きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

無名に埋没せよ 渡辺京二

 

『逝きし世の面影』の著者が贈る
目からウロコの人生指南
社会に役立たなくていい

 

 

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渡辺京二(わたなべきょうじ)
 1930年、京都生れ。大連一中、旧制第五高等学校文科を経て、法政大学社会学部卒業。評論家。河合文化教育研究所主任研究員。熊本市在住。著書に『逝きし世の面影』『評伝 宮崎滔天』『北一輝』『アーリイモダンの夢』『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』『近代の呪い』『幻影の明治』『無名の人生』など。

 

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『女子学生、渡辺京二に会いに行く』
 本書は、歴史家・渡辺京二と、津田塾大学三砂ちづるゼミの学生たちによる、奇跡のセッション。子育て、学校教育、自己実現、やりがいのある仕事 ... いまの女子学生たちの様々な悩みに、近代とは何かを探求し続けてきた老歴史家が真摯に答えていく。私たちの社会に固有の生きづらさの起源を解き明かし、存在の原点に立ち返らせる、生きた思想の書。

以下は目次と「無名に埋没せよ」からの抜粋です。
1  子育てが負担なわたしたち
2  学校なんてたいしたところじゃない
3  はみだしものでかまわない
4  故郷がどこかわからない
5  親殺しと居場所さがし
6  やりがいのある仕事につきたい
7  自分の言葉で話すために ー 三人の卒業生
   無名に埋没せよ ー 渡辺京二

 

 

僕は社会に必要とされていない

 この間テレビを見ていたら、就職難でなかなか就職が決まらないという若い青年の話しが取り上げられていました。その青年が、「僕は社会に必要とされていない人間だ」というふうに言うんですね。僕は、この人は何を言うんだろうと、どこからこんな言葉が出てくるんだろうと思いました。これは場合によっては自殺につながりかねない発言ですね。社会に必要とされていないから、僕はもう生きていてもしょうがないと、こういうふうにつながっていく。

 

普遍的な悩み

 どこでそんな考え方を吹き込まれてきたのか。きっと学校で「君たちは社会が必要とするような人間になりなさい」とか、「社会に役立つような人間になりなさい」とか、そういうことを聞いてきたんでしょう。そうでないと、今のような言葉は出てこないんじゃないかと思うんですね。この青年は特殊かというと、そうじゃない。自分が社会に必要とされているかどうか悩み、結局必要とされていない、自分なんかいらない人間だというふうな、そういう落ち込み方は、わりと普遍的にあるのではないかと思うんです。 

 

生きる権利がある

 昔はまったくの一人の個人というのはなくて、ある家族に属している人間がいる。その家族というのも核家族ではない、大家族である。なぜ大家族かというと、家族が経営の単位だからです。農業や職人の仕事をしていく、他人も含んだ大家族です。そういう大家族があって、村や町内という集団がある。こういうふうに一人の人間はまず生きようとする。生きる権利がある。まず自分が生きるということがあって、社会が必要としようがしまいが、そんなことはその個人には何の関係もないはずなんです。

 

どうぞ生き延びてくれ

 人間というのは、自分のエゴイズムを一番最初に確認することから始まります。自分は押しのけてでも生きたい、ほかのやつが死んでも自分は生き残りたい、というのが出発点であります。たとえば明治の作家、島崎藤村の文学のモチーフは、「自分のようなものでも生きたい」というのが基調でした。自分のようなものでも生きていっていいのだと、それが根本なんでございます。人のためとか、社会のためなんて言うのは、次の次に出てくることで、人間というものは、生んでいただいた以上、生まれてきた以上、生き通す責任があるのです。あなた方の親は、あなた方が自分のために一生懸命生きて幸せになってくれれば、それが一番だと思っている。親は自分に尽くしてくれなんて思っておりません。
 望んでいるのは、生き延びてくれと。そこではエゴイズムがありますから、他人の子どもは死んでも自分の子どもは生き延びてくれ、と思っている。ともかくあなた方の親は、おまえ、どうぞ生き延びてくれ、しっかり生きてくれ、できれば幸せになってくれ、と言っているだけでございます。世の中に貢献しろ、なんて言ってはおりません。

 

人間はなんのために存在しているのか

 自分が生きていくということ、これが一番大事で、なぜそうなのかというと、この宇宙、この自然があなた方に生きなさいと命じているんです。わかるかな。
 リルケという詩人がいますが、彼は人間はなんのために存在しているんだろうと考えたのね。人間は一番罪深い存在だという見方も当然一面ではありますが、ごく自然に言って、人間は神様が作ったものじゃない。ビックバンから始まった宇宙の進化が創り出したのが人間という存在である。ではなんのために、この全宇宙は、この世界という全存在は、人間というものを生み出したのであろうか。

 

自分の美しさを誰かに見てほしい

 その時にリルケは世界が美しいからじゃないかと考えたんです。空を見てごらん。山を見てごらん。木を見てごらん。花を見てごらん。こんなに美しいじゃないか。ものが言えない木や石や花やそういったものは、自分の美しさを認めてほしい、誰かに見てほしい、そのために人間を作った、そうリルケは考えたのね。宇宙は、自然という存在は、自分の美しさを誰かに見てもらいたいために人間を作ったんだろうというふうに考えたんだねえ。

 

