きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

芥川龍之介 『河童・或阿呆の一生』

 

芥川龍之介の芸術と生涯
その魂の旋律に耳を傾けてみよう

 

 

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

 

 

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芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)
本名同じ。1892年(明治25年)東京生まれ。東大在学中、23歳の時に『羅生門』で文壇デビューし、夏目漱石門下となる。現実を巧みな技法で描き、菊地寛らとともに「新技巧派」と呼ばれた。その後『地獄変』『蜘蛛の糸』などの傑作を次々と生み出すが、時代の流れに追従できず、社会と自己の矛盾に思い悩んだ挙げく、精神を患い(うつ病か)1927年(昭和2年)7月24日未明に服毒自殺した。享年35歳。

 

或阿呆の一生(あるあほうのいっしょう)

 本書には短編小説6編の作品が収録されています。今回はその中の遺稿になった『或阿呆の一生』を取り上げます。なお、この作品と『歯車』は、死後の10月に発表されたものです。
 この小説の原稿の出来上がった日時は、友人の久米正雄にあてた附記にある六月二十日という日づけによって知られ、内容は自叙伝の意味を持つものだったこと。そして自殺の動機を、自己の将来に対する「ぼんやりとした不安」のためとしているが、つづいて「僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の『或阿呆の一生』の中に大体は尽くしているつもりである」と述べています。
 このように、この作品は自己の生涯の事件と心情を、五十一の短編に印象的にまとめたもので、死を前にした彼の、自己の一生を焦点的に鳥瞰(ちょうかん、俯瞰)した見取図でした。

 

久米正雄あての芥川龍之介からの遺書の一部

 僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思っている。君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知っているだろう...  しかし僕は発表するとしても、インデキス(インデックス)をつけずに貰いたいと思っている。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている... (中略)
 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。どうかこの原稿の中に僕の阿保さ加減を笑ってくれ給(たま)え。

 

死を前にした見取図の一部

二十四(出産)
彼は襖側に佇(たたず)んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤子を洗うのを見下ろしていた。 「何の為にこいつも生れて来たのだろう? この娑婆苦(しゃばく)の充ち満ちた世界へ。- 何の為に又こいつも己のようなものを父にする運命を荷(にな)ったのだろう?」

三十一(大地震
彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐った死骸の匂も存外悪くないと思ったりした。殊(こと)に彼を動かしたのは十二三歳(じゅうにさんさい)の子供の死骸だった。彼はこの死骸を眺め、何か羨(うらや)ましさに近いものを感じた。 「神々に愛せらるるものは夭折す」 *夭折(ようせつ)... 若くして死ぬこと
「誰も彼も死んでしまえば善い」彼は焼け跡に佇んだまま、しみじみこう思わずにはいられなかった。

四十二(神々の笑い声)
三十五歳の彼は春の日の当たった松林の中を歩いていた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のように自殺出来ない」と云う言葉を思い出しながら...

四十七(火あそび)
彼女はかがやかしい顔をしていた。それは丁度朝日の光の薄氷にさしているようだった。彼は彼女に好意を持っていた。しかし恋愛は感じていなかった。
「死にたがっていらっしゃるのですね」
「ええ。- いいえ、死にたがっているよりも生きることに飽きているのです」
彼等はこう云う問答から一しょに死ぬことを約束した。

四十九(剥製の白鳥)
(中略)彼は「或る阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製(はくせい)の白鳥のあるのを見つけた。それは頸(くび)を挙げて立っていたものの、黄ばんだ羽根さえ虫に食われていた。彼は彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。

 

芥川龍之介の芸術と生涯

 以上は、五十一の短編から抜粋したものですが、最後の吉田精一氏の解説に次のようにあります。「この作品に詳しいインデックスをつければ、それがそのまま『芥川龍之介の芸術と生涯』ということになるが、我々はただこの文章の奏(かな)でる魂の旋律に、黙して耳を傾けるべきだろう」と。

 

 

 

 

 

 

 

