きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『蟹工船』 小林多喜二

 

あらすじ

  海軍の保護のもと、オホーツク海のロシア領海で密漁する蟹工船は、乗員たちに過酷な労働を強いて暴利を貪っていた。” 国策 ” の名によってすべての人権を剥奪された未組織労働者のストライキに踏み切るが、船を所有する会社は海軍の力を借りてこれを鎮圧。最初のストライキは失敗に終わるも、乗員たちは次の計画を練るのだった。帝国主義日本の一断面を抉る『蟹工船』。29歳の若さで虐殺された著者の、日本プロレタリア文学を代表する名作です。

 

資本主義を批判

 プロレタリア文学とは、1917年のロシア革命の影響を受けて生まれた社会主義の文学。資本主義社会を批判し、労働者や農民の解放をめざした。昭和初期に絶頂を迎えるも、激しい弾圧を受け崩壊する。
 資本家は利益を得るため、労働者を酷使し、反抗しようとすると政府と結託して弾圧する。こうした資本家の搾取と労働者の闘争を、志賀直哉を見習った徹底的なリアリズムで描写したことで注目を集める作品となった。同作の発表で多喜二はプロレタリア文学の旗手と目されるようになる。
 若い世代における、非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、2008年には『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーになった。

 

国家公認のブラック企業

 『蟹工船』は北海道のオホーツク海上に浮かぶ無法地帯でした。あくまでも「工船」であって航船ではないため、「航海法」が及ばない。そして漁獲から加工までをすべて海上で行っていたので、当時の労働基準法にあたる「工場法」の適用外でした。
 一日20時間労働はあたりまえ。風呂は月2回のみ。『蟹工船』は、おもに日本軍向けの缶詰を製造していたので脱法行為が許された「国家公認のブラック企業」だったのです。
 多喜二は蟹工船とその漁をめぐる事件につき、綿密な調査を行っていた。蟹工船の実地調査を行い、また漁夫とも直接会って詳しい実態の聞き取りも行っています。

 

銀行に勤めるかたわら『蟹工船』を発表

 ところで多喜二は、学校を卒業して、北海道拓殖銀行小樽支店に就職します。『蟹工船」の作者が、銀行員だったというのは皮肉です。銀行や金融は資本主義の最前線であり、資本主義精神そのものです。銀行に勤めるかたわら、1929年(昭和4年)夏に「戦旗」という雑誌に『蟹工船』を発表します。この「戦旗」とはプロレタリア文化運動組織の機関紙です。同年秋に、勤務する拓殖銀行を解雇されました。1931年には共産党員になり、治安維持法等に反する非合法の生活に入ります。共産党員となることで、多喜二の存在自体が、当時の日本の法律に抵触するようになってしまったのでした。
 

 

拷問による死

 著者の小林多喜二は、共産主義者を取り締まる特高警察による拷問が原因で亡くなっています。共産党員としての生活を送っていた1933年2月20日、特高警察のスパイの計略により、多喜二は逮捕されてしまいます。そして取り調べの際、寒中で裸にされ、特高からの暴行を受けたことにより、命をおとします。
 なぜ、逮捕や拷問に至ったのか。多喜二が共産党員であり、スパイ容疑をかけられ、一説には『蟹工船』の前年に発表した小説において「特高警察の拷問シーン」を描写したことにより目をつけられたとも言われています。昭和8年の事件であり、享年29歳でした。

 

 

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Wikipedia

小林多喜二(こばやしたきじ)
1903年明治36年秋田県大館市出身。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)。卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務。文豪への憧れを抱き、特に志賀直哉に傾倒してゆく。

 

蟹工船・党生活者』
『マンガ蟹工船
『母 小林多喜二の母の物語』三浦綾子

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

 
マンガ蟹工船

マンガ蟹工船

 
母 (角川文庫)

母 (角川文庫)

 

 

人生うまくいかない時は 美輪明宏

 

悪い時期は、
知の財産を増やしなさい

 

