きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『キャラメル工場から』 もうひとつのプロレタリア文学

 

大江健三郎も認める
現代文学の流れのなかで
最上の短編小説の書き手である
佐多稲子

 

小林多喜二の『蟹工船』と同時期に発表された、佐多稲子の『キャラメル工場から』にも労働者の姿がありのままに描かれている。そこにあるのは「少女たちの集団労働」だ。 

 

f:id:muchacafe:20180519003147j:plain

佐多稲子(さたいねこ)
1904年(明治37年)-1998年(平成10年)。長崎市生まれ。本名は佐多イネ。小説家。出生当時、両親はいずれも学生で十代だったため、戸籍上は複雑な経緯をたどっていた。母親を結核で亡くし、小学校終了前に一家で上京、稲子は神田のキャラメル工場に勤務する。このときの経験がのちに『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、彼女の出世作となる。ほかに『くれなゐ』『樹影』『夏の栞』など。女流文学賞、野間文学賞川端康成文学賞毎日芸術賞読売文学賞などを受賞。1998年、敗血症のため死去。

 

 

大江健三郎も認める近現代の文学者

 大江健三郎の講演集である『「話して考える」と「書いて考える」』に、日本近代・現代の最良の文学者たちと信じる、中野重治の「美しさ」や佐多稲子の「おもい」につい語っている。

 佐多稲子は、もちろん長編小説の秀作を幾つも残していますが、日本近代・現代文学の流れのなかで誰もが認める、最上の短編小説の書き手でありました。今日私が申しあげたことを、たとえば『私の東京地図』や『時に佇つ』の短編連作で読みとっていただければ、それは読む人にとっての新しい幸いともなることだろうと思います。
 さらに、あらためて『夏の栞』を読む方には、この長編の第三部としてまさに優れた短編がしめくくっている

 

 

プロレタリア文学

 以前、小林多喜二の『蟹工船』(1929年)が若い世代を中心にベストセラーになった。船員たちの「厳しい労働条件」を描いた『蟹工船』の世界観が「非正規雇用」や「所得格差」などの「経済不安」に通じるものがあったからだろう。このような「労働者の厳しい現実」を描き「その苦しさからの解放」を訴えた作品は「プロレタリア文学」と呼ばれている。蟹工船と同時期に発表された佐多稲子の『キャラメル工場から』(1928年)は 作品名の「キャラメル工場」から「チャーリーとチョコレート工場」などファンタジーな内容を想像してしまうが、実際には作者が幼少期に体験した「少女たちの集団労働」の現場が描かれている。

 

 

『キャラメル工場から』

時代背景

 大正時代以降は大都市に「資本」そして「工業」が集中するようになり、東京にもたくさんの労働者が流れ込んだ。しかし、このような都市への人口の流入は「貧富の差」を大きく拡大することに。上京した佐多一家もこうした都市への流入者の一家族だった。

 

「一家の窮状」を助けるべく「女工」へ

 大正4年「主人公のひろ子」は尋常小学校5年生の11歳。上京した父親は東京での新しい生活に適応できず自ら仕事を探そうともしない。同居していた父の弟も病気で床についたままだった。母親の内職だけでは暮らしていけず、一家は生活に窮していた。そしてある晩、新聞で「キャラメル工場の求人」を見た父は「ひろ子も一つこれに行ってみるか」と思いつきのように言い出した。父親はひろ子の気持ちなど全く無視して話を進めてしまった。こうしてひろ子は「一家の窮状」を助けるべく「キャラメル工場」へ「女工」として通うことになった。

 

f:id:muchacafe:20190114104005p:plain

 

「少女たちの集団労働」の現場

 ひろ子はまだ薄暗い中、朝ご飯を済ませ急いで仕事へと向かう。工場には「遅刻」がない。工場の門が閉められるのは「朝7時」。少しでも遅れるとその日は否応なしに休まされた。彼女たちの「わずかな日給」から遅刻の分を引くのが面倒だったからだ。
 工場では「すきま風」が遠慮なく吹き込む中で「立ち仕事」が延々と続く。夕方には足が棒のようにつり、体中もすっかり冷え込み「目まい」や「腹痛」を起す子もいた。
 従順に働く女工たちだったが、退勤前にはキャラメルを無断で持ち帰らないように毎日チェックを受けた。「袂(たもと)」・「懐(ふところ)」・「弁当箱」の中を全て調べられた。みんなは自分の番が来るのを「吹きさらし」の中、ずっと待っていた。

 

わずか1ヶ月で工場を辞めることに

 女工たちは「徒歩」で通える所に「働き口」を探すのが普通だった。しかし、ひろ子の父親が選んだ工場は電車で40分もかかる所にあった。実は彼女の日給は電車賃を引くといくらも残らなかったので働いても意味がなかった。
 さらに工場の求人は「13歳以上」と定めてあった。実際は11歳だったひろ子は13歳と偽って働いていたのだった。他の女工たちよりも体も小さく幼いため上手にキャラメルを包むことができない。夕方までにみんなはキャラメルを「5缶」仕上げてもひろ子は「2つ半」が限界だった。やがて工場の賃金は「出来高制」に代わり「2つ半」しか仕上げられないひろ子の賃金は「3分の1」に減らされてしまう。それが原因でひろ子はわずか1ヶ月でキャラメル工場を辞めることになった。

 

郷里の学校の先生からの手紙

 その晩、ひろ子は「もう働きに行かなくてもいいんだ」と思い久しぶりに「安心」して眠りについた。ところが、またもや父親の思いつきで今度は「中華料理屋」に「住み込み」で働かされることに。ある日、小学校時代の先生から手紙がきた。その手紙には次のように書いてあった。
だれかから、なんとか学費をだしてもらうよう工面して― たいしたことでもないのだから、小学校だけは卒業するほうがよかろう
 ひろ子は仕事中唯一自由になれる「便所の中」に隠れて手紙を読んだ。暗い便所の中で何度も読み返しては「涙」を流す。この時は既に「住み込み」で働いていた彼女に「学校に戻る道」はほとんど残されていなかったのです。

 

 

 

キャラメル工場から―他十一篇 (1959年) (角川文庫)

キャラメル工場から―他十一篇 (1959年) (角川文庫)

 
母六夜・おじさんの話 (21世紀版・少年少女日本文学館17)

母六夜・おじさんの話 (21世紀版・少年少女日本文学館17)

 

 

 

 

 

 

 

 07-2571