『モモ』 ミヒャエル・エンデ それは時間の哲学

 

時間とは、生きるということ、そのものです

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

あらすじ

 町はずれの円形劇場あとに、まよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ「時間どろぼう」の男たちの魔の手がが忍び寄ります。「時間」とは何かを問う、哲学的なエンデの名作です。

 

モモの特技は人の話を聞くこと

 何か解決策を考えられるわけではないけれど、不思議なことにモモと話しているうちに本人が自分でどうすればいいのか気づくんです。ずっとケンカしていた男たちの原因を長い時間かけて聞きだし、仲直りさせたこともありました。いつか人々は困ったことがあれば「モモのところに行ってごらん」と言うようになりました。

 

時間どろぼうの灰色の男たち

 ある日、時間貯蓄銀行の灰色の男たちが街にやってきて、人々の時間を盗み始めます。みんな時間に追われるようになり、心もギスギスするようになりました。
モモは、今まで遊びにきていた友達たちがやってこないことで、街の異変に気付きます。モモと親友たちは、世の中がおかしいことを大人たちに知らせますが、誰も聞いてくれません。
 最後は、時間どろぼうの灰色の男たちと闘うのですが、ここからかなりスリリングな展開になっていきます。ちょうどその頃、モモの前に救世主となる、カシオペアというカメが現れます。カシオペアには30分先の未来がわかる能力があり、ここという時にモモを助けてくれるのです。

 

時間とは生きることそのもの

 この本は児童文学なんですが、時間に追われて現代を生きている大人にこそ、お薦めです。これがとても深いんです。人間たちに「時間」を倹約させることで、時間を奪う「時間どろぼう」。時間を倹約すればするほど、人々からゆとりある生活が奪われていきます。彼らの姿を現代の私たちに重ねあわせてしまいます。

 大人は子どもによく、時間を大切にしなさいって、言ったりするけど、時間を節約して得られるものはなんだろう。そこがよく分からなかったりして。一生懸命に仕事をして、少しでも多く時間をかけて勉強して試験に合格したり。ところが、今度は自分の時間が失われると、人間は病んでしまう。仕事が忙しすぎてストレスをためたり、育児が辛くなってしまったり。

 どれだけ時間を費やしたかによって、自分の中で何か向上するのは確かかもしれません。でも大切なのは、その時間を自分で操っているかどうかにあります。自分自身の時間の使い方を他人に強制されることは、ただ時間というものを犠牲にして、心の豊かさまで失っていくということなんじゃないでしょうか。「時間とは、生きるということ、そのもの」です。現代の時間どろぼうに自分の時間を奪われていませんか。

 

 

 

 

 

 

 

「時々、神様に出会った」 ビンボー魂 風間トオル

 

貧乏だから辛いのではなく
空腹だから辛いのです

 

 

風間トオル

1962年神奈川県生まれ。東京デザイン専門学校卒業。メンズノンノ、メンズクラブ等のモデルを経て、俳優へ。映画『わが愛の譜 滝廉太郎物語』で日本アカデミー賞優秀主演男優賞受賞。以下は本書からの抜粋です。

 

 

母が出て行き、父もいなくなった

 5歳のときに母が出て行き、そして父もいなくなった。祖父母との貧乏生活がはじまるも年金だけでの生活。風呂なし共同トイレのアパート暮らし。屋外の洗濯機がお風呂がわり、切り傷はツバで治し、虫歯はペンチで抜く、公園のアサガオを食べて飢えをしのぎ、カマキリも食べた。それでもグレることなく貧乏を知恵と度胸で凌いだ。

 

昼食抜きの毎日

 祖父が亡くなり、祖母の年金だけになって暮らしは更に厳しくなる。中学に入ると唯一きちんとした食事だった給食もなくなってしまい、お弁当を持たせてもらえず、ほとんど毎日、昼食抜きで過ごした。ランチタイムは大抵、タンポポの葉っぱなどを摘み食いしながら、校庭でぼんやりと過ごしていた。

 

