きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

ユリイカ 特集 米原万里

 

 

ユリイカ2009年1月号 特集=米原万里

ユリイカ2009年1月号 特集=米原万里

 

 

 

米原万理特集

 また米原万里かと言われそうですが。2009年に発行されたユリイカ1月号が、ほぼ全ページに渡りロシア語通訳そして作家の米原万里が特集されています。この1冊は古本屋で見つけたもので、ほぼ定価に近い値段。もう少ししたらプレミアがつくかも。


貴重なワンカットも収録

 この特集号には数多くの写真が掲載されています。鎌倉のペレストロイカ御殿や良き時代の家族写真、ソビエト学校でのアーニャとの一枚、プラハ時代の万里とユリ、バリバリの共産党員だった頃の父と、東京外語大の学生時代、ゴルバチョフとの貴重なワンカットなど。そして、著書の「マイナス50℃の世界」にもでてくるシベリアでの極寒の未掲載カットも登場します。すべてモノクロなのですが、どれもとても美しいです。

 

ロシア文学とその豊かさについて

 例えばトルストイにしてもドストエフスキーにしてもチェーホフにしても、考えてみたらこの人たちはあれほど言論が抑圧されていなかったら、もしかしたら全然違う分野に行ったかもしれない。
 そもそもロシアの作家はみんな、社会を変えようと一生懸命考えたり、行動したりして、それが挫折して文学に行ったわけです。だからロシア文学はものすごく社会的な面が強いというか、メッセージ性が強く、それが文学の骨格をとても骨太なものにしている。世界中の人たちが魅かれるロシア文学の魅力はそういうところにあるんだと思いますね 。

 

米原万里の読書について

 プラハソビエト学校では、図書館で借りた本を返す時にその本の内容を司書のおばさんに話さなければいけなかったんです。そのおばさんがものすごく怖くて厳しい人で、ただ「面白かった」とか「感動した」とか言うのでは絶対に許してくれない。そうした感想ではなくて、その本を読んでいない人たちに客観的に伝えられるように語ってみせなくてはいけないんです。
 だから本を読んでる最中から、本を読むのが速くなるし、読みも立体的になるんですね。人間の脳というのはアウトプット優位なんですって。だから、出そうと思えばその分だけたくさん入るし、入るスピードも速くなる。 

 

血肉とする最良の手段

 ロシア語で教育を受けたのはたった5年間だったのに、それでも帰ってきて今までロシア語で仕事をしながら暮らしてこられたのは、日露というふたつの言語を身につけられたからということに他ならないんですけど、それは考えてみたら、かなりの程度、本のおかげなんですね。言語には膨大な構文とか文法が準備されてきたわけですけど、そういったものを自分の血や肉となるように身につける最良の手段として、結局は読書以上のものはなかったと思うんです。

 

 

『金閣寺』 三島由紀夫

 

いつかきっとお前を支配してやる
僧侶による金閣寺放火事件

 

f:id:muchacafe:20170421132819j:plain
金閣寺 (新潮文庫) | 三島 由紀夫 |本 | 通販 | Amazon

 

 

金閣寺』冒頭部分

 『金閣寺』は三島由紀夫の代表作でもあり、昭和31年度の読売文学賞を受賞した作品。冒頭は次のように始まります。

幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
私の生まれたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙(へんぴ)な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。...

昭和25年7月に起きた僧侶による金閣寺放火事件を題材にしており、この異常な事件を文学的な切り口から小説にしたものです。

 

僧侶による金閣寺放火事件

 7月2日未明に、鹿苑寺(ろくおんじ)から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。人的被害はなかったが、国宝の舎利殿金閣)が全焼し、文化財も焼失。
 鎮火後の現場検証では、普段火の気がないことなどから不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(当時21歳)が、寺裏の山中で服毒し、けがをしているところを発見、逮捕された。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。

 

著名人が犯行を分析

 三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析している(水上は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っているという)。また、服役中に統合失調症の進行が見られたことから犯行の一因になったのではないかという指摘もある。なお当時、産経新聞の記者だった福田定一司馬遼太郎)も火災現場へ駆けつけている。