存在意義のない人間なんて一人もいない

 これは化学的根拠なんか何もない話で、とくに理科系の人は非科学的な哲学だというわけだね。でも哲学でけっこうなんだ。これは哲学なんだから。人間は、この全宇宙、全自然存在、そういうものを含めて、その美しさ、あるいはその崇高さというものに感動する。人間がいなけりゃ、美しく咲いている花も誰も美しいと見るものがいないじゃないか。だから自然が自分自身を認識して感動するために、人間を創り出したんだ。
 そう思ったら、この世の中に存在意義がない人間なんか一人もいないわけ。全人間がこの生命を受けてきて、この宇宙の中で地球に旅人としてごく僅かの間、何十年か滞在する。その間、毎年毎年花は咲いてくれる。そういうふうに毎年毎年花を見る、毎年毎年、ああ、暑かった、ああ、寒かったと言って一年を送る、それだけで人間の存在意義はあるんです。この社会に出て行って、立派な社会貢献をしたりしなくても、ごく平凡な人間として一生を終わって、それで生まれてきたかいは十分あるわけです。

 

無名に埋没せよ

 人間はテレビに出るような人物や国際舞台で活躍するような人間にならなくても、ごく平凡でかまわないんですよ。無名の一生で一つもかまわないんですよ。というよりもそれが基本なんです。この世の中で、テレビや新聞などに名前が出てる人たちの比率をとったら、名前も出ないし、そういうことにあまり関心もないという人間が圧倒的多数なんです。圧倒的多数はだから黙って生きて、黙って死んでいくのです。
 自分を取り巻いている自然を十分に楽しみ、男女の仲を楽しみ、生まれた子どものことを楽しみ、あるいは自分を取り巻いているいくつかの人間とのつきあいを楽しむ。もちろん失望や怒りも感じるだろうけど、しかし自分とは違う他人がいて、そのつきあいの中の楽しさもあった。それだけで十分、それが基本です。無名に埋没せよ、ということです。

 

 

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 ライナー・マリア・リルケ
Rainer Maria Rilke  1875 - 1926。オーストリアの詩人、作家。時代を代表するドイツ語詩人として知られる。プラハに生まれ、プラハ大学、ミュンヘン大学などで学び、早くから詩を発表し始める。日本においてリルケはまず森鴎外によって訳されたのち、茅野蕭蕭『リルケ詩抄』によって本格的に紹介される。『時祷詩集』『新詩集』『マルテの手記』など。

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『比較文化論の試み』 山本七平

 

西欧と日本を対等に対比した
両者の比較文化論を試みる

 

比較文化論の試み (講談社学術文庫)

比較文化論の試み (講談社学術文庫)

 

 

山本七平(やまもとしちへい)

 1921- 1991。山本書店店主。評論家として、主に太平洋戦争後の保守系マスメディアで活躍した。1942年青山学院卒業即日入営。ルソン島に派遣される。帰国後に聖書を専門とする出版社、山本書店株式会社を創業。イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を発売している。代表作に『「空気」の研究』『現代神の創作者たち』など。社会学者の小室直樹との親交が長い。また司馬遼太郎とは正義論について対談している。
 日本社会・日本文化・日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれる。

 

比較文化論の試み』あらすじ

 経済的破綻に更生はありえても、文化的破綻はその民族の自滅につながる。文化的生存の道は、自らの文化を、他文化と相対比することによって再把握し、そこから新しい文化を築くことしかない。とする著者が日本人とヨーロッパ人、ユダヤ人、アラブ人との差異を、ことばや宗教、あるいは法意識などを通してわかりやすく解明した独特の比較文化論。日本文化の特性が如実に浮き彫りにされ、私たち自身を見直すうえで絶好の書である。

 

ひとりよがりの日本人

 『虜人日記』という本に、日本の敗北の原因を二十一挙げてあるんです。非常に大きな特徴として、精神的に弱い面があったことを挙げている。著者の小松さんは敗戦・ジャングル・収容所を経験してきたんですけど、科学者ですから非常に的確な眼でこの状態を見ておられるわけです。
 その精神的な弱点がなぜ出てきたかという中に、「ひとりよがりで同情心がなかった」というのがあります。なぜそうなったかというと「日本文化というものが確立してないからだ」と氏は言う。日本文化ってのは「普遍性がなかった」。同時に反省する能力がなかった。これが日本がああいう状態になった一番大きな原因だと挙げておられるんです。

 

言葉を重んじる伝統

 われわれの社会では、すべて、なにごとも、ごく自然にやればよろしい、済んでしまって、その”ごく自然にやる”にはどうすればいいのか、箇条書きにしてくれという要求はないんですね。ところが西欧は昔から、なんでも言葉にしなくてはいけないという、極めて強い伝統があります。
 法則とか規定とか生き方とかいうものは、全部”言葉にしなければいけない”。そうしなければ、それの持つ力が発揮できないと考えていたわけです。われわれと大きな差があります。そしてこの差は、現代でもあるんです。
 「人間は裸と裸とで付き合えば、それが本当の人間の親愛だ」と、日本人同士なら言えるんです。ただ日本的な一民族国家ではない多民族多宗教国家群の中へいきますと、何もかも言葉にしないといけないんです。
 この”言葉にする”ことをロゴス化と言います。これは論理化でもいいんですけど、これがすべて、ことを始めるときの基本みたいに出てくるんです。「初めに言葉あり」という有名な「ヨハネ福音書」の冒頭の句がありますね。「言葉は神と共に有り、言葉は神なりき」と続きます。

 