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 NHKあさイチ』へゲスト出演した美輪明宏。視聴者から寄せられた相談への回答が、素晴らしいと話題になったことがあります。
 相談は、「人生うまくいかないなと思った時、どう切り換えればいいですか。悪いことしか思い浮かんでこなくなります。」というものでした。

 

闇がなければ光もない

 人間にはバイオリズムがあり、この世は正と負、光と闇、吉と凶、相反する2つのもので構成されている。闇がなければ光もない。すべてのものの良し悪しは、2つが重なってはじめて成り立っている。ただみんな、幸せとか明るいとか、片方だけを望んでしまう。
 だから人間はとても調子の良い時があるけど「最高潮に良いもの」を手に入れないほうがいい、と美輪さんはいう。

 

負の先払い

 功績があり、最高に素晴らしい賞をもらう。例えば、ハリウッドスターならアカデミー賞とか。アカデミー賞をいくつも貰うと、ろくな死に方をしないと向こうでは言われている。日本でもいくつも賞を貰ったり、あまりにもすごいものを貰うと、病気やけがを負ったり、亡くなったりする。身分不相応な大邸宅を建てるような人にも同じことが起こる。だから、昔の人は「負の先払い」と言って、新築の際の棟上げ式の時に、紅白のお餅をまいたり、近所の人にお酒を振る舞ったり、五円玉をまいたりして負の先払いをした。

 

美輪さんの回答

 だから悪い時期、どの扉を叩いても開かないような悪い時期は、外へ向かおうとしてもドアが開かない。ではどうすればいいか? それは「内に向かえ」、そういう指令なのです。内へ向かうというのは「棚卸の時期だぞ、バーゲンセールの時期ではないぞ」ということ。だから「品を揃えなさい」。 美・知識・教養・技術、そういうもの全て、自分の財産を増やしなさい。今はそういう時期。
 それでセールの時期が来ると、あれ?っと思うくらい、いろんなところの突破口が開けていくんです。そういう時期に貯めていたものをすべてパアーっと出すと、人生が上手く回り出す。回り出したら「最高」まで行かないうちに、二番、三番手あたりで引いておいたほうが無事でいられる。あっちがダメならこっちがあるさ、こっちがダメならあっちがあるさ。何か突破口はあるんですよ。

 

 

ああ正負の法則

ああ正負の法則

 

 

 

 

 

 

 

『学問のすすめ』 福沢諭吉

 

福沢諭吉 Q&A です

 Q1. 英語の「スピーチ」を「演説」と翻訳して、はじめて日本語で紹介した諭吉。演説を広めようと、自分も練習しました。諭吉の練習方法とは?

① お芝居に出演して、長いセリフをしゃべった
② 橋の下で、声を張り上げた
③ 民謡をならって、大声でうたった

 

Q2. 諭吉は大坂の適塾に入門した。そこの緒方洪庵先生は、オランダ医学も教える医者だったのに、なぜ諭吉は医者にならなかったのか?

① 医学はつまらなかったから
② 血を見るのがこわいから
③ 医者は儲からないから

 

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オランダ語と医学を学びます

 演説は大勢の人の前で、自分の意見をはっきり言わなければならないので、諭吉自ら大声が出るように、橋の下に舟をつないで声を張り上げて練習しました。そして慶應義塾に三田演説会を開いたのです。演説はその後、全国に広まっていきます。
 また、諭吉は緒方先生にオランダ語とオランダ医学を教わります。でも諭吉は血を見るのが苦手でしたので、解剖などの授業は受けませんでした。のちに使節団でロシアに行ったとき、手術の様子を見学したのですが気を失ってしまいました。

 

封建制度を復習

身分制度
 江戸時代には「士農工商」という身分制度があり、武士の次が農民、その下が職人と商人というように身分の上下が決められていました。諭吉は武士の身分でも、下の位の家に生まれました。明治になって士農工商はなくなり、人々は平等に「平民」と呼ばれるようになります。しかし、武士の「士族」、大名らの「華族」など特別な身分はまだ残っていたのです。