 

精神鑑定ののち服役

 事件後、林の母親は山陰本線の列車から保津峡に飛び込んで自殺している。林は精神鑑定ののち、懲役7年を言い渡され服役したが、その後減刑になり昭和30年10月に出所。翌年3月7日に結核統合失調症により病死(享年26歳)。現在の金閣京都府の支援や寄付により、事件から5年後の30年に再建された。


悲劇を生んだ妄想と現実のギャップ

 小説での溝口少年(放火をする僧侶)は、「金閣ほど美しいものはこの世にない」という金閣寺を礼讃する父親の言葉を盲目的に信じていました。そして、少年はまだ見ぬ金閣寺の荘厳さ、崇高さ、美しさを「想像上で」構築し始めます。
 病気のため命が長くないと悟った父は、息子を金閣寺の住職に預けますが、少年はそこで見た実際の金閣寺と想像上の金閣寺のギャップを感じてしまいます。「金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないか」とまで思うようになり、妄想は際限なく拡大し、その妄想と現実のギャップが悲劇を生む結果になってしまいます。まして少年は、吃音を気にし、自らにコンプレックスを持っており、心理的な壁にもなって、手が届かない存在に。それが一層の絶望感と狂気へと導いてしまうのです。

 

いつかきっとお前を支配してやる

 第二次世界大戦で東京が焦土と化し、「次は京都か?」となったとき、この美しき金閣寺をも焼くと考え、「金閣が灰になることは確実なのだ」と語り、滅びの美学に通じ、彼を陶酔させていきます。この文章は三島由紀夫の退廃性を表し、死に直面することで生が輝くのだと。しかし、京都は空襲を免れます。溝口は、否応なしに現実に引き戻される。滅びると思っていた金閣寺が生き延びてしまう。そして彼は「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」と復讐とも言える宣言をします。

 

美との心中

 母親は彼に金閣寺の住職になることを期待していました。結局はその期待を裏切ることになり、精神的に追い詰められた溝口は不動の金閣寺に対抗すべく焼き打ちという暴挙を考えます。金閣寺を現実に焼くことで自分の醜い内面と美としての外界とのバランスをとろうとしたのでしょうか。美との心中であり、殉死を試みます。

 

金閣寺』は一貫した美学の発露

 三島由紀夫自衛隊に向けた演説をしたあと割腹自殺をしますが、この殉死の発露が『金閣寺』に見られます。犯罪行為を美化し、芸術化したこの小説が30歳の時に書かれたということは、最後の『豊饒の海天人五衰』を書き上げた45歳で、一貫した彼の美学は完成されたということなのでしょうか。

 

三島由紀夫の「滅びの美学」

 この『金閣寺』、決して易しく書かれているわけではないです。すべての描写が芸術的で、小説としての完成度は限りなく高く、凡人にはとてもこんな文章は書けまいと思わせてしまうほど、三島由紀夫の「滅びの美学」が精密に描かれています。水上勉の「金閣炎上」や「五番町夕霧楼」と読み比べてみるのも面白いでしょうし、また酒井順子の「金閣寺の燃やし方」で両者の比較論から読み始めるも良し。映画や演劇、オペラにもなっています。

 (経営者のためのリベラルアーツ入門、Wikipedia引用)

 

 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 
金閣炎上 (新潮文庫)

金閣炎上 (新潮文庫)

 
金閣寺の燃やし方 (講談社文庫)

金閣寺の燃やし方 (講談社文庫)

 
五番町夕霧楼 (新潮文庫)

五番町夕霧楼 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

『立花隆の書棚』 知の巨人の20万冊

 

立花隆の書棚

立花隆の書棚

 

 

 

20万冊の書棚を写真撮影

 知の巨人、立花隆驚異の蔵書を書棚ごと撮影して紹介。20万冊にも達する、どんな本がどのように並べられているのか。写真と共に蔵書にまつわる興味深い話も、約650ページにわたり満載。

 