互いの違いを認め合うことが重要に

 戦後、われわれは西欧の伝統の一つの帰結である民主主義と合理主義を、その伝統から切り離しうる一つの普遍的公理として輸入し、その公理に基づいて生活しているとの錯覚の上に生き、何か問題が起きると、その公理の適用が十分でないからだと考えつづけてきました。これは明治の考え方の延長線上の考え方です。明治はこの反動として超国家主義を生み出したわけです。
 では、われわれはどのようにすべきか。西欧であれ、われわれであれ、一つの伝統的文化の結実の上に生きているのであって、厳密にいえば、絶対に普遍化できない基本を共にもっているということです。簡単にいえば、日本文化の結実を公理として他国に適用することもできないし、その逆もできない。
 そして真に相互の理解を樹立しようと思うなら、お互いが別々であることを認めて互いに理解するという以外に方法はないでしょう。

 

 

 

 

作家がペンネームを用いる理由

 

ペンネームも作家にとって
作品の一部なのです

 

 

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作家がペンネームを用いる理由

・本名が平凡である。印象が薄い
・読みにくい
・本名を隠したい。勤務先に知られたくない
・本名がキライである

 

 

 

著名な作家のペンネーム

 

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村上春樹(むらかみはるき)
大ベストセラーの『ノルウェイの森』をはじめ、都会的で洗練されたイメージの村上春樹。抜群の知名度を誇るこの名は本名。一見、本名らしくない本名なのでペンネームだと思われがちです。当初は「村上龍角川春樹の名を合わせてできたような、わざとらしい名前」などと言われ、改名を勧められたこともあるそうですが、聞かなかったようです。ただ、のちにペンネームにしておくんだったと後悔のご様子。

村上春樹の唯一の自伝ともいえる『走ることについて語るときに僕の語ること』には、規則正しい生活のことや、スピーチの練習を一生懸命していることなどが語られています。

本格的に日々走るようになったのは、『羊をめぐる冒険』を書き上げたあと、少ししてからだと思う。専業小説家としてやっていこうと心を決めたのと前後しているかもしれない

専業小説家になって何よりも嬉しかったのは、早寝早起きができることだった。朝の五時前に起きて、夜の十時前には寝るという、簡素にして規則的な生活が開始された

講演をする場合は三十分か四十分くらいの英語のスピーチ原稿をそっくり頭に入れて演壇に上らなくてはならない。そのために何度も何度も話し方の練習をする。これは手間のかかる作業だ。しかしそこには自分が何か新しいものに挑戦しているのだという手応えがある

そして最後をこう結ぶ

「もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う」
村上春樹
作家(そしてランナー)
1949 - 20**
少なくとも最後まで歩かなかった

 


村上 龍(むらかみりゅう)
本名は村上龍之助。1952年長崎県生まれ。芥川龍之介とは≪助≫の一文字しか違わないので、かの文豪に対して恐れ多い、というので ≪龍≫ 一文字に縮めたんだとか。この謙虚な姿勢が、かの文豪にも届いたのかどうか、24歳のとき、この筆名で書いた『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞しました。代表作に『コインロッカーズ・ベイビーズ』『半島を出よ』など。

 

吉本ばななよしもとばなな
本名は吉本真秀子(よしもとまほこ)。1964年東京都生まれ。父親は批評家であり詩人の吉本隆明。『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞。さて、筆名の「ばなな」はどういう意味か。それは「バナナの花が好きだから」というダイレクトな理由だそう。

 

坂口安吾(さかぐちあんご)
1906 - 1955。小説家、評論家、随筆家。本名は坂口炳五(さかぐちへいご)。中学3年のとき、漢文の授業中に先生から言われた言葉「自己に暗いやつだから、暗五と名乗れ」に傷つき、後々も覚えていて、これが「安吾」に至ったとのこと。無頼派と呼ばれた坂口安吾ですが、こうした繊細な面も。代表作に『堕落論』『桜の森の満開の下」『白痴』など。

 

樋口一葉(ひぐちいちよう)
1872 - 1896。本名は樋口夏子、戸籍名は奈津。「達磨が、一枚の蘆の葉に乗って中国に渡った」という故事からきている。当時困窮していたこと(お足が無い)と達磨には足がない、を掛けている。才能と情熱に溢れながらも、不遇の短い生涯だった一葉だが、そんな人生を筆名でシャレてみることで不幸を笑い飛ばしてみたかったのかもしれない。代表作に『大つごもり』『にごりえ』『たけくらべ』など。

 

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)
1885 - 1976。小説家、詩人、劇作家、画家。ものすごくそれっぽい名前ですが、本名です。藤原氏から別れた公卿の家系。代表作は『お目出たき人』『友情』『愛と死』など。

 

二葉亭四迷(ふたばていしめい)
1864 - 1909。小説家、翻訳家。本名は長谷川辰之助(はせがわたつのすけ)。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによる。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説だという。代表作は『浮雲』『平凡』『其面影』など。

 

夏目漱石(なつめそうせき)
1868 - 1916。本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)。中国の故事「漱石枕流」に由来し、がんこ者、ひねくれ者を意味しているとされるが、もともとは「正岡子規」の数あるペンネームのうちのひとつだった。門下生に芥川龍之介、内田百閒、久米正雄中勘助など多数。

 

司馬遼太郎(しばりょうたろう)
1923 - 1996。戦国、幕末、明治の変革期を舞台とした多数の歴史小説を残した作家、司馬遼太郎。『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など、その歴史解釈は「司馬史観」とよばれ、死後もなお、多くの読者を獲得しつづけている。近代文明や日本社会に批判を投げかける『街道を行く』などの歴史エッセイの人気も高い。
 本名を福田定一という。ペンネームの由来は、『史記』の作者である歴史家、司馬遷(しばせん)には「遼(はるか)」に及ばない、という謙遜からという。懸賞論文を出すときに近くに置いてあったのが『史記』だったから、と自身のエッセイのなかには書いてある。

