宇多田ヒカル 文学のような作品
私の作詞は作曲から始まる
幼い頃小説家になることを夢見ていた
宇多田ヒカルの時を超える言葉
一貫しているのは、作品の世界に作者の自我の痕跡を残さないような作風と、アルバムごとに日本語とより真摯に向き合ってきたこと
日本語表現の性質については
萩原朔太郎『詩の原理』で語り尽くされている
人生において避けられない出来事があるのと同じように、どんな歌を書くかは私には選べない。その時に書くしかないことを詞にして、歌うことで、私の作詞は完了する
Automatic (1998)
七回目のベルで
受話器を取った君
名前を言わなくても
声ですぐ分かってくれる
鳴ってて、あれ出てくれないかも、そろそろ切ろうかなと思う7回目で、取ってくれた、あれヤバい、もうムリと思ったのに出たからシャキッとしなきゃ、ということが7回で変わる気がした。こわい、出て欲しくない部分もある ... 15歳のときの詩
First Love (1999)
最後のキスは
タバコの flavor がした
ニガくてせつない香り
明日の今頃には
あなたはどこにいるんだろう
誰を想ってるんだろう
もとは小説を書きたかった。本が好きだった。本の世界にいたかった、本の世界で生きていた。子どもの頃って、外に自由がなくて、子どものころ思いどおりになるものがなくて、どうにもならんみたいな。でも本を読んでいれば、そこで何かを感じたときに、誰かもこういう気持ちをしてるんだ、というのが分かるということで、まず書いた人とつながった気がして。たくさんの人が同じ本を同じ文章を読んで、そこに同じ想いを感じると、なんだみんな同じじゃん、ということに救われる ... 作者とつながる
花束を君に(2016)
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く
ただ楽しいことばかりだったら
愛なんて知らずに済んだのにな
花束を君に贈ろう
言いたいこと 言いたいこと
きっと山ほどあるけど
神様しか知らないまま
今日は贈ろう 涙色の花束を君に
こういう歌はもう書けない。芸術とか創造性をはらんだプロセスのあるものでは基本的に喪失の話じゃないですか。喪失感が大きければ大きいほどそういう作品が生まれやすくなる
道(2016)
私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
一人で歩いたつもりの道でも
始まりはあなただった
It's a lonely road
( フッフッフッ )
But I'm not alone
( フッフッフッ )
そんな気分
( フッフッフッ )に意味はあるのか? 曲によってここは言葉がない、この音がベストだというのがあって、それが言葉じゃなくても伝わる。ずっと言葉をいっぱい歌っているのだから、どこかに言葉がなくなった瞬間にふわっとした変化を感じる。心のスキみたいなものが必要だと思う
真夏の通り雨(2016)
思い出たちがふいに私を
乱暴に掴んで離さない
愛してます 尚も深く
降り止まぬ 真夏の通り雨
止まない通り雨。これは時間の話に戻りますね。だってもしあの瞬間、私が死んじゃったら、私としては降り止まなかった雨になるわけで。自分に次の瞬間がある前提、それがないということです
光(2002)
どんな時だって
たった一人で
運命忘れて
生きてきたのに
突然の光の中、目が覚める
真夜中に
「なにがしあわせかわからないです ...(銀河鉄道の夜) 」という宮沢賢治の書いた言葉が好きです。今の苦しんでる状況もその先の幸せに向かっていれば不幸せではないし、今を今だけで評価できない。悲しそうな出来事があっても憐れむ気持ちもない。もしかしたら、今辛そうだけどその辛さが何年後かにその出来事があったために、今より幸せになっているかもしれない、あれがあってよかったと思うかもしれない。そうでないかもしれない。あくまでも今はその途中なんです
なにがしあわせかわからないです。
ほんとうにどんなつらいことでも、それがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上り下りもみんなほんとうの幸福に近づく一足ずつですから。~ 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
初恋(2018)
もしもあなたに
出会わずにいたら
私はただ生きていたかもしれない
生れてきた意味も知らずに
人は生きていく上で、最終的には他者との繋がりを求めますよね。浅いものから深いものまで。その関係性の築き方には誰しもモデルがあって、それはやっぱり最初の原体験というか、自分を産んでくれた人なり、面倒を見て、育ててくれた人たちとの関係だと思うんです。それがその人の一生の中で、おそらく多くの場合は無意識に作用して、他者との関係性に影響していく。その無意識の影響を紐解いては、「何故なんだろう?」と追求したり、時には受け入れようとしたりする。それが私の歌詞の大体のテーマだと思うんです
07-2079