西洋哲学も、東洋思想も理解できない日本人

 西洋社会を本気で理解しようと思うなら、聖書は新約、旧約とも必読です。ところが、そうした西洋の価値観や文化の根底にある、聖書やキリスト教に対する日本人全般の知識の貧弱さと言えば、「てんでお話にならないレベル」だ。その意味で、ほとんどの日本人は、実は「西洋」というものについて何もわかっていないのに、さもわかっているかのように話をしているだけ。こんなことを書くと「たしかに西洋の文学や哲学に関しては、日本人の理解は浅いかもしれない。しかし、東洋にも独自の東洋哲学・東洋思想があるのだから、そんなに悲観することはない。」という人も出てくる。
 では、日本人が東洋の哲学・思想についてどれだけのことを知っているのか。中国の思想について、あるいは仏教についてインド思想史からきちんと知っている人はどれくらいいるだろうか。イスラム教、イスラム文化についても事情は同じだ。

 

漢文の授業すらない

 正直なことろ、日本人、特に現代の日本人は「ほぼ何も知らない」と言ってもいい。イスラムはともかく、中国思想についていうと、むしろ、インターネットどころか、書籍も手に入りにくかった明治初期とか江戸時代の人のほうが、よほど深い知識があった。日本の知識人と呼ばれる人はみんな、漢文を読み書きすることができた。森鴎外夏目漱石もオリジナルの漢文をそのまま読み書きすることができた。
 ところが、ある時期から日本人は漢文に返り点を打って日本語の語順に直して読むという「読み下し」を行うようになり、もともとの漢文が読めなくなってしまった。そして現在に至っては、高校教育の現場で漢文の授業すらなくなり、大学入試においても軒並み漢文は出題されなくなった。結局、今の日本人は肌感覚では東洋思想も西洋思想も理解することができなくなってしまったと。
 そこで立花隆が現代人に必要な書籍を紹介していく。その厚み、5cmを越える辞典のような本書には、書棚の写真と圧倒的な知の本が数多く掲載されています。

 

 

『百人一首』 藤原定家 

 

百人一首の誕生

 「百人一首」は、藤原定家がまとめた小さな歌集です。定家(さだいえ)は優れた歌人で尊敬を込めて、定家(ていか)と呼ばれるようになります。
 定家の日記によると、「百人一首」が完成したのは、1235年5月27日、鎌倉時代の初め。定家は、飛鳥時代から平安時代の終わりまでの百人の歌人の和歌を、一首ずつ、合計百首選んで時代順にまとめました。

 

思いを短い詩に綴る

 昔の人は、四季折々の美しい景色を見たとき、恋や人生について考えたとき、その思いを「和歌」と呼ばれる三十一文字の短い詩に綴りました。百人一首を読むと、昔の人が自然とともに生き、それを大事にしていたことや、どんなことに心を動かされていたか、そして貴族の華やかな暮らしぶりまでもが、いきいきと伝わってきます。
 百人一首は、日本を代表する古典文学として、時代をこえて多くの人々に愛されてきました。さらにはポルトガルからやってきたかるたとあわさり、江戸時代に「歌かるた」という遊び道具になったことで、遊びながら親しまれるようになりました。

 

和歌は日本独自の詩のひとつ

 百人一首には百首の和歌が収められています。「和歌」とは、日本に古くから伝わる詩の形のひとつで、短歌や長歌などいくつかの種類がありましたが、平安時代以降に短歌だけが残りました。
 短歌は五・七・五・七・七というリズムのある短い詩で、ルールは五句三十一文字で作ることだけ。初めの五・七・五を「上の句」、後ろの七・七を「下の句」という。テーマは自由で、風景に感動したことや恋愛のことなど、さまざまなことが詠まれました。

 

貴族によって和歌が発展

 和歌は奈良時代に日本の詩の形として完成していました。780年頃に大伴家持によってまとめられた歌集『万葉集』には、天皇から柿本人麿などの下級役人、さらに農民の歌まで、約4500首の和歌が収められています。平安時代になると、和歌は貴族のたしなみとして発展します。

 

定家が考える優れた和歌とは

①心を込めて詠むこと
②ひとつ一つの言葉に、良い悪いはない
③言葉と言葉のつながりや流れにより、言葉を選ぶ
④昔の和歌をお手本にする
⑤心がなく言葉の上手な歌よりも、心があって言葉が下手な歌のほうがまし

