きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『福翁自伝』 福沢諭吉 人間としての魅力が満載

 

福沢諭吉の人となりが
ユーモア感覚にあふれていて
とにかく面白い!


 豊前中津奥平藩の下級士族の末子が「窮屈な小さい箱」をヒョイト飛び出し、洋学を志して長崎、大阪、江戸へ、欧米へ ... 
 幕末・維新の大変化の時代を「自由自在に運動」し、慶應義塾を創設。「大いに西洋文化の空気を吹き込」んで日本の思想的近代化に貢献した福沢諭吉。その痛快無類の人生を存分に語り尽くした自伝文学の最高傑作。

福翁自伝 (講談社学術文庫)

福翁自伝 (講談社学術文庫)

 

 

口述での脱稿による自伝

 この『福翁自伝』の成立については明治30年の秋、「ある外国人のもとめに応じて維新前後の実歴談を述べたる折、ふと思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、みずから校正を加え」て脱稿したものであった。すべて記憶によって思い出すまま口述したという。

 

蘭学ではなく英語の時代に

 蘭学を習熟していた諭吉に大変なことが起きる。安政6年に五国条約というものが発布になったので、横浜はまさしく開けたばかりのところ、見物に行った。その時の横浜というのは外国人がチラホラ来ていて、店を出していた。そこへ行ってみたところがちっとも言葉が通じない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分からない。何を見ても私の知っている文字というものがない。

 諭吉は、横浜から帰って落胆してしまった。今まで数年のあいだ死物狂いになってオランダの書を読むことを勉強した。その勉強したものが、今は何もならない。世界に英語が普通に行われていることはかねてから知っていたが、何でもあれは英語に違いないと思った。今わが国は条約を結んで開けかかっている、この後は英語が必要になるに違いない。洋学者として英語を知らなければとても何にも通ずることが出来ない。それから以来は一切万事英語と覚悟をきめた。しかし、江戸中で英語を教えている所があるわけがなかった。

 

福沢諭吉の人となり

・とにかく何をするにも手先が器用でマメな性格。物の工夫をするような事が得意だった。

・いわゆる美術という思想は少しもない。平生万事至極殺風景で、衣服住居などにいっさい頓着せず、どういう家にいてもどんな着物を着ても何とも思わない。

酒が大好き。生来酒をたしなむというのが一大欠点、生まれたまま物心の出来た時から自然に好きだった。少しでも手もとに金があればすぐに飲むことを考えていた。また大阪で牛鍋を喰わせるところが二軒あって、牛肉が好きだった。

・少年の時から至極元気のいい男だが、生まれつき気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌いで、ちょっとした怪我でも血が出ると顔色が青くなる。死人の話を聞いても逃げ廻るというような臆病者だった。

・私は幕府の用をしているけれども、いかなこと幕府をたすけなければならぬとかいうような事を考えたことがない。私の主義にすれば第一鎖国が嫌い、古風の門閥無理圧制が大嫌い。いっさい政治の事について口を出そうと思わない。

・自分に宗教の信心はない。

・私の考えは、この鎖国の日本を開いて西洋流の文明に導き、富国強兵もって世界中におくれを取らぬようにしたい。

・私の性質はぜんたい放任主義といおうか、または小欲にして大無欲とでもいおうか、是非とも慶應義塾を永久に遺しておかなければならぬという義務もなければ名誉心もないと、初めから安心決定しているから、したがって世の中に怖いものがない。

借金ぐらい怖いものはない。一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。私は借金の事について大の臆病者で、少しも勇気がない。

・酒はもとより好きだから朋友と酒を飲みに行くことはある。しかし、ひとりでブラリと料理茶屋に入って酒を飲むなぞということはかりそめにもしたことがない。それほどに私が金を大事にするから、また同時に人の金も決して貪らない。

・なんだか私が潔白な男のように見えるが、なかなかそうではない。この潔白な男が本藩の政庁に対しては不潔白とも卑劣とも名状すべからざる挙動をしてしまう。

・私は金銭の事を至極大切にするが、商売ははなはだ不得手である。

・かりそめにも身事家事の私を他人に相談したこともなければまた依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の差図を受けようとも思わず、人間万事天運にありと覚悟して、勉めることはあくまでも根気よく勉める。

・どちらかといえばおしゃべりの方であったが、本当をいうと表面ばかりで、人に誉められて嬉しくもなく、悪くいわれて怖くもなく、すべて無頓着。

家の中に秘密事なしというのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない。

・子供の教育法については、私は専ら身体の方を大事にして、幼少の時からしいて読書などさせない。まず獣身を成して後に人心を養うというのが私の主義であるから、生まれて三歳五歳まではいろはの字も見せない。

 ・知る人の数は何千も何万もあるその中で、誰と喧嘩したことも義絶したこともない。

・私の身の丈は五尺七寸(173.6センチ)、体重は十八貫(67キロ)。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし。

・私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかりである。

 

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 一枚の秘密の写真

 万延元年(1860年)日本最初の海外派遣使節団が咸臨丸でサンフランシスコを目指した。艦長の勝海舟をはじめ総員96名が乗り込み、27歳の福沢諭吉もその中の一人でした。

 この写真屋には前にも行ったことがあるが、そのとき私ひとりで行ったところが娘がいたから「お前さん一緒に撮ろうではないか」というと、アメリカの娘だから何とも思いはしない、「撮りましょう」というて一緒に撮ったのである。

 当時12歳の写真屋の娘テオドラ・アリスと写真を撮ったことを自慢したいため、仲間に真似されないよう帰りのハワイまで秘密にしていたという。なんともお茶目でネアカな福沢諭吉である。