きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『無名の人生』 渡辺京二

 

名著『逝きし世の面影』の著者
初めての語りおろし
生きるのがしんどい人びとにエールを送りたい

 

無名の人生 (文春新書)

無名の人生 (文春新書)

 

 

 

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渡辺京二(わたなべきょうじ)
1930年、京都生れ。大連一中、旧制第五高等学校文科を経て、法政大学社会学部卒業。評論家。河合文化教育研究所主任研究員。熊本市在住。著書に『逝きし世の面影』『評伝 宮崎滔天』『北一輝』『アーリイモダンの夢』『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』『近代の呪い』『幻影の明治』『無名の人生』など。

 

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『無名の人生』あらすじ

 戦前の最先端都市、大連で少年期を過ごし、その後の熊本への引揚げですべてを失い、戦後を身ひとつで生きぬいてきた著者。「自分で自分の一生の主人であろう」としたその半生をもとに語られる幸福論。

 

 

幸福と不幸は糾える縄の如し

 人が幸福だとは、一体どういうことを言うのでしょうか。一個の人間が一生を通して幸せに過ごそうなどというのは、欲の皮が突っ張りすぎなのかもしれません。
 幸福と不幸は糾(あざな)える 縄の如しで、こいつは不幸のはじまりかと心配したら、実際は幸せのはじまりだったということもあれば、せっかく幸福をつかんだと思ったのに、とんでもない不幸が待ち受けていたとか、人生いろいろです。

 

人生をあるがままに受けとめる

 すべての不幸を避けるなど不可能だと言えます。不幸の種はかぎりなくこの世に存在していて、どうあがいても不幸は、人生に起こってくるものだからです。逆にいうなら、幸せなことがまったくない一生もないはずです。人間の一生には幸福も不幸もあるけれど、その評価は、自分で一生を総括してどう考えるのかの問題だということになります。
 人間の幸福とは、摑みどころのないもの。それでも、ひとつだけ言えることがある。幸不幸の入り混じった人生ではあったけれど、どちらがより多かったのか、無駄な一生だったと振り返るのか、それとも実りの多い一生だったと思うのか。その際、大切なことは、自分の人生をあるがままに受けとめることでしょう。

 

 

近代化が人間の能力を奪う

現代文明がつくりだす人工的な空間

 考えてみると、われわれの生きている世界は途方もなく豊穣です。この世界は、いろんな形に満ちている、声や音色に満ちている。色彩に満ちている。それにひきかえて、現代文明がつくりだしている人工的な空間は、ひたすらクリーンです。歪みや汚れがない規格品のようで、単調なこときわまりない。逆にいえば、非常に単調であるがゆえに、歪みも汚れも乱雑さも含まない、じつに貧しい世界。
 こうした現代文明が行きついた地点についてほかの誰もが見なかったような様相を見抜いた偉大な見者がいます。イバン・イリイチです。彼は1926年にオーストリアのウィーンに生まれ、2002年に76歳で亡くなりました。

 

貧困問題など俺には関係ない

 イリイチの著書『生きる意味』に、こういうくだりがあります。
 ある人から「エチオピアの貧困問題をどうすべきだと思うか」と問われて、イリイチは答えます。
 「アイ・ドント・ケア( I don't care )」
 かなりショッキングな言葉です。
 「ケア」という単語は、「世話をする」とか「面倒をみる」という意味で、否定形だと「俺には関係ないよ」「どうでもいいさ」といったニュアンスになり、要するに「エチオピアの貧困問題など俺には関係ないよ」という意味に取れる言葉です。
 一体、イリイチの真意はどこにあったのでしょうか。この言葉からは、イリイチが「ケア」というものを、どれほど根本から批判していたかがわかります。

 

ケアを看破していたイリイチ

 ケアとは、人間の存在を「ニーズ(基本的な欲求)の固まり」として捉える人間観にもとづいています。そうしたニーズをひとつひとつ満たしていくのがケアである、と。しかし、じつは、ケアこそが、もともとありもしなかった人びとのニーズをつくりだしているのではないか。これが、イリイチが看破したことでした。
 現代社会には、商品化され、また行政管理の対象となるケアが、いたるところに存在しています。その領域はいくつにも分かれ、各領域のニーズを診断し、それぞれに合ったケアを提供する専門家が存在する。
 彼らがそれぞれの専門領域ごとに提供するケア ー 近代化という名のもとになされる事業 ー をイリイチは根本から嫌いました。専門家は、「人びとのニーズに応えるためにケアを提供している」と思っている。そしてそのことが、彼ら自身の専門家としての存在理由ともなっている。しかし、じつは、彼らがそう思い込んでいるだけであって、むしろ専門家がもともとはありもしなかったニーズをつくりだし、ケアを通じて、結局は、人びとの生を管理しているのだ、と。しかも、使命感をもって熱心に働いている専門家ほど、事態を悪化させているのだ、と。

 

自力でつくりだす能力を奪う

 アフリカの貧困問題を解決しなければならない。そのために国際機関が出動しなければならない。先進国は食糧品を供与せねばならない。そうやって専門家がドカドカと地域に入っていく。そこでさまざまな近代化の事業を展開する。そうやってケアに依存するしかない人びとをつくりだしていく。
 しかし、人間は、本来、自然と交渉して、自らの生活空間を自力でつくりだす能力をもっているとイリイチは考えます。モノを消費することではなく自分で必要なモノをつくりだすことこそ人間の面目であり、他者との共生や福祉も自主的な地域共同体の活動によってもたらされるべきである、と。人間はもともとそういう能力をもっているのに、専門家がケアを排他的に提供することで、その役割を「専門家」として独占することで、むしろ人間からそうした能力を奪っている、と。