 

こぬひとを・・・・・五(初句)上の句
まつほのうらの・・・七(二句)
ゆふなぎに・・・・・五(三句)

やくやもしほの・・・七(四句)下の句
みもこがれつつ・・・七(結句)

 

美しい言葉、独特なリズムに加えて、昔の人の暮らしや思いを知ることは心を豊かにします。

 

西東社百人一首大辞典引用)

 

 

 

 

 

 

『源氏物語』 世界最古の小説を読んでみよう

 

源氏物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

源氏物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

 

千年以上も読み継がれてきた小説

 世界最古の小説『源氏物語』。この歴史的傑作を書いたのが紫式部です。しかも千年以上前に書かれた『源氏物語』は、世界中の文学者からも高く評価されています。
 平安時代に誕生して以来、千年以上も読み継がれてきたなんて、何だかロマンを感じてしまいますね。
 オックスフォード大学ケンブリッジ大学歴史学者が選出した「この千年間で偉大な業績を残した歴史上の30人」にもナポレオンやダヴィンチ、エジソンといったそうそうたる面々のなか、ただ一人選ばれた日本人、それが紫式部でした。
 なぜ、紫式部によるこの作品が国の内外を問わず読み継がれているのか、回を分けて探ってみます。

世界30か国以上で翻訳される

 紫式部の手によって『源氏物語』が書きはじめられたのは1001年(長保3年)頃のこと。そこから幾年もの歳月をかけて完成したのは、全54帖、登場人物400名以上、物語上で流れる月日は70余年という、一大長編小説でした。原稿用紙1,800枚にも相当する量です。長いあいだ国内だけで読み継がれてきましたが、1925年にアーサー・ウェイリーによって『The Tale of Genji 』として英訳され、イギリス、アメリカで発表されました。ニューヨークタイムズやロンドンタイムズでも絶賛され、以来『源氏物語』の翻訳は世界30~40か国で出版されています。

 

日本オリジナルの文化

 『源氏物語』が海外で人気がある理由は、日本オリジナルの文化を伝えた点にあります。平安時代奈良時代につづき、朝廷を中心とした貴族が世の中を支配していましたが、政治システムや文化が大きく変わった時期でもあったのです。そのきっかけは、遣唐使の廃止。それまで国家モデルとしていた中国の王朝、唐に使者を派遣することをやめたのでした。

 

平和で華やかな時代の物語

 ここから紫式部が活躍する約100年後までの間に、日本の文化が大きく花開きました。キュロットスカートのような装束に身を包み、髪を結っていた貴族の女性たちは、十二単(じゅうにひとえ)をまとい、長い黒髪で美を競うようになります。漢字をくずした「かな文字」が誕生し、恋人たちは漢詩ではなく和歌を贈り合いました。現代の女子高生のような感覚でしょうか。十二単の色目のかさねルールブックもあったほどで、自分の気持ちを和歌にたくしてあらわすことが、なによりの教養とされました。これは国内に大きな戦もなく、外国からの侵略におびえることもない、平和でのんびりとした時代だったからこその文化の発展だったのです。

(JAPAN CLASS引用)

 

 

『縁起のいい客』 吉村 昭 

 

縁起のいい客 (文春文庫 (よ1-44))

縁起のいい客 (文春文庫 (よ1-44))

 

 

「脚」で書く作家

 吉村昭にしては、珍しいエッセイ集ですが、『破獄』や『桜田門外ノ変』『大黒屋光太夫』などの裏話が楽しめます。基本的に歴史小説が多い作家ですが、綿密に取材を重ね「脚」で書いている印象です。
 「大切なのは実地をふむことだと思っている。小説の主人公が道を歩いてゆく時、その日の天候は? 左右どちらに山が見えるのか? 山に紅葉がはじまっているかどうか。そのようなことを確実に知らなけれな小説は書けない」と語っています。

 