・特権を持つ武士
 武士は刀を持つなど、いろいろな特権を持つ身分とされ、農工商の人々は武士に支配されていました。同じ武士の中でも差別があり、諭吉も子どものころ、位の高い武士の子にいつも威張られて悔しい思いをしていました。諭吉の母は、身分の低い人も差別せずに同じ人間として接していました。

・「藩」から「県」へ
 明治になって「県」が出来るまでは、日本はそれぞれの藩ごとに政治が行われていました。藩の武士をまとめる藩主は、絶対的な力を持っており、命令には必ず従わなければなりません。諭吉のように大坂や江戸に出るのにも藩の許可が必要でした。

職業選択の自由はありません
 この時代は、職業を自由に選ぶことは出来ませんでした。農民に生まれた子は農民にしかなれず、商人や職人になりたくても許されなかった。諭吉の父親は学問好きで努力家でしたが偉くなることは出来なかったのです。

 

世界を知る福沢諭吉

 開国をして外国と取引きするようになった幕府は、海外の様子を知るために外国に使節団を送ります。諭吉もメンバーに加わり海外を旅しました。
 1860年に咸臨丸でアメリカに向かいます。サンフランシスコに着いたときは、ちょんまげに着物姿で腰に刀をさした日本人は珍しがられ、歓迎されました。夜はどの家にもガス灯がついて昼間のように明るいのです。まだ日本では夜の明かりは提灯や行燈だったんですね。男の人と女の人が手をつないでダンスをしたり、大統領の子どもが大統領になるのではなく、4年ごとに選挙で選ばれることにも感心しました。
 1862年には、フランスやイギリス、オランダ、ドイツ、ロシアなどヨーロッパもまわりました。イギリスでは政府のしくみに驚き、「議会政治」を知ります。日本にはまだない鉄道にも乗りました。

 

学問をしたか、しないかの違い

 そんな封建制度のもとに暮らし、海外の様子を見てきた諭吉は、1872年に『学問のすすめ』という本を出版し、明治の大ベストセラーとなりました。
 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり」という書き出しで始まる文章。人間はだれでも平等でなければならない。地位や家がらや、お金のあるなしで差別されてはならない。人間としての区別があるとするならば、それは学問をしたか、しないかの違いであるから、誰でも学問をするよう努力しようと。そして、自由や平等とは、自分の好き勝手に振る舞うのではなく、人のため、自分を高めるためのものである、というのです。

 

賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによりて、出来るものなり
(賢い人間とそうでない人との差は、学ぶか学ばないかで決まる)

 

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

 

 

 

芥川龍之介 『蜘蛛の糸』

 

人間の本質を知りたければ 
芥川龍之介です

  

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

 

 

ポール・ケーラスの『因果の小車』が材源

 地獄に落ちた男が、やっとのことでつかんだ一条の救いの糸。ところが自分だけが助かりたいというエゴイズムのために、またもや地獄に落ちてしまう ...
 「天国と地獄」を示す、この話の材源はドイツ生まれのアメリカ人作家で宗教研究家のポール・ケーラスが1894年に書いた『カルマ』の日本語訳『因果の小車』であることが定説とされています。『蜘蛛の糸』は学校の教科書にも載っていて、教材としても使われる、児童向けの短編小説です。

 

蜘蛛の糸』の冒頭と最後の一文

 或る日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匀が、絶間なくあたりへ溢れております。極楽は丁度朝なのでございましょう。...

... そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匀が、絶間なくあたりへ溢れております。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。

 

お釈迦様は悪党にチャンスを与えます

 ある日、お釈迦様が散歩中に、ふと蓮池の底を覗いてみました。池の底は極楽とは正反対の血の池地獄で、たくさんの罪人たちが溺れそうな様子で、もがき苦しんでいました。その罪人の中に、お釈迦様の見知った顔がありました。その罪人はカンダタ犍陀多)でした。カンダタは数々の悪事を働いてきましたので地獄に落ちることは当然のことでしたが、お釈迦様はカンダタが以前、ひとつだけ善行を成したことを思い出します。
 それは蜘蛛を踏みかけた際に、すかさず止めて助けたことでした。命の尊さを知るカンダタは根っからの悪党ではないと察したお釈迦様は、そんなカンダタに極楽へと上るチャンスを与えることにしました。

 

自分だけが助かりたいというエゴイズム

 蜘蛛の命をとらなかったことに免じて、天上から極楽へと続く1本の蜘蛛の糸カンダタのいる地獄へと静かに垂らしたのでした。
 自分の上に垂れてきた蜘蛛の糸を見つけたカンダタは、喜んでそれを登り始めます。しかし地獄の底から極楽まで這い上がることは容易ではなく、疲れて一休みしたところで、ふと下を見下ろしました。すると下の方では、蜘蛛の糸を見つけた他の罪人たちが、カンダタの後を追うように無数に登ってくるのが見えました。
 か細い一本の蜘蛛の糸が、あの何百、何千とない罪人の重さに耐えられるはずがないと驚いたカンダタは叫びます。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。下りろ。下りろ。」と叫びます。
すると、その瞬間に蜘蛛の糸はプツリと切れ、カンダタはもとの地獄へと真っ逆さまに落ちていきました。その様子を天上からみていたお釈迦様は、悲しそうな表情を浮かべて、蓮の池から立ち去りました。 

 

懲りない人間

 数々の悪事を働いてきた悪党に、一つの善行でチャンスを与えるのもどうかと思うのですが、そのチャンスに、自分だけ助かればいいという気持ちで、他の罪人たちを見捨てようとし、その結果、もとの地獄へ落ちてしまったということは人間の根本的な部分というものはそう簡単にはかわらないということをいいたいのでしょうか。
 また、お釈迦様が大勢いるところに、一本の蜘蛛の糸垂らしたら争いが起こることも予想できます。ということはお釈迦様は、最初から争いが起こるのがわかっていて蜘蛛の糸を垂らしたということになります。実はカンダタの改心を試されたということになるのでしょう。自分は救われる資格はないと反省するべきだと。

 

人は生まれながらにして罪人

 ところで、「お釈迦様がその池のふちで蓮の葉の間から、ふと下の容子をご覧になりました」というのは、人の日常でも「神様が見ておられる」という言葉はよく言うもの。つまり本作でも、常に「自分の生き方というものは神様に見られている」ということですね。
 そして、「ふと蓮池の底を覗いてみました。池の底は極楽とは正反対の血の池地獄で、たくさんの罪人たちが溺れそうな様子で、もがき苦しんでいました。」は、「人は生まれながらにして罪人」なのでしょう。それでも、人は善行もする、その善の行いを貴重なものとして罪をも取り除くことができると教えています。「人にとって善行がいかに大事か」ということ。

 

人間の本質を知りたければ芥川龍之介

 本作の冒頭部分にある「極楽は丁度朝なのでございましょう」と、最後の「極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう」については何か意味がありそうです。
 下界であり地獄である地上(人間界)では、蜘蛛の糸、救いの糸を巡った壮絶なバトルが繰り返され、多くの人の言動や心の経過により幾日も経ったかのようだけれど、御釈迦様がいる天上界では「朝から昼まで」というごく短い時間の形容がなされています。それは「軽いもの」「大したことのない」という意味合いもあるのでしょうか。つまり、人には重大、甚大なことが、天上界ではべつに大した出来ごとではない、のでしょう。遠藤周作の『沈黙』にも通じそうです。
 それにしても深いです。読みかたはひとつではありません。人間の本質を知りたければ、芥川龍之介です。

 

 

 

 

 

 

 

いしぶみ  広島ニ中一年生 全滅の記録

 