 

石田衣良(いしだいら)
1960年東京都生まれ。本名は石平正一(いしだいらしょういち)。代表作は『池袋ウエストゲートパークシリーズ』。見てのとおり、本名由来のペンネームだが、その理由がちょっとユニーク。「仕事の電話がかかってきても”はい、いしだいら”と答えられるから」とあるインタビューでそう語ったという。

 

シェイクスピア
1564 - 1616。シェイクスピアと聞いただけで高尚なイメージだが、書かれた作品が他の者によって書かれたのではないか、という別人説の議論もある。「シェイクスピア」という名前を分割してみると、「シェイク」が振る、ゆさぶる。「スピアス」が槍。つまり「槍を振る人」に。スピアスを「腰」と超訳してみると、妙なペンネーム臭が漂ってますね。

 

西尾維新(にしおいしん) 
1981年生まれ。小説家、漫画原作者、脚本家。この作家のペンネームは回文(かいぶん)だという。回文とは上から読んでも、下から読んでも同じで、たとえば「竹藪焼けた」とか「世の中ね顔かお金かなのよ」、「イカした歯科医」とか。音節だけでなく文字も含めその順番が変わらないもので、言葉遊びの一種だ。西尾維新(にしおいしん)をアルファベットで表記すると「NISIOISIN」で回文となる。代表作は『刀語』『めだかボックス』「伝説シリーズ」など。

 

沖水幹生(おきみずみきお)
1969年岐阜県生まれ。ファンタジー作家。長編青春ファンタジー小説『ルナ』でデビューした。名前が「おきみずみきお」でこちらも回文になっている。

 

西村京太郎(にしむらきょうたろう)
1930年生まれ。小説家、推理作家。代表作に『天使の傷痕』『寝台特急殺人事件』『終着駅殺人事件』など。性は人事院時代の友人の、名は息子のものを取って組み合わせている。黒川俊介や西崎恭というペンネームも使用していた。本名は矢島喜八郎。

 

乙一(おついち)
1978年福岡県生まれ。山白朝子、中田永一の別名義でも小説を執筆している。本名は安達寛高。とにかく若い世代に支持されることが多い。ミステリー、ホラーを得意とされている。そのペンネームの由来は「漢字二文字」で「画数ができるだけ少ない」ものを考えてのこと。漢字二文字というのは、出身であるライトノベルの世界では、イラストを担当する作家の名が二文字のことが多かったからで、画数を減らしたかったのは、画数の多い漢字が好きではなかったからだという。確かに「乙」も「一」も画数は最小限の「1」だ。代表作に『GOTH リストカット事件』『くちびるに歌を』など。

 

俵万智(たわらまち)
1962年大阪生まれ。俵万智といって真っ先に浮かぶのは、260万部を超えるベストセラー『サラダ記念日』だろう。その俵万智、いかにもペンネームといった感じだが、じつはこれ本名なのです。

 

宮部みゆき(みやべみゆき)
1960年東京都生まれ。直木賞を受賞した『理由』をはじめ、『模倣犯』『クロスファイア』など、次々にベストセラーを生む超売れっ子作家である。ところで、本名は「矢部みゆき」。姓名判断をしたところ、本名で作家の仕事をするとノイローゼになるといわれたからだという。ただし、本名とあまりにかけ離れたペンネームにすると、人によばれても自分のことだとわからないおそれがあると、本名に「み」をくわえただけの「宮部みゆき」としたそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

『文豪と暮らし』 芥川龍之介も愛した銀座のカフェ

 

現存する日本最古の「喫茶店」カフェーパウリスタは文豪たちに愛された場所

 

文豪と暮らし~彼らが愛した物・食・場所~

文豪と暮らし~彼らが愛した物・食・場所~

 

 

創業は明治44年

 銀座8丁目、中央通り沿いに佇むカフェーパウリスタ。現存する日本最古の「喫茶店」であるこの店の創業は明治44年12月で、実に106年もの歴史を有する。日本で初めてブラジル直輸入の豆を使った珈琲を提供し、制服給仕による接客やオープンカフェなど、現在のサービスのほとんどはこの店が発祥なのだという。
 また、朝日新聞社電通本社、帝国ホテル、外国商館に程近く、当時東京で最も進歩的な文化人が集まる場所であったことから「銀座カフェーパウリスタ」はすぐに文化人や新聞記者のたまり場となりました。

 

銀ブラ」の本来の意味

 いわゆる「銀ブラ」の本来の意味は現在言われているような「銀座の街をブラブラすること」ではなく、慶應義塾大学の学生が流行らせたもので「銀座のカフェーパウリスタでブラジル珈琲を飲むこと」なのだとか。そんな言葉を生むほどの銀座の名所は、夢を抱えた学生や多くの文豪に愛された場所でもあった。

 

菊池寛との待ち合わせの場所 

 ここに文豪たちが集うようになったのは、かつて銀座6丁目にあった店舗の真向かいに「時事新報」の社屋があり、その主幹を務めていた菊池寛が待ち合わせ場所として愛用していたからだ。菊池に原稿を渡すために、芥川龍之介谷崎潤一郎正宗白鳥森鴎外ら多くの作家や詩人がここを利用し、この店とブラジル珈琲の愛用者となった。

 