お返しは松ぼっくり

 バレンタインデーにもらったチョコレートは20個か、多い年には30個とかあって、それを365日分に分割して冷蔵庫に保管し、大切なエネルギー源として毎日大事に食べた。ホワイトデーのお返しは、お金がないので公園で拾ってきた松ぼっくり。自分で白く塗ってアクセサリーに。鞄にぶらさげたり、紐をつけてネックレスにしたりして。

 

時々、神様に出会った

 ある日、いつものように土手へ行くと、ホットドッグを売るワゴン車が止まっていました。野球の練習をする高校生や、デートをするカップル、キャッチボールをする親子などが次々に買いに来て大繁盛。僕はいつも、忙しそうに切り盛りするホットドッグ屋のご夫婦を少し離れたところから見学していました。

 すると、「おーい、そこの坊や」と、どうやら僕を呼んでいる様子。ワゴン車へ近づいて行くと「悪いけどキャベツを切るのを手伝ってくれないかなぁ」と持ちかけられました。「うん、いいよ」と二つ返事で引き受けたのは、暇だったし面白そうだなと思ったからです。教えられたとおりキャベツの千切りを始めたら楽しくて、時間が経つのも忘れて黙々と作業を続けました。

 やがて夕暮れ時になり、すっかり客足が途絶えると、「よく頑張ってくれたね。本当に助かったよ」と、おじさんは報酬としてホットドッグを二つくれるというのです。
「もらっていいの?」と尋ねると、「もちろんだよ。さぁ、遠慮なく食べな」と。空腹だったので、嬉しくて、ありがたくて。思えば、あれが生まれて初めてのアルバイトでした。それから毎週、小さなアルバイトをするようになりました。ホットドッグ屋のご夫婦が「おっ、今日も来てくれたね」といつも笑顔で迎えてくれました。

 でも、本当はキャベツを切る手伝いなんて必要としていなかったのだと思います。僕の境遇を見抜いたうえで、ただ施すのでは、この子のためにならないと考えてくれたのだと今ならはっきりとわかるのです。僕はそういう愛のある大人に育ててもらいました。時々、神様に出会った。そんなふうに思うのです。

 そして、貧しかった幼少時代を振り返って思うのです。本当はお金がないから不幸なんじゃなく、お金に支配されてしまうことが問題なんじゃないかなと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「バベルの塔」展 東京都美術館 

 

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神が人間の言葉を混乱させる

 人が「天まで届く塔のある町を建てよう」と考えたのは 、煉瓦を焼くという新技術、そして漆喰よりずっと粘着力のあるアスファルトという新素材を発見したからでした。
 ところが、人間の計画を知った神は「降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」(旧約聖書11章7節)と考えているのですから、その計画を中断させなければならない悪い企てと見ていることになります。
 「天まで届く塔のある町を建てる」こと自体は悪いことではないはずでした。いったいどこが神の目に不適当と映ったのでしょうか。

 

自分の名にこだわった人間

 唯一の可能性は、「天まで届く塔のある町を建てよう」のあとに「我々の名をつくろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」(11章4節)とあることでしょう。
 大事業を成し遂げれば、自分の名前を残したくなるのはごく自然なことですね。でも、神はそこに落とし穴を見ていました。人間が自分の名にこだわるあまり、神の名が忘れ去られるなら、神との対話もあと回しにされてしまう。その時には、私益や国益がぶつかり合う混乱した社会になってしまう。
 こうして名前に執着した人間たちは、互いの言葉を聞き分けることができなくされた上で、全地に散らされてしまいました。この町は、神が言語を混乱(ヘブライ語で「バラル」)させたことから「バベル」と呼ばれるようになりました。

 

ブリューゲルの「バベルの塔

 さて、東京都美術館で開催の「バベルの塔」展は、平日でも大勢の人で人気があります。「バベルの塔」自体の作品は他にも多数あるのですが、やはりこのブリューゲルの一枚が浮かびます。実際の作品のサイズは、59.9×74.6cmと小さいのですが、画面いっぱいにそびえる塔の威容。描かれている人の数は約1,400人とも。虫眼鏡でのぞきたくなるほど、緻密でリアルな細部の描写。そこに描かれた壮大な世界観と、謎多き画家の魅力をぜひ、会場で実感してください。7月2日まで開催です。