碑に刻まれた旧制・広島二中の一年生321人
幼くしてこの世を去った彼らが、最期に残した言葉とは、何だったのだろう

 

 

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The City of Hiroshima

 

いしぶみ―広島二中一年生全滅の記録 (ポプラポケット文庫)

いしぶみ―広島二中一年生全滅の記録 (ポプラポケット文庫)

 

 

 

彼らの未来を一瞬にして奪った原子爆弾

 昭和20年8月6日は、朝から暑い夏の日でした。この日、広島二中の一年生は、建物解体作業のため、朝早くから本川の土手に集まっていました。端から、1、2、3、4、... と点呼を終えたそのときでした。500メートル先の上空で爆発した原子爆弾が彼らの未来を一瞬にして奪ったのです。少年たちは元気だった最後の瞬間、落ちてくる原子爆弾を見つめていました。あの日、少年たちに何が起こったのでしょうか ...

 

広島には空襲がない

 広島が空襲されないのは、明治時代からたくさん広島の人が、ハワイやカリフォルニアなど、アメリカに移民しているせいだ、という人がいました。また、そのうわさを本気で信じている人がいました。

 広島には空襲がないというので、広島県立広島第二中学校には、東京や大阪から転校してくる生徒もたくさんいました。一学級の大橋正和くんは、大阪から7月19日に転校してきました。またこの年の4月、広島二中の一年生は、4人にひとりというむずかしい試験を受けて、広島県内の各地から入学してきました。

 

最後の別れに

 チベッツ機長が母の名をつけたアメリカのB29爆撃機エノラ=ゲイ号は、人類の上にはじめて落とす原子爆弾をつんで、広島上空への道を飛んでいました。

 日本の、広島のお母さんたちは、これが最後の別れになるとも知らずに、わが子を送りだしておりました。東京から疎開してきた舩倉浩太郎くんは、午前7時に家を出かけました。六学級の中川雅司くんは、ぐずぐずしていて出かけようとしませんでした。心配したお母さんにせかされて、ようやく家を出かけたのですが、すぐに引き返してきて、水道の水をおいしそうに飲むと、とんで出ました。これがお母さんが、生きている中川くんを見た最後でした。

 

空地をつくるために集まった生徒たち

 4人の先生と321人の一年生が集まる場所は、広島市の中心、中島新町本川土手でした。いまの平和公園広島市公会堂の前の道路です。作業というのは、家をこわしたあとのあとかたずけでした。爆撃機が爆弾を落とすという想定をたてて、火事が燃えひろがるのを防ぐのと、人が逃げるところをつくろうと、市内のところどころに空地をつくる計画でした。暑くならないうちに作業にかかるというので、集合時刻は8時10分ごろでした。

 

爆発の瞬間

 雲ひとつない青い空にキラリとひかるB29爆撃機を見つけた生徒たちは、口々に「敵機、敵機」とさけびました。警報も出ず、たった3機なら、またいつものように広島のようすを見にきた偵察飛行だぐらいに、みんな考えていました。

 先頭のB29から、直径70cm、長さ3mの原子爆弾を投下したのが、午前8時15分17秒、つづいてうしろの飛行機が、爆発をたしかめるために無線機にパラシュートをつけて落としたのです。321人の一年生は、元気だった最後の43秒間を、しっかりと、落ちてくる原子爆弾を見つめて記憶していたのです。

 一瞬、直径が100m、表面の温度が9000度もある太陽のような火の球ができ、そこからオレンジ色の閃光と熱線、そのあとを強い爆風が追いかけました。間近にいた広島二中の一年生は、閃光に目を焼かれ、服は燃えだし、そして小さなからだは地面にたたきつけられ、吹きとばされたのでした。

 

最期だと思って君が代をうたう

 ご遺族の手紙などから、三分の一の生徒が、原子爆弾が爆発した一瞬に亡くなったと思われます。

 三戸一則くん。「川ではおおぜいと一緒に流れてきた木につかまって浮いていました。岸から火が吹きつけるたびに、水の中にもぐった。もう最期だと思って、”君が代”をうたいました。

