『読書について』 ショーペンハウアー
読書は他人の頭で考えることでしかない
必要なのは自分の頭で考えること
ショーペンハウアー哲学を
わかりやすく理解させてくれる
最良の入門書
Arthur Schopenhauer アルトゥル・ショーペンハウアー
1788-1860 ポーランド・リトアニア共和国・グダニスク生まれ。ドイツの哲学者。1820年ベルリン大学講師となったが、当時ヘーゲル哲学が全ドイツを席巻、人気絶頂のヘーゲル正教授に圧倒され辞任し、在野の学者となる。主著は『意志と表象としての世界』。誰とも結婚せず、生涯独身のまま、その一生を終えた。1860年フランクフルトにて肺炎で死去。72歳没。ニーチェやワーグナーをはじめ、哲学・文学・芸術の分野で後世に大きな影響をおよぼした。
影響をうけたもの 仏教、ゲーテ、カント、プラトン、ジョン・ロック、シェイクスピア、スピノザなど。
影響をあたえたもの アインシュタイン、フロイト、ユング、モーパッサン、トーマス・マン、マラルメ、ニーチェ、ヘルマン・ヘッセ、カール・ポパー、サルトル、ツルゲーネフ、トルストイ、トロツキー、ワーグナーなど多数。
(wikipedia・本書)
『読書について』
「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ」... 。率直さゆえに辛辣に響くアフォリズム(格言)の数々。その奥底には、哲学者ショーペンハウアーならではの人生哲学と深いヒューマニズムがあります。それが本書の最大の魅力です。(本書)
*以下は本書からの抜粋です
本を読むとは他人の頭で考えること
本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が自然に融合してひとつにまとまってゆくことはない。
多読に走るべきではない
きわめてすぐれた頭脳の持ち主でさえ、いつでも自分の頭で考えることができるわけではない。そこで思索以外の時間を読書にあてるのが得策だ。読書は自分で考えることの代わりであり、精神に材料を供給する。その場合、私たちに代わって他人が考えてくれるが、その思考法は常に私たちとは異なる。だからこそ、多読に走るべきではない。精神が代用品に慣れて、それにかまけて肝心のテーマを忘れ、他人の考えで踏み固められた道に慣れ、その道筋を追うあまり、自分の頭で考えて歩むべき道から遠ざかってしまわないようにするためだ。
反芻し、じっくり考える
本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻(はんすう)し、じっくり考えたことだけだ。ひっきりなしに次々と本を読み、後から考えずにいると、せっかく読んだものもしっかり根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう。
本を選ぶときのコツ
本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。いま大評判で次々と版を重ねても、1年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。あらゆる国々の、常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品へ振り向けよう。私たちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけである。良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから。
反復は勉学の母である
本を買うとき、それを読む時間も一緒に買えたら、すばらしいことだろう。だがたいてい本を買うと、その内容までわがものとしたような錯覚におちいる。読んだものをすべて覚えておきたがるが、私たちはみな、自分が興味あるもの、つまり自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。
そのためにも「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな、続けて2度読むべきだ。2度目になると、内容のつながりがいっそうよくわかるし、結末がわかっていれば、出だしをいっそう正しく理解できるし、印象も変わってくるからだ。
饒舌な者はなにも語らない
手練手管を用いる書き手について「饒舌(じょうぜつ)な者は、なにも語らない」という言葉があてはまる。どんな場合でも抽象的な表現を選ぶ。これに対して知者は、より具体的な表現を選ぶ。具体的であるほうが、物事はあらゆる明白さの源泉である直観性になじむからだ。
真理はむきだしのままが、もっとも美しく、表現が簡潔であればあるほど、深い感動を与える。たとえば人間存在のむなしさについて、どんなに熱弁をふるっても、ヨブの言葉以上の感銘を与えるものがあるだろうか。
「人は女から生まれ、つかのまの時を生き、悩み多く、花のように咲きほころび、しぼみ、影のようにはかなく消えてゆく」
(旧約聖書『ヨブ記』第14章1~2節)
後世に与えたはかりしれない影響
ニーチェとショーペンハウアーの主著との運命的な出会いは有名だ。ショーペンハウアーの没後5年たった1865年、ライプチヒ大学の学生だったニーチェは、古本屋の店先で分厚い本を目にした。本をパラパラめくると、「いかなるデーモンが私の耳元でささやきかけたのだろう。とにかく『持って帰れ』と言ったのだ」。その後、ニーチェは寝るまも惜しんでこの書に没頭、「あたかも私のために書いてくれた」かのように感じるほど衝撃を受け、ショーペンハウアーを「教育者」と呼んでいる。
いっぽうロシアの文豪トルストイは1868年、『戦争と平和』の締めくくりとして「必然と自由」論を執筆しているとき、まさにショーペンハウアーの著作と出会う。「今私はショーペンハウアーは多くの人間たちの中でもっとも天才的な人物だと確信します ... これは信じられないはっきりと、美しく照らし出された世界です」と絶賛し、大作『戦争と平和』を完結させている。
他にもスウェーデンの劇作家・小説家アウグスト・ストリンドベリやドイツの文豪トーマス・マン、ショーペンハウアーを「言葉の芸術家」と呼んだカフカや、精神分析の先駆者として尊重したフロイトなど、彼が後世に与えた影響ははかりしれない。
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