 

 

(図説雑学旧約聖書より引用)

 

 

特別展「茶の湯」 東京国立博物館 

 

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特別展「茶の湯東京国立博物館 

本展示会は、おもに室町時代から近代まで「茶の湯」の美術の変遷を大規模に展観するものです。「茶の湯」をテーマに名品が一堂に会する展覧会は、昭和55年(1980)に東京国立博物館で開催された「茶の美術」展以来、37年ぶりだそうです。

各時代を象徴する名品を通じて、それらに寄り添った人々の心の軌跡、そして次代に伝えるべき日本の美の粋を感じることができます。

国宝の曜変天目 稲葉天目(写真の右下)は展示期間が5月7日までで、残念ながら今回は見ることが出来ませんでしたが、他にも素晴らしいコレクションが多数出品されておりました。当時の茶室を再現したコーナーもあり、茶道に詳しくなくても十分楽しめます。

 

 

 

『檸檬』 梶井基次郎 無名のまま31歳で生涯を終える 


無名のまま31歳で生涯を終えたが

のちに「檸檬」が高評価を受け
その名が知られる



梶井基次郎(かじいもとじろう)

 明治34年(1901)、大阪に生まれる。京都大学卒業。この頃より結核、神経衰弱を発症し、以後病魔に苦しみつつも放蕩生活を続け、夏目漱石などに傾倒。23歳で東京大学文学部へ入学。。在学中の大正14年に同人誌『青空』を創刊、「檸檬(レモン)」を発表。初めて原稿料をもらったその年に結核が悪化し、昭和7年に無名のまま31歳で生涯を終えたましたが、死の前年に出版された単行本『檸檬』が高評価を受け、その名が知られることとなりました。

 

川端康成の手伝いをする

 大正15年(1926)、療養のために訪れた伊豆の湯ヶ島で、川端康成萩原朔太郎らと出会います。やがて基次郎は康成の『伊豆の踊子』の校正を手伝うことになるのですが、その見事な仕事ぶりを目にした康成は「彼は私の作品の字の間違いを校正したのではなく、作者の心の隙を校正したのであった」と驚いた。

 

檸檬

変にくすぐったい気持ちが街の上の私をほほえませた。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾をしかけてきた奇妙な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。

 得体のしれない憂鬱な心情や、ふと抱いたいたずらな感情を色彩豊かな事物や心象と共に誌的に描いた作品。三高時代の梶井が京都に下宿していた時の鬱屈した心理を背景に、一個のレモンと出会ったときの感動や、それを丸善(洋書店)の書棚の前に置き、鮮やかなレモンの爆弾を仕掛けたつもりで逃走するという空想が描かれています。
 この「檸檬」は、たった数ページの小品です。本書には他に「Kの昇天」や「冬の蠅」「のんきな患者」など、全14作品が収録されており、アメリカ、スペイン、中国、フランス、ドイツなどでも翻訳されています。

 

檸檬 (角川文庫)

檸檬 (角川文庫)

 

 

 

 

中島 敦『山月記』 わずか8か月の輝き 

 

わずか8か月の輝き
文学史に流れて消えた彗星

 

李陵・山月記

李陵・山月記

 

 

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文芸史に名を残した中島敦

 今回は、芥川賞候補となり『山月記』『李陵』などの名作を生んだことで昭和の文芸史に名を残した中島敦(なかじまあつし)についてです。
 作品は漢文的な書き方で注釈が多く取っつきにくそうですが、ほんの数十ページです。多少、労を割いてでも読む価値はあります。ぜひこの彗星の輝きに触れてみてください。

 