芥川龍之介の遺稿にも登場

 友人の谷崎とともに足繁くカフェーパウリスタに通い、自作にも登場させているのが芥川だ。彼はブラジル珈琲だけでなく、店内に置かれていた「グラノフォン」にも夢中だった。グラノフォンとは5銭銅貨を入れると音楽が聴ける自動ピアノのことで、『彼 第二』の中にも「その夜もグラノフォンは僕等の話にほとんど伴奏を絶ったことはなかった」という記述が見られる。

 

日本初のサービスを愛用した与謝野晶子

 またこの当時、店の2階にはこれも日本初の女性専用室「レディースルーム」があった。ここを愛用していたのが与謝野晶子だ。与謝野は平塚らいてうらとともに青いストッキングを履いて銀座を訪れ、このレディースルームで多くの時を過ごし、女性の地位向上について熱い論議を交わした。ここから平塚らの雑誌『青鞜』が誕生したのである。

 

カフェーパウリスタを愛用した著名人たち

 芥川龍之介徳田秋声正宗白鳥宇野浩二久保田万太郎広津和郎佐藤春夫水上滝太郎吉井勇菊池寛久米正雄小島政二郎高村光太郎高村智恵子井上ひさし谷崎潤一郎与謝野晶子森鴎外アインシュタイン、ジョンレノン、オノヨーコ、藤田嗣治、平塚明子、宇野千代など多数。

 

 

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店舗名 カフェーパウリスタ
所在地 東京都中央区銀座8-9  長崎センタービル1階
電話  03-3572-6160
営業時間 月〜土   8:30〜21:30  
     日・祝 11:30〜20:00

 

 

 

 

 

『日本再興戦略』 落合陽一

 

AI、AR・VR、5G、ロボット、自動運転、ブロックチェーンなどのテクノロジーがこれからの世界を大きく変えていく 

 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 

落合陽一(おちあいよういち)

1987年東京生まれ。日本の研究者、メディアアーティスト。筑波大学卒業。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。筑波大学学長補佐、大阪芸術大学客員教授デジタルハリウッド大学客員教授を兼務。ピクシーダストテクノロジーズCEO。名前の由来は、陽の+(プラス)と-(マイナス)から。父親は国際ジャーナリストの落合信彦。叔父は空手家の落合秀彦

 

戦況は好転する

 我々の世代の次の一手で、日本のこの長きにわたる停滞は終わり、戦況は好転する。僕はそう確信しています。バックグラウンドとビジョンを拡張し、世界に貢献する。日本にとって、そして世界にとって、今ここが「始まったばかり」なのです。
ー本文「はじめに」より
以下に一部を抜粋しました。

 

新たな価値創造システム

 今、「日本を何とかしないといけない」という思いを多くの人が持っているはずです。そのために何をすべきか、という解決策も見えてきます。でも、それだけでは日本は変わりません。日本を再興するため、世界を理解するために重要なのは「意識改革」です。集団に対する処方箋としての教育とテクノロジー、それを通貫するビジョンが必要なのです。
 各分野の専門家はいるのですが、教育と研究と経営とアートとものづくりをどれもやっている人はとてもレアです。これらの分野は一見、相性が悪そうですが、実は一人の人間がこれらのすべてに習熟すると、シナジーが生まれてきます。そしてそれらのすべてに影響を与えるのがテクノロジーです。AI、AR・VR、5G(第5世代移動通信システム)、ブロックチェーンなどのテクノロジーは、これから世界を大きく変えていきます。

 

東洋思想を学ぶべき

 欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。個人の持つ意味を理解していないのに、西洋輸入の「個人」ばかりを目指すようになってしまった。我々は過度に分断されるようになった。そしていつのまにか日本人がバラバラになってしまったのです。それに対して東洋思想とは、一言で言うと、自然です。自然のエコシステムとの距離感を保ちながら暮らしていくという思想です。これからの日本人にとっては、西洋的人間性をどうやって超克して、更新しうるかがすごく重要です。
 我々は東洋人なのにもかかわらず、あまりに東洋のことを軽視しすぎです。バックグラウンドにある東洋思想を学ぶべきなのです。

 

長時間労働について

  西洋的思想と日本の相性の悪さは、仕事観にもあらわれています。ワークライフバランスという言葉が吹き荒れていますが、日本人は仕事と生活が一体化した「ワークアズライフ」のほうが向いています。歴史的にも、労働時間が長い国家です。オンとオフの区別をつける発想自体がこれからの時代には合いません。そこではストレスがないことが重要です。本人がストレスを感じていないのであれば、仕事をし続けるのも、旅行先でスマホをいじり続けるのも、別に問題はありません。

 

士農工商の復活

 カーストというと、悪いイメージがあるかもしれませんが、インド人にとっては必ずしも悪ではありません。多くの人が「カーストは幸福のひとつの形」といいます。カーストがあると職業選択の自由はない反面、ある意味の安定は得られるからです。
 インドのカーストに当たるのは日本の士農工商ですが、日本は本質的にカーストが向いている国だと思っています。大きく分類すると、士は政策決定者・産業創造者・官僚で、農は一般生産者・一般業務従事者で、工がアーティストや専門家で、商が金融商品や会計を扱うビジネスパーソンです。
 「農」の中心は百姓です。百姓とは、単なる農民ではありません。言葉のとおり、百姓とは生業が100個ある人たちです。いわば、自営業者、マルチクリエーターです。農業をする人もいれば、木工をする人もいる。文章を書く人もいれば、祭りを取り仕切る人もいる。一般的に、医術も百姓の生業のひとつであって、医者も農に属していました。要は、100ぐらいの職のバリエーションをポートフォリオマネジメントしてきたのです。

 

