に左右の定義については、人間の取り決めによってのみ区別できるもの。人間にとって、上下は重力の方向を、前後は自己の進行方向を示すというようにはっきりと異なる意味を持つのに対して、左右にはそのような判然とした価値の差が存在しないために混乱が生じやすいという。左右という概念・単語を持たない民族・言語もあるらしいのです。

 

「恋」の定義

 ある満月の夜、馬締の住む下宿で猫のトラをきっかけに大家タケの孫で板前修業中の、林香具矢と出会い一目惚れしてしまう。のちに、馬締は「恋文」を書き上げ、西岡に意見を求めるが、ひとめ見るなり唖然とする。それは毛筆による行書体で書かれていた。「戦国武将じゃあるまいし」と呆れる西岡。
 馬締が語釈を任された「こい【恋】」は、「ある人を好きになってしまい、寝ても覚めてもその人が頭から離れず、他のことが手につかなくなり、身悶えしたくなるような心の状態。/成就すれば、天にものぼる気持ちになる。」となる。

 

そして12年後

 社内で『大渡海』の出版中止が取り沙汰されたり、予算縮小のために西岡が人事異動させられたりと暗雲が漂いはじめるが、何とか作業は継続された。
 それから12年後。馬締と香具矢は入籍。ふたりを結びつけたタケとトラは他界していた。馬締が主任となった編集部には、妻を喪った荒木が嘱託として戻っていた。いよいよ出版を翌年に控えて忙しくなる編集部にファッション誌の編集部から岸辺みどりが異動してくる。多くの大学院生をアルバイトに雇い入れ、連日詰めの校正作業に追われていた。馬締と松本はファーストフードで女子高生たちの会話にも耳を澄ませるなど用例採集を続けていた。
*用例採集とは国語辞典を編纂するにあたり、辞典に収録する言葉を探し出す作業をいいます。

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用例採集カード

 

『大渡海』の原稿が完成

 雪の降る日、版の完成を待たずに、松本が他界。そして馬締と荒木の最終チェックが完了し、『大渡海』の原稿は完成。疲労困憊だったアルバイトの院生たちも大事業を為し得た悦びにわきかえる。
 出版披露パーティが協力者たちを招いて催されるが、馬締の表情は晴れない。最大の功労者である松本は遺影となって宴席の片隅にいた。荒木が一通の封書を差し出す。それは死の間際の松本が荒木に宛てた手紙だった。そこには荒木と馬締への感謝の言葉、仕事を完結できなかった無念さ、辞書の編纂という仕事に携われたことに対する喜びが書かれていた。そして、翌日からは『大渡海』の改定作業が始まる。

 

時代とともに変遷し続ける言葉

 小学館の『日本国語大辞典』は全20巻という大部の辞書。編集作業に10年以上の年月をかけ、約45万項目を収録。協力者は3,000人に及ぶといいます。
 「辞書づくりには、莫大な金と膨大な時間がかかりますからね。いつの時代もみんな手っ取り早く儲けられるもののほうに飛びつくもんです」という西岡の台詞。時代とともに変遷し続ける言葉を「辞書」として編纂することの難しさと、地道な努力の大切さを教えてくれます。学生時代からお世話になっている辞書ですが、いまではスマホでの検索や電子辞書が台頭。そんな中、辞書ってこんなふうにつくられているのか、という思いで読了。そんな辞書に愛おしささえ感じてしまいます。

 

舟を編む (光文社文庫)

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舟を編む

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舟を編む 上巻 (KCx)

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