三島由紀夫との出会い

 吉村昭学習院大学在学中に、教授からの紹介で三島由紀夫と顔を合わせています。この頃の三島は華やかに文壇に登場し、注目の的になっていた新進作家。やがて、『金閣寺」が文芸誌「新潮」に連載され、格調ある文体と鋭い感性に類い稀な名作になることを予感します。やがて連載が完結し、単行本になりました。これこそ、みじんもゆるぎない小説なのだ、と思ったといっています。。この『金閣寺』ほど、何度も読み返した小説はないと。
 「三島由紀夫という作家は、私にとって『金閣寺』を書いた作家なのである。書き出しから最後の一行まで、簡潔に、そしてこれ以上考えられない的確さで日本の文字をつらねることに終始した傑作である」と述べています。

 

名著多数の吉村昭

 その吉村も前での作品や『漂流』『三陸海岸津波』『戦艦武蔵』『羆嵐』など、すばらしい作品が多数あります。
 最後に、小説家と編集者の関係についてもふれています。「小説家というのは、じつは自分のことがはっきりとわかっていないものなのです。編集者は最初の読者であり、真剣勝負で渡り合っている敵なんです。こうした方がいいのではありませんか、という編集者の指摘で作品はずいぶん良くなるものです」と綴っています。

 

 

 

ヤマザキマリの「男性論」 ECCE HOMO

 

男性論 ECCE HOMO男性論 ECCE HOMO
 

 

古今東西の魅力ある男たち

 古代ローマ、あるいはルネサンス。エネルギッシュな時代には、いつも好奇心あふれる熱き男がいた。ハドリアヌスプリニウスラファエロスティーブ・ジョブズ、安倍公房まで。「テルマエ・ロマエ」のヤマザキマリ古今東西、男たちの魅力を語り尽くす。男性論というよりは人間論でしょう。

 

「変人」は生きにくい世の中

 ヤマザキ流の「ワキワキ・メキメキ」勇士が登場するなか、わが日本からはあまり熱き男は出てこないのか?「変人」はおもしろい。しかしながらいま現在の日本で「変人」は生きにくいのかもしれない。「空気を読む」という、もはや慣用句になった最近の言葉がある。いまほど周囲の人間との同調を求められる時代があったろうか。逆にいえば、「不寛容」が進んでいるともいえそうだ。「自分もハジけずに我慢しているのだから、おまえがハジけるのも許さないぞ」と。

 

本音と建て前の国

 日本は昔から、「本音と建て前の国」と言われ続けている。しかもネットがあることによって、本音と建て前の乖離がますます激しくなっている。表では「空気を読む」ことを求められるあまり、ひじょうに抑圧を感じながら自分を押し殺し、裏の、しかも匿名のネット社会などで「本音」と称して聞くに堪えないひどい言葉をまき散らす。日常では人に対して面と向かって意見を言う勇気のない人が、ネットという顔の見えない発言権を得て、別人格なのかという勢いで憎悪感を発露させるのをみたりすると、おそろしさすら感じると。

 

植民地化をまぬがれた日本

 イタリアがなぜ、コミュニケーションを重要視するかといえば、古代ローマ時代以来の国のあり方に関係がある。他国を侵略し、侵略され、流動の歴史を持つ。対外的な交渉術に関する英知がなければ、つねに劣勢に立たされるという危機感を持っている。いっぽう、日本は歴史的に完全に他国に植民地化された経験を持たない。ペリーが黒船で浦賀にやって来たときは驚いただろうが、ともあれ植民地をまぬがれつづけた、歴史的・地理的特異性が、日本の対外的なコミュニケーション力の低さ、ひいては内向きの志向性の強さを特徴づけてしまったのではないかと、仮説する。

 

平和な国の幼稚な国民

 電車がきちんと時間通りに来ることが当たり前の日本も内向き志向がうんだものか。ぴったりにくる電車しか知らなければ、5分遅れることがたまらなく許せない感覚に陥るのが、人間というもの。
 安土桃山時代の日本に来訪したイエズス会の宣教師は、各地を巡察したのち、日本についてこう書き記した。「この国の人たちは、心が清らかで親切でかわいらしい。だけど幼稚だ」と。いまから450年も前から変わっていないのだろうか。平和な国だ。