日本は5Gの最先進国

 未来に大きなインパクトをもたらすのが、次世代通信システムの5G(第5世代移動通信システム)でしょう。5Gになると、通信環境が劇的に変わります。現在の4Gに比べて、通信速度は100倍、容量は1000倍になると言われています。この5Gを日本は、世界に先んじて2020年から東京でスタートする予定です。日本は5Gの最先進国になるのです。とくに5Gで重要なのは、遅延がほとんどなくなることです。5Gになると、たった1ミリ秒の遅れで情報通信ができるようになります。1ミリ秒の遅れというのはとにかく速いです。人間の出入力感覚では、遅れを体感しないレベルです。5Gの持つ効果は「空間伝送」だけではありません。5Gによって「自動運転」や「遠隔手術」なども進化します。

 

人口減少は大きなチャンス

 人口減少と少子高齢化はこれからの日本にとって大チャンスなのです。理由はまず、高齢化で働ける人が減るので、仕事を機械化してもネガティブな圧力がかかりにくい。産業革命のときに労働者が機械を破壊したような運動が起こらないのです。今後の日本にとって、機械化はむしろ社会正義です。次に「輸出戦略」です。もし日本が人口減少と少子高齢化へのソリューションを生み出すことができれば、それは”最強の輸出戦略”になるのです。

 

シリコンバレーによる搾取の終焉

 我々がデジタル化社会で苦しんでいる最大の理由は、ソフトウェアのプラットフォームを取れなかったことです。今の我々の生活はシリコンバレー発のプラットフォームに支配されています。iPhoneを使ってアップルストアで買い物をしたり、グーグルマップで地図を検索したり、アマゾンのサイトで買い物をしたり、フェイスブックでメッセージを送り合ったりしていますが、その結果、多くの情報やお金がシリコンバレーに吸い取られているのです。日本は「景気がよくなったのになかなか賃金が上がらない」と騒いでいますが、その根本的な理由は、デジタル商品のほとんどがシリコンバレーのプラットフォーム経由で扱われているからです。
 こうした状況に終止符を打ち、ローカルな経済圏をつくるための武器となるのが、ブロックチェーン化であり、トークンエコノミー化(仮想通貨と同義語)です。シリコンバレーのプラットフォームを不要にする、日本発の日本で自己完結するプラットフォームをつくれるようになるのです。

 

 

 

 

 

『貨幣』 太宰治の経済学 

06-3578 

マルクスケインズも望んだであろう
太宰治の経済学


 

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『貨幣』あらすじ

「私は、七七八五一号の百円紙幣です」で始まるこの小説は、貨幣を女性に見立てた異色作です。巡り巡って酔いどれの陸軍大尉の手に渡った私が ... 。
「ああ、欲望よ、去れ。虚栄よ、去れ。日本はこの二つのために敗れたのだ」
 貨幣の視点による日本の戦時下での状況や人間模様などを表現した小作品。ラストはマルクスケインズも望んだであろう人間の心理に基づく理想の姿が見える。

 

本作の出だしと最後の部分

 私は、七七八五一号の百円紙幣です。あなたの財布の中の百円紙幣をちょっと調べてみて下さいまし。あるいは私はその中に、はいっているかも知れません。...

 ... 「こんないいところはほかにないわ。あたしたちは仕合せだわ。いつまでもここにいて、この赤ちゃんの背中をあたため、ふとらせてあげたいわ」
 仲間はみんな一様に黙ってうなずきました。

 

敗戦からアメリカ民主主義へ

 この『貨幣』が出版されたのは1946年。第二次世界大戦終戦の翌年に書かれた作品です。おそらく太宰にとっても辛い時期であったのでしょう。戦争が終わった直後の時期、たとえば戦中は「鬼畜米英」と生徒たちに吹き込んでいた教師たちが、敗戦になったとたん態度を変え、アメリカ民主主義の尊さを主張しはじめたり、あるいは積極的にファシズムの宣伝部員をしていた文化人が戦後になって共産党に入党したりします。
 世の中が変わったら、自分の思想も簡単に変えてしまうことが、知識人や文化人にはあたりまえのように起こったのです。この時期の太宰の生きていく糧を必死に見つけようとしている心の一端が表れています。

 

資本主義の格差予言をつく

「この世の中のひとりでも不幸な人のいる限り、自分も幸福にはなれないと思う事こそ、本当の人間らしい感情でしょうに、自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、(いいえ、あなただって、いちどはそれをなさいました。無意識でなさって、ご自身それに気がつかないなんてのは、さらに恐るべき事です。恥じて下さい。人間ならば恥じて下さい。恥じるというのは人間だけにある感情ですから)まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をしているような滑稽で悲惨な図ばかり見せつけられてまいりました。(『貨幣』より)

 

太宰の未来に願う一筋の光

 ここからが『貨幣』における太宰の真骨頂です。敗戦が色濃くなってきた終戦直後の小都市が背景になっています。ここに飲んだくれの陸軍大尉が登場します。語り部は、やはり一枚の百円紙幣です。以下は本文からの抜粋ですが、一部省略しています。

「その夜、まちはずれの薄汚い小料理屋の二階へお供をするという事になりました。大尉はひどい酒飲みでした。そうして酒癖もよくないようで、お酌の女をずいぶんしつこく罵るのでした。」

