きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

幕末の思想 「水戸学」

 

幕末の思想は尊王攘夷を基本に
民衆が近代の扉を開いた

 

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ペリー来航にはじまる

 幕末という独自の時代の空気の中で登場し、育まれていった一群の思想が存在しました。そんな幕末の思想は、ペリー来航に始まったといってもいい。幕府はペリーの威圧に屈して翌年、日米和親条約を締結し、開国に至りました。さらに、1858年には駐日総領事ハリスの要求により、日米修好通商条約の締結に踏み切ります。これを機に尊王攘夷運動が激化していったのです。

 

明治維新に影響を与えた水戸学

 尊王攘夷運動の中心を担うことで、明治維新に大きな影響を及ぼしたといえる思想が水戸学でした。もともとは水戸藩徳川光圀の『大日本史』編纂に端を発する思想です。その形成に寄与したのが、藤田幽谷、藤田東湖徳川斉昭、会沢正志斎といった人物でした。
 藤田幽谷は、天皇を頂点とする国家体制の必要性を説きました。これを名分論といいます。そして対外的危機における攘夷とこの国家体制を連動させて論を展開、これによって尊王攘夷論の基礎をつくったとされます。藤田東湖は幽谷の子で、腹心として水戸藩と水戸学の発展に貢献しました。
 徳川斉昭は、水戸藩主として水戸学の象徴ともいえる弘道館を設立した人物です。幕府においても海防問題を担当し、開戦になった場合の心構えである「海防愚存」を提出するなど、攘夷派を代表しました。
 会沢正志斎は、弘道館の初代総裁として、水戸学の理論を確立した思想家です。主著ともいえる『新論』は、武士層に強い影響を与えたといいます。

 

神道儒教が結合

 このように様々な人物が水戸学を形成してきたわけですが、一般的特徴として水戸学は、神道儒教が結合した「敬神崇儒」を理念として掲げています。日本を神州とし、アマテラスを起源とする皇統の連続性を強調すると同時に、国学儒学の理念との一致を説くのです。そして、藩士が藩主に従うことが幕府への忠誠を意味し、それはひいては天皇に対する忠誠につながるとする「尊王攘夷」を訴えました。

 

日本独自のイデオロギーの必要性

 では、そんな水戸学が、いかにして明治維新に影響を及ぼすことになったのか。一つには水戸学が列強の進出を単なる軍事的脅威ととらえるのではなく、キリスト教というイデオロギーの問題、いわば思想面での脅威であると指摘したことです。つまり、キリスト教の布教によって、内部から支配されてしまうことを避けるために、日本独自のイデオロギーが必要であると説いたのです。最終的にそれが尊王攘夷へとつながっていったわけです。

 

多くの立役者を育てた吉田松陰

 この水戸学の理念を具体的に革命として実行しようとしたのが、長州・萩の松下村塾で有名な吉田松陰です。この私塾での講義を通じて、松陰は高杉晋作伊藤博文ら多くの明治維新の立役者たちを育てました。松陰は、国家的危機に直面していながら、自分のことだけを考えるのは許されないと語り、在野の民を意味する草莽に対して、一斉に立ち上がるよう訴えかけました。いわゆる草莽崛起です。最期は自らも「先駆として死ぬ」という覚悟のもと、大老井伊直弼にたてつき、安政の大獄で刑死します。まさに革命に身を投じた人生でした。

 

民衆の目を覚まさせた

 幕末の思想は、基本的に尊王攘夷を共通の目的にしていたわけですが、それがもたらした結果にはもっと大きな意義があります。つまり、その運動自体が、幕府の庇護のもと長い眠りについていた民衆の目を覚まし、市民が主役となる、近代への重い扉を開くことに寄与したのです。

 

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