 大門賢治くんは、川下に流され、そのうちに力つきて沈み、遺体は1キロ下流の住吉橋のところにあがりました。遺体をたずねあてたお母さんが、途中いろいろ友達に話を聞いて想像されたわが子の最期のもようです。「賢治はつかまっている木が燃えだしたので、力つきて沈んだようです。”海ゆかば”を合唱したあと、天皇陛下万歳を唱えたと申します」

 

家に帰ろうよ

 一学級の西村正照くん。「頭をならべて、中学生が身動きもしないでよこたわっていました。正ちゃん、正ちゃん、と大声で呼び、ひとりひとりのぞきこんで見つけました」

前身が焼けていました。
お母さんが来たのよ。わかる ...  ウン
お兄ちゃんもいるのよ ...  ウン
家に帰ろうよ ...  ウン、と口の中で返事をしました。
兄の背にのせ、うしろからからだをおさえて家に帰りました。
材木をはこんでいる作業の夢でも見ているのでしょうか、ワッショイワッショイ、とつぶやき、翌朝、口の中でかすかに
海ゆかば、水づかばね ...  
と、つぶやきながら、12歳の生命は散りました。
混乱のさなかで、わが家の庭でだびにふしました。

 

原子爆弾であることを世界に発表

 広島壊滅の一夜があけました。大本営は、7日になってはじめて新型爆弾の攻撃で、広島市が「かなりの被害」をうけたと発表し、一方、アメリカのトルーマン大統領は、これが原子爆弾であることを世界に発表したのです。

 

お母ちゃんに会えたからいいよ

 二学級の穴光隆司くん。「当時は一般にけが人に水をやってはいけない。といっておりましたが、あれだけの重傷ではとても助からないと思い、水はほしがるだけやりました」。8日夜、広島県東部の福山市が大空襲をうけているさなか、燈火管制の燈のもとで、お母さん、お母さん、とさけびながら、とうとう13歳の若さで死にました。

 五学級の山下明治くんは、3日目の9日明け方、お母さんにみとられて亡くなりました。「明治は、亡くなるとき、弟、妹のひとりひとりに別れの言葉をいい、わたしが鹿児島のおじさんに、なんといいましょうか、と申しましたら、りっぱに、と申しました。死期がせまり、わたしも思わず、お母ちゃんもいっしょに行くからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました。そのときは無我夢中でしたが、あとから考えますと、なんとまあ、意味の深い言葉でしょうか。お母ちゃんに会えたからいいよ、とも申しました」

 

腹の底より泣き叫びたき

 本川土手に整列した広島二中一年生、321人と4人の先生は、こうしてひとり残らず全滅しました。平和公園本川土手にある、碑のうらには、いつもかわらぬ本川の流れを見つめて、全滅した広島二中の子どもたちの名前がきざまれています。

烈し日の真上にありて八月は
腹の底より泣き叫びたき 
 
  (山下明治くんのお母さんの歌)

 

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『舟を編む』 三浦しをん

 

辞書は、言葉の海を渡る舟
海を渡るにふさわしい舟を編む

 

あらすじ

 出版社のさえない営業部員馬締光也(まじめみつや)は、「右」を定義せよという質問に答え、言葉への鋭いセンスを買われて辞書編集部に引き抜かれた。新しい辞書『大渡海(だいとかい)』の完成に向け、彼と編集部の面々の長い長い旅が始まる。定年まじかのベテラン編集者荒木、日本語研究に人生を捧げる老学者松本、辞書作りに情熱を持ち始める荒木の部下西岡など同僚たち、そして馬締がついに出会った運命の女性林香具矢。不器用な人々の思いが胸を打つ、本屋大賞受賞作です。

 

