きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

石川啄木 『一握の砂・悲しき玩具』

 

貧しさと病苦にあえぎながら
27歳にして世を去った天才歌人

 

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

 

 

生活苦を詠んだ歌人
実は女遊びで借金まみれ
その貧窮は自業自得か

 

 

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石川啄木(いしかわたくぼく)
1886年明治19年岩手県盛岡市生まれ。歌人、詩人。本名は石川一(いしかわはじめ)。1912年(明治45年)結核のため死去。26歳没。写真の左は親友の金田一京助

 寺の住職の一人息子として生まれ、文学を志すも作品は売れず、小学校の代用教員や、小樽日報の記者、東京朝日新聞社の校正係などを務めた。金田一京助など友人から多額の借財を重ねつつ作品を発表するが、肺結核を患い貧窮の中に生涯を閉じる。『一握の砂』『悲しき玩具』など、生活上の詠嘆を題材とした歌集が高く評価されたのは、その死後のことであった。石川啄木の作品は、短歌の「五・七・五・七・七」ではなく、「三行書き」のスタイルで、詩のようなイメージを持たせた口語体の表現が特徴的だ。 (石川啄木 - Wikipedia)

 

 

カンニングがバレて中学校を中退

 「はたらけど  はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり  ぢっと手を見る」この歌のように懸命に生きながらも報われないまま、短い生涯を終えた薄幸(はっこう)歌人という印象が強い石川啄木。だが、実態はだいぶかけ離れていたようだ。幼少期の暮らしは決して貧しくなかった。盛岡中学校中退も期末試験で2度のカンニングが発覚したという理由によるものだ。なお、この中学時代にのちに妻となる堀合節子や親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合いになる。

 

文学活動を始めるも家庭危機に

 19歳で処女詩集『あこがれ』を出版した啄木だったが、この出版費用のため、住職だった父が檀家との間で金銭トラブルを起こして寺を追われる。その一方で、19歳の啄木は初恋の相手である堀合節子と結婚。一家が経済的に追い詰められる中、啄木は母校で代用教員として働き始めるが、それでも困窮を極めてゆく。節子は娘を連れて、生活苦や義母との不和に耐えかね、盛岡の実家に帰ってしまった。

 

女性依存と嫉妬深さ

 妻子がある身でありながら、東京では何人もの芸者と交際するなど、非常に奔放である。一方で、妻子に家出されてひどく落ち込むなど、女性に依存する面もある。手紙から妻と友人・宮崎郁雨(みやざきいくう / 歌人の浮気を疑い絶縁するなど、嫉妬深い顔も見せる。

 

『ローマ字日記』を書き始めたころ

 東京朝日新聞の校正係として働き始めた啄木は、雑誌「スバル」を創刊し、同誌上で小説を発表。家出していた節子も親友・金田一京助らの尽力で帰宅する。のちに赤裸々な日記文学として評価される『ローマ字日記』を書き始めたのもこの頃。そこには、貧乏に耐えながら文学に情熱を注いだ一面とは異なる啄木の素顔が、時に露骨な性描写を交えて赤裸々に綴られている。それによると、他人から借りたお金を女遊びや遊興費に使ってしまったり、仕事を無断欠勤したりと、生活苦にもかかわらず奔放な生活を送っていた。

 

『一握の砂』を1910年に出版

 この頃の啄木は、ようやく歌人として評価を受け、東京朝日新聞の朝日花壇の選者に抜擢されると共に、24歳で初の歌集『一握の砂 (いちあくのすな)』を出版する。とはいえ、貧困から抜け出すには程遠く、さらに啄木は持病の結核を悪化させてしまう。病に倒れた啄木は、妻子と父、親しかった歌人若山牧水に看取られ、26歳の短い人生を終えた。この『一握の砂』は全部で551首が収められ、5部構成となっている。

 

「たかり魔」石川啄木

 啄木はいわゆる「たかり魔」で、困窮した生活ゆえに頻繁に友人知人からお金をせびっていた。特に先輩の金田一京助樺太に出張中にも啄木からの金の無心を受けた。このように啄木は各方面に借金をしており、またそのことを自身で記録している。合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる(2000年頃の物価換算では1400万円ほど)。この借金の記録は、宮崎郁雨によって発表されたが、この後の啄木の評価は「借金魔」「金にだらしない男」「社会的に無能力な男」というのが加わるようになった。

 

傲慢不遜な一面も

 啄木は友人宛の手紙で浦原有明を「余程食へぬやうな奴だがだましやすい」、薄田泣菫与謝野鉄幹を「時代おくれの幻滅作家」と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を侮辱したほか、友人からの援助で生活を維持していたにもかかわらず「一度でも我に頭を下げさし  人みな死ねと  いのりてしこと」と詠んだ句を遺すなど傲慢不遜(ごうまんふそん / 人を見下す態度)な一面もあった。

 

人懐っこさと甘さや弱さを晒せる人間性

 往年の文豪には何かと人間的にクズな逸話も多いが、啄木は飛びぬけている。中原中也と並び、文豪2大クズとも言われる(太宰治を入れると3人)。しかし、このような生活ぶりでも妻への想いと、啄木の人懐っこさや憎まれにくい性格も。彼の人間性が彼の作品の質を落とすものではない。クズだと言われても仕方がないかも知れないが、歌人として詠んだ歌や小説は評価が高いものが多い。自分の甘さや弱さを平然と人前に晒(さら)せる人間性が啄木の最大の魅力なのかも知れない。

 

石川啄木終焉の地

 啄木は肺の疾患と診断され、療養のために東京府小石川区久堅町(現・東京都文京区)へ転居した。しかしそれも実らず、第二詩集『悲しき玩具』を構想中であった明治45年(1912)4月に病状悪化で死去。現在、その地の隣接地に石川啄木顕彰室がある。

 

 

 

『一握の砂』

 

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

東海の小島とは日本のことで、磯は北海道函館の大森浜。若き日々の悲しみを詠んでいる。あふれてくる悲しみに耐えかねて心が沈み、涙に濡れたことを懐かしむ気持ち、北海道函館の大森浜での悲しみを回想して歌っている。

 

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る

啄木の生活苦を歌った一首。啄木は中学を中退し文学を志したが、当時の文壇・歌壇は学歴主義の壁があった。「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」(『一握の砂』)という歌を残すほどプライドの高い啄木は、満足できる職に就けず職を転々とした。

 

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

啄木は母・カツに甘やかされて育っていた。その母に経済面などで苦労をかけ、やせ細らせてしまった。そのことを腕と背中で否応なく実感し、涙を流す啄木の一首。ただし啄木の実妹・光子は、母に迷惑ばかりかけていた兄が母をおんぶするなどありえない、と記している。

 

ふるさとの(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

 ふるさとは啄木の出身地・岩手県である。停車場は東北地方からの鉄道が乗り入れる上野駅を指す。電話が普及していなかった当時、ふるさとの響きが恋しくなった啄木は、それを耳にするためには同駅へ行くしかなかったようだ。

 

 

 

 *参考書籍
『文豪がよくわかる本』(宝島社)
『一握の砂・悲しき玩具』(新潮社)
  ほかにWikipediaなど

 

 

 

 

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