「お前の顔は、どう見たって狐以外のものではないんだ。(狐をケツネと発音するのです。どこの方言かしら)よく覚えて置くがええぞ。ケツネのつらは口がとがって髭がある。ケツネの屁というものは、たまらねえ。そこらいちめん黄色い煙がもうもうとあがってな、犬はそれを嗅ぐとくるくるっとまわって、ばたりとたおれる。
 お前の顔は黄色いな。妙に黄色い。われとわが屁で黄色く染まったに違いない。や、臭い。さてはお前、やったな。いや、やらかした。いやしくも軍人の鼻先で、屁をたれるとは非常識きわまるじゃないか。」などそれは下劣な事ばかり、大まじめでいって罵り、階下で赤子の泣き声がしたら耳ざとくそれを聞きとがめて、「うるさい餓鬼だ、興がさめる。おれは神経質なんだ。馬鹿にするな。あれはお前の子か。これは妙だ。ケツネの子でも人間の子みたいな泣き方をするとは、おどろいた。どだいお前は、けしからんじゃないか、子供を抱えてこんな商売をするとは、虫がよすぎるよ。お前のような身のほど知らずのさもしい女ばかりいるから日本は苦戦するのだ。どだい、もうこの戦争は話にならねえのだ。ケツネと犬さ。くるくるっとまわって、ばたりとたおれるやつさ。勝てるもんかい。だから、おれは毎晩こうして、酒を飲んで女を買うのだ。悪いか」「悪い」とお酌の女のひとは、顔を蒼くしていいました。
「狐がどうしたっていうんだい。いやなら来なけれあいいじゃないか。いまの日本で、こうして酒を飲んで女にふざけているのは、お前たちだけだよ。お前の給料は、どこから出ているんだ。考えてもみろ。あたしたちの稼ぎの大半は、おかみに差し上げているんだ。おかみはその金をお前たちにやって、こうして料理屋で飲ませているんだ。馬鹿にするな。女だもの。子供だって出来るさ。いま乳呑児をかかえている女は、どんなにつらい思いをしているか、お前たちにはわかるまい。あたしたちの乳房からはもう、一滴の乳も出ないんだよ。からの乳房をピチャピチャ吸って、いや、もうこのごろは吸う力さえないんだ。ああ、そうだよ、狐の子だよ。あごがとがって、皺だらけの顔で一日中ヒイヒイ泣いているんだ。それでも、あたしたちは我慢しているんだ。それをお前たちは、なんだい」といいかけた時、空襲警報が出て、それとほとんど同時に爆音が聞こえ、れいのドカンドカンシュウシュウがはじまり、部屋の障子がまっかに染まりました。

 お酌のひとは、鳥のように素早く階下に駆け降り、やがて赤ちゃんをおんぶして、二階にあがって来て、「さあ、逃げましょう、早く。それ、危い、しっかり」ほとんど骨がないみたいにぐにゃぐにゃしている大尉を、うしろから抱き上げるようにして歩かせ、階下へおろして靴をはかせ、それから大尉の手を取ってすぐ近くの神社の境内まで逃げ、大尉はそこでもう大の字に仰向に寝ころがってしまって、そうして、空の爆音にむかってさかんに何やら悪口をいっていました。ばらばらばら、火の雨が降って来ます。神社も燃えはじめました。

「たのむわ、兵隊さん。も少し向こうのほうへ逃げましょうよ。ここで犬死にしてはつまらない。逃げられるだけは逃げましょうよ」

 人間の職業の中で、最も下等な商売をしているといわれているこの蒼黒く痩せこけた婦人が、私の暗い一生涯において一ばん尊く輝かしく見えました。

 ああ、欲望よ、去れ。虚栄よ、去れ。日本はこの二つのために敗れたのだ。

 お酌の女は何の慾もなく、また見栄もなく、ただもう眼前の酔いどれの客を救おうとして、こん身の力で大尉を引き起し、わきにかかえてよろめきながら田圃のほうに避難します。避難した直後にはもう、神社の境内は火の海になっていました。

 麦を刈り取ったばかりの畑に、その酔いどれの大尉をひきづり込み、小高い土手の蔭に寝かせ、お酌の女自身もその傍にくたりと坐り込んで荒い息を吐いていました。大尉は、すぐにぐうぐうと高鼾です。

 その夜は、その小都会の隅から隅まで焼けました。夜明けちかく、大尉は眼をさまし、起き上がって、なお、燃えつづけている大火事をぼんやり眺め、ふと、自分の傍でこくりこくり居眠りをしているお酌の女のひとに気づき、逃げるように五、六歩歩きかけて、また引返し、上衣の内ポケットから私の仲間の百円紙幣を五枚取り出し、それからズボンのポケットから私を引き出して六枚重ねて二つに折り、それを赤ちゃんのいちばん下の肌着のその下の地肌の背中に押し込んで、荒々しく走って逃げて行きました。

 私が自身に幸福を感じたのは、この時でございました。貨幣がこのような役目ばかりに使われるんだったらまあ、どんなに私たちは幸福だろうと思いました。
 赤ちゃんの背中は、かさかさ乾いて、そうして痩せていました。けれども私は仲間の紙幣にいいました。
「こんないいところはほかにないわ。あたしたちは仕合せだわ。いつまでもここにいて、この赤ちゃんの背中をあたため、ふとらせてあげたいわ」

 仲間はみんな一様に黙ってうなずきました。

 


浅底の思想とは無縁の母性

 この『貨幣』を書いてから2年くらいして太宰は玉川上水で入水自殺してしまうが、一貫して敬意を払い、敗戦直後の荒廃した日本の行く末に僅かながらも光を感じたのが、ここに登場してくる小料理屋のお酌の女性のような存在だったのだろう。着せ替え人形のような浅底の思想とは無縁な生活者で、虚栄の心など微塵もなく、欲もなく、いざというときは無心のうちに捨て身で人のために動く、巨大な母性のような存在。最後にはこの「母性」にしか希望を抱けなかったということは、敗戦直後の思想界が荒廃の相を呈し、太宰にとって信じるに値するものが何一つなかったのだろうか。(谷中の案山子さんブログより)