「右」を説明できますか

 馬締光也にテストした「右」の定義、あなたならどう説明しますか。馬締の答えはこうでした。「方向としての『右』ですか、思想としての『右』ですか」「前者だ」「そうですね」...「『ペンや箸を使う手のほう』と言うと、左利きのひとを無視するし、『体を北に向けたとき、東にあるほう』とでも説明するのが、無難ではないでしょうか」。また、学者の松本は、10という数字の、0の方が「右」と言っています。
 基本的に左右の定義については、人間の取り決めによってのみ区別できるもの。人間にとって、上下は重力の方向を、前後は自己の進行方向を示すというようにはっきりと異なる意味を持つのに対して、左右にはそのような判然とした価値の差が存在しないために混乱が生じやすいという。左右という概念・単語を持たない民族・言語もあるらしいのです。

 

「恋」の定義

 ある満月の夜、馬締の住む下宿で猫のトラをきっかけに大家タケの孫で板前修業中の、林香具矢と出会い一目惚れしてしまう。のちに、馬締は「恋文」を書き上げ、西岡に意見を求めるが、ひとめ見るなり唖然とする。それは毛筆による行書体で書かれていた。「戦国武将じゃあるまいし」と呆れる西岡。
 馬締が語釈を任された「こい【恋】」は、「ある人を好きになってしまい、寝ても覚めてもその人が頭から離れず、他のことが手につかなくなり、身悶えしたくなるような心の状態。/成就すれば、天にものぼる気持ちになる。」となる。

 

そして12年後

 社内で『大渡海』の出版中止が取り沙汰されたり、予算縮小のために西岡が人事異動させられたりと暗雲が漂いはじめるが、何とか作業は継続された。
 それから12年後。馬締と香具矢は入籍。ふたりを結びつけたタケとトラは他界していた。馬締が主任となった編集部には、妻を喪った荒木が嘱託として戻っていた。いよいよ出版を翌年に控えて忙しくなる編集部にファッション誌の編集部から岸辺みどりが異動してくる。多くの大学院生をアルバイトに雇い入れ、連日詰めの校正作業に追われていた。馬締と松本はファーストフードで女子高生たちの会話にも耳を澄ませるなど用例採集を続けていた。
*用例採集とは国語辞典を編纂するにあたり、辞典に収録する言葉を探し出す作業をいいます。

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用例採集カード

 

『大渡海』の原稿が完成

 雪の降る日、版の完成を待たずに、松本が他界。そして馬締と荒木の最終チェックが完了し、『大渡海』の原稿は完成。疲労困憊だったアルバイトの院生たちも大事業を為し得た悦びにわきかえる。
 出版披露パーティが協力者たちを招いて催されるが、馬締の表情は晴れない。最大の功労者である松本は遺影となって宴席の片隅にいた。荒木が一通の封書を差し出す。それは死の間際の松本が荒木に宛てた手紙だった。そこには荒木と馬締への感謝の言葉、仕事を完結できなかった無念さ、辞書の編纂という仕事に携われたことに対する喜びが書かれていた。そして、翌日からは『大渡海』の改定作業が始まる。

 

時代とともに変遷し続ける言葉

 小学館の『日本国語大辞典』は全20巻という大部の辞書。編集作業に10年以上の年月をかけ、約45万項目を収録。協力者は3,000人に及ぶといいます。
 「辞書づくりには、莫大な金と膨大な時間がかかりますからね。いつの時代もみんな手っ取り早く儲けられるもののほうに飛びつくもんです」という西岡の台詞。時代とともに変遷し続ける言葉を「辞書」として編纂することの難しさと、地道な努力の大切さを教えてくれます。学生時代からお世話になっている辞書ですが、いまではスマホでの検索や電子辞書が台頭。そんな中、辞書ってこんなふうにつくられているのか、という思いで読了。そんな辞書に愛おしささえ感じてしまいます。

 

舟を編む (光文社文庫)

舟を編む (光文社文庫)

 
舟を編む

舟を編む

 
舟を編む 上巻 (KCx)

舟を編む 上巻 (KCx)

 

 

 