数こそ少ないが、珠玉のような輝き

 中島敦は短い生涯にわずか二十編たらずの作品しか残していません。それも未完成のものが入っているので、完成した作品は本当に少ない。しかし、数こそ少ないけど、珠玉のように光輝を放って、永遠に忘れられぬ作家となり、作品の芸術性は高く、古典の域に達しています。
 『山月記』は人が虎に変身してしまう話で、中国の古典が基礎にあるものの、西欧文学への傾倒もあり、英訳によるフランツ・カフカやデイヴィッド・ガーネット、D・H ロレンス等にも親しんだという。

 

成績は優秀だったが

 明治42年(1909)中学の漢文教師として働く父の長男として東京で生まれ、父親の転勤で、奈良、静岡、そして朝鮮と転々とします。父ばかりでなく、祖父も伯父も代々、漢学者という家系で幼い頃から学校の成績は常にトップクラス。旧制第一高等学校から東京大学に進学します。森鴎外の研究のために大学院に進むが中退している。
 ただし、私生活は波乱含みで、2歳で両親が離婚。その後、二人の継母に育てられるが、折り合いは良くなかった。大学時代は、麻雀やダンスホールでの遊興に明け暮れ、入り浸っていた麻雀クラブの女性従業員・橋本タカとの間に子どもまで生まれる始末。

 

女学校の教師として人気者に

 昭和8年(1933)に大学を卒業。成績優秀ながら、朝日新聞社の入社試験で二次の身体検査に落ち、持病の喘息もあったが、妻子(橋本タカ)ともようやく一緒に暮らし始めます。父親のツテで私立横浜高等女学校の教職に就きます(この年に、のちに大女優・原節子と呼ばれる少女、会田昌江が入学している)。
 女学校では国語や英語を担当し、明るくて気配りもできたので生徒や教師からも好かれたが、学生時代から抱き続けた文学への想いは断ち切れず、教職と並行して執筆活動も進めていった。

 

わずか8か月の輝き

 昭和16年(1941)体調が悪化し、8年の教師生活に別れを告げ退職します。南洋庁に転職すると、治療も兼ねて国語編集記としてパラオに赴任。ところが現地では風土病に悩まされ、太平洋戦争開戦という事情も重なり、翌年に帰国。
 これに先立つパラオ出発前に書き留めていた原稿を友人の深田久弥に託していたのですが、『山月記』『文字禍』の2編が雑誌「文學界」に掲載されました。さらに『光と風と夢』が芥川賞候補になったことで作家としての道が開けます。これにより、南洋庁を退職。創作に専念して『名人伝』『弟子』『李陵』などを次々と執筆しました。
 しかし、病状はさらに悪化し、昭和17年(1942)12月に、33歳の若さで世を去ってしまいます。作家として認められた期間は生前1年にも満たなかったのです。ただ、執筆した原稿の多くは死後に出版され、高い評価を得て中島敦の名は文学史に刻まれることとなりました。

 

山月記』について

 山月記は、昭和17年(1942)に発表された中島敦の短編小説で、精緻な文章から今でも国語の教科書などに掲載されることが多いですね。以下はあらすじです。内容紹介については、下記のブログ記事(『山月記中島敦 江守徹の朗読)に記載しています。
 若くして高級官僚となった秀才、李徴は詩人として名を残そうと考えて辞職し、詩作に専念した。しかし、これに挫折し仕方なく地方の小役人となったものの、ついに発狂し、消息を絶つ。実は虎に変身していたのだが、翌年のある月夜に旧友の高官、袁蛯に遭遇する。これまでの経緯を話し、自作の詩を書き取ってもらい、妻子には自分は死んだと伝えるよう頼んで姿を消す。

 

山月記に登場する李徴の言葉

 「人生は何事をもなさぬには余りに長いが、何事かをなすには余りに短い」
 中島敦はこの李徴に自分を重ねていたのかもしれません。この『山月記』を発表した年に、亡くなりました。

 
『「文豪」がよくわかる本』から抜粋

 

 

山月記』をもっと詳しく

 
「文豪」がよくわかる本

「文豪」がよくわかる本