きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『走ることについて語るときに僕の語ること』 村上春樹

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 


 

初の自伝

 村上春樹が、はじめて自分自身について真正面から綴った書き下ろしの自伝です。1982年秋、専業作家としての生活を開始したとき、彼は心を決めて路上を走り始めた。それ以来、世界各地でフルマラソンや100キロマラソン、トライアストンレースを休むことなく走り続けてきた。

 

そうだ小説を書いてみよう

 小説を書こうと思い立った日時はピンポイントで特定できる。1978年4月1日の午後1時半前後だ。その日、神宮球場の外野席で一人でビールを飲みながら野球を観戦してた。僕は当時からかなり熱心なヤクルトスワローズのファンだった。空には雲ひとつなく、風は暖かく、文句のつけようのない素敵な春の一日だった。
 僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだった。晴れわたった空と、緑色をとり戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれをたしかに受け取ったのだ。

 

文芸誌の新人賞に応募

 秋には作品を書き終えた。できあがった作品をどうすればいいのかよくわからないまま、勢いのようなもので文芸誌の新人賞に応募してみた。現在『風の歌を聴け』というタイトルで出版されている作品だ。その秋には、万年負け犬だったヤクルトスワローズがリーグ優勝して日本シリーズに進出し、阪急ブレーブスを破って日本一になった。僕にとっては二十代最後の秋だった。

 

体調の維持に

 そのあと、店を経営しながら『1973年のピンボール』という二作目のそれほど長くない長編小説を書き上げる。ところで、専業小説家になったばかりの僕がまず直面した深刻な問題は、体調の維持だった。本格的に日々走るようになったのは、『羊をめぐる冒険』を書き上げたあと、少ししてからだと思う。走ることにはいくつかの大きな利点があった。まずだいいちに仲間や相手を必要としない。特別な道具や装備も不要だ。特別な場所まで足を運ばなくてもいい。だから僕はスポーツ種目として、ほとんど迷うことなく、あるいは選択の余地なくというべきか、ランニングを選択した。

 

「まじめに走る」ことの目安

 週に六日、一日に10キロ走る。それで週に60キロ、一カ月におおよそ260キロという数字が僕にとっては「まじめに走る」ことのいちおうの目安になった。その後、ニューヨークシティマラソンを走り、またギリシャアテネからマラソンの発祥地であるマラトンまでを走る。ほかにもホノルルマラソンサロマ湖100キロマラソン、ボストンマラソンなど多数のレースに出場してきた。

 

僕の墓碑銘

 もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。

村上春樹
作家(そしてランナー)
1949-20**
少なくとも最後まで歩かなかった