*「谷中の案山子〜Ameba支局」さんのブログ投稿記事を参考にさせて頂きました。 

 

 

 

 

 

 

06-3578

『ロシア革命100年の謎』 亀山郁夫 × 沼野充義

 

ロシア革命善か悪か? 
1917年 知られざる真実

 

ロシア革命100年の謎

ロシア革命100年の謎

 

 

ロシア革命の謎

十月革命は、なぜ二月革命を否定し暴走したのか
・文学・芸術の革命は本当に政治の革命に先行したのか
・壮絶な内戦と粛清はなぜ起きたのか
・レーニンの死の時期が違ったら歴史は変わったか
・芸術家はなぜスターリンを支持したのか
テロリズムはなぜ19世紀ロシアで始まったか
ドストエフスキーは皇帝暗殺を予見していたか
ロシア革命はまだ続いているのか

 

亀山郁夫(かめやまいくお)
1949年栃木県生れ。日本のロシア文学者。名古屋外国語大学学長。東京外国語大学名誉教授。前東京外国語大学学長。専門はロシア文化・ロシア文学。1991~2000年にかけて、NHKでテレビ『ロシア語会話』の講師を務めた。2017年に「日本ドストエフスキー協会」を設立し、初代会長に就任。主に『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』などの訳書をはじめ、著書多数。

 

沼野充義(ぬまのみつよし)
1954年東京都生れ。日本のスラヴ文学者。東京大学教授。専門はロシア・ポーランド文学。現代日本文学など世界文学にも詳しい。妻の沼野恭子ロシア文学者(東京外国語大学教授)。『徹夜の塊』でサントリー学芸賞芸術・文学部門、『ユートピア文学論』で第55回読売文学賞をそれぞれ受賞。

 

レフ・トルストイ
1828 - 1910年。帝政ロシアの小説家、思想家でフョードル・ドストエフスキーイワン・ツルゲーネフと並び、19世紀ロシア文学を代表する文豪。代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。

 

 

トルストイの家出と死

 本書は亀山郁夫氏と沼野充義氏の対談形式で構成されていますが、そのなかで印象に残った「1910年トルストイの家出と死」について少し抜粋します。

沼野 トルストイは相当な財産を持つ貴族で、世界的名声も獲得し、何一つ不自由はなかったはずですが、晩年ずっと悩んでいた。簡単には説明しにくいんですけど、一つは、家庭のごたごたがあって、奥さんとの関係がうまくいっていなかった。トルストイは質素な生活を旨としながら、その一方で裕福な貴族である自分に対して、内心忸怩(じくじ)たるものがあったのかもしれません。
 そこで、彼は著作権として入ってくる膨大な収入を全部放棄しようとしたんですが、奥さんは ー まあ、悪妻と言われることが多いけど、僕に言わせれば、普通の人ですよ ー トルストイのような過激な行動には走れない。そして、当然、子どもたちのためにも、自分の家の財産を守りたいから、トルストイの「奇矯な」行動を止めようとする。

沼野 家庭の不和に巻き込まれて打開できない状況、そして自分の主義主張に反して裕福な暮らしをしていることについての忸怩たる思い、などが重なって、1910年、すでに八十二歳という高齢であったトルストイは、ある日突然、家出を敢行するんです。ひょっとしたらチェーホフのサハリン行きのときのように、自己を閉ざしてしまった閉塞状況からの不条理な脱出願望に従ったのかもしれません。家出をしてどこに行こうとしていたのかも、実はよくわからないのですが、いずれにせよさほど遠くまでは行けず、アスターポヴォという寒村の駅で病に倒れ、家出後わずか一週間で亡くなってしまいました。1910年のことですからね、今みたいにテレビ中継はありませんが、世界的なメディア合戦になった。これほど亡くなったときに世界の注目を集めた作家は、ロシアだけでなく、全世界をみても、後にも先にもいないんじゃないですかね。

沼野 彼の家出と死の象徴性を考えてみると、これまでラディカルな仕事を続け、それなりに思想体系を築いてきたのに、最後に、次にどこにいくかが見えない泥沼状態に陥ってしまった。ロシアだけでなく、全世界に影響を与えるような仕事をしていた人なのに、あえて正宗白鳥的な卑俗な見方をすれば、自分の家の中すらまとめられなかったのは皮肉なことです。

亀山  つまり、トルストイ家そのものが帝政ロシアのミクロコスモスだった。

沼野 そう考えると、彼があんなふうに家出して亡くなったということは、ロシアそのものがこの先どこに行ったらいいかわからなくなるという事態を先取りしていたということでもある。

亀山 彼はその生き方において革命を予言していたということにもなりますね。

沼野 家出してどこに行こうとしていたかについては諸説あって、トルストイ主義者の住んでいるコミューンに行こうとしたんじゃないか、という説もありますが、まあ、現実的にはあの歳で家出したってどうしようもない。だからこそ、すべてを「ちゃら」にして、すべてを捨てて、自分を解放したい、というところまで追いつめられたのかもしれない。その家出の決断というか、破滅的なパストは、ロシア革命のパストそのものでもある。

亀山 確かに、ロシアの末期症状であるとともに、ロシア革命のパストでもある。この家出は、1910年ですから、第一次ロシア革命と第二次ロシア革命のちょうど真ん中くらいの時期ですよね。その意味では非常にシンボリックです。