『キュリー夫人伝』 ラジウムを発見した女性科学者

 

今世紀の原子力・核の時代を切り開き、パリ大学初の女性教授に就任したキュリー夫人

 

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Wikipedia

マリア・スクウォドフスカ=キュリー (1867-1934)
現在のポーランド出身の物理学者・化学者で、フランス語名はマリ・キュリー。キュリー夫人の名で有名ですね。放射線の研究で 1903年ノーベル物理学賞、1911年にはノーベル化学賞を受賞。今世紀の原子力・核の時代を開き、パリ大学初の女性教授職に就任しました。放射能という用語は彼女の発案によります。

 

あこがれのパリへ

 ポーランドワルシャワで生まれますが、当時はロシアの支配下にありました。マリアは子どもの頃から優秀でしたが、ロシアでは女性は大学に入学することを許されていません。しかし、先にパリに行っていた姉の誘いで、1891年にパリ大学に入学することができました。物理の教師をしていた父親の影響で、人々の役に立つよう科学の勉強を始めます。この頃からフランス風に「マリー」という名前を使っています。

 

ピエールとの出会い

 マリーが研究上の問題で困っていた時に、ピエール・キュリーを紹介されます。その後、ふたりは結婚し、1897年に娘のイレーヌが生まれます。ふたりは、放射性物質の研究を共同で進め、1898年に新しい放射性元素を特定することができました。まず、ポロニウムが発見され、次いで、ラジウムが発見されます。ふたりはこの功績により、一緒にノーベル物理賞を受賞しました。
 余談ですが、ポーランドが生み出した偉人に、キュリー夫人のほか、コペルニクスショパンがいます。「ポロニウム」という名称も、ショパンの「ポロネーズ」も祖国ポーランドにちなんでつけられました。
 この時期、ふたりは精力的にたくさんの論文を書いており、その中にはラジウム照射により腫瘍を殺すことができるという、現在のガンの放射線治療につながる論文などもあります。1904年には次女のエーヴも生まれます。

 

パリ大学初の女性教授に

 それまで順風満帆な研究生活でしたが、夫のピエールが交通事故で急死してしまいます。マリーは、夫ピエールが就いていた大学の後任を要請され、承諾しました。小さな子どもの世話をしながら、更に精力的な研究を続け、1911年に二度目のノーベル賞(化学賞)を受賞します。彼女はその後も放射性物質を使った医療に関する研究などを続けました。1918年にポーランドが独立を回復します。1921年にはアメリカが彼女に研究材料を提供するとともにワシントンへ招待します。

 

放射性物質の危険性

 ポロニウムラジウムを発見した、マリ・キュリー(キュリー夫人)は、亡くなる直前まで研究を続けましたが、自らも長期間に渡って被爆していました。残した研究資料は、100年以上経った現在でも放射線を出し続けているため、容易に手にすることはできない状態になっているそうです。ノーベル賞を二度受賞していますが、夫妻は放射性物質の危険性については理解しておらず、自宅の研究室にはトリウムやウランなどが裸のままで置かれていたそうです。これらの放射性物質は暗いところでぼんやりと発光するため、キュリー夫人の手記には「研究の楽しみのひとつは、夜中に研究室に入ることでした。試料の詰まった試験官が淡い妖精の光のように美しく輝いていました」と書かれています。キュリー夫人再生不良性貧血によって、1934年に66歳で亡くなっています。

 

娘のイレーヌもノーベル賞を受賞

 マリーの研究は、長女のイレーヌ・キュリーとその夫に受け継がれました。このふたりも放射能の研究を続け、のちに放射性元素を人工的につくり出すことに成功し、1935年にノーベル化学賞を受賞しています。もう一人の娘のエーヴは、有名な『キュリー夫人』を書いています。
 「知の巨人」立花隆はこの本を小学校4年生のときに読み、文学と共に科学に興味を持つようになったのもこの本のおかげだろうと述べています。
 

キュリー夫人伝

キュリー夫人伝