きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『人間失格』 やっぱり太宰治はすごかった

 

太宰治、捨て身の問題作
人間失格』を書くために生れてきた

 

人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)

 

 

あらすじ

 太宰治の代表作の一つ。道化を演じた幼少期から、情死事件を起こしたり自殺未遂をする青年期まで、主人公の苦悩が3つの手記によって綴られており、生誕百年の2009年に初めて映画化された。

 

恥の多い生涯を送って来ました

 「恥の多い生涯を送って来ました」そんな身もふたもない告白から男の手記は始まる。男は自分を偽り、ひとを欺(あざむ)き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。でも男が不在になると彼を懐かしんで、ある女性は語るのだ。「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。ひとがひととして、ひとと生きる意味を問う、太宰治、捨て身の問題作。(本書より)


人間失格』を書くために生まれてきた

 主人公・大庭葉蔵の手記として「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」で始まる本作は、毎日の生活を告白するような体裁ですすみます。なお、以下の解説文を読んでもなかなかそのすごさが伝わりにくいかも知れません。太宰は、これを書くために生まれてきた、とまで言われます。

 

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用意周到の緻密な作品

 新潮文庫の累計販売部数だけでも600万部を超え、夏目漱石の『こころ』と並ぶ一大傑作です。この『人間失格』出稿後に玉川上水で入水自殺してしまいます。なので、本作については「勢い任せに書かれた、走り書きのような作品」のように思われますが、直筆原稿から200字詰めで157枚に及ぶ中編の量があり、その内容は構想と推敲が練り尽くされた「用意周到の緻密な作品」と見直されています。
 集英社の新装丁のイラストに『DEATH NOTE』の小畑健氏を起用したことで1か月半で7万5千部を売上げ、大ヒットとなりました。(上記)

 

主な登場人物

・大庭葉蔵
主人公。東北の金満家の末息子。子どもの時から気が弱く人を恐れているが、その本心を悟られまいと道化を演じる。自然と女性が寄ってくるほどの美男子。

・竹一
中学生の同級生。葉蔵の道化を見抜く。葉蔵に対し「女に惚れられる」、アメデオ・モディリアーニに霊感を受け書いた陰鬱な自画像を見て「偉い絵画きになる」という二つの予言をする。顔が青膨れでクラスで最も貧弱な体格。

・堀木正雄
葉蔵が通う画塾の生徒。葉蔵より6つ年上(26~27歳)。葉蔵に酒、煙草、淫売婦、質屋、左翼運動など様々なことを教え、奇妙な交友関係を育む。遊び上手。下町・浅草で生まれ育っており、実家はしがない下駄屋。

・ツネ子
カフェの女給。22歳で広島出身。周りから孤立していて寂しい雰囲気がある。夫が刑務所にいる。葉蔵と入水心中して死亡する。

・シヅ子
雑誌の記者。28歳で山梨県出身。夫とは死別。葉蔵に漫画の寄稿をすすめる。痩せていて背が高い。

・ヨシ子
バーの向かいのタバコ屋の娘。登場時18歳。処女で疑いを知らぬ無垢な心の持ち主。信頼の天才。色が白く、八重歯がある。

・ヒラメ(渋田)
古物商。40代で東北出身。計算高く、おしゃべり。葉蔵の父親の太鼓持ち的な人物。葉蔵の身元保証人を頼まれる。眼つきが鮃に似ており、ずんぐりとした体つきで独身。

 

第一の手記

 作者はまず主人公を人間社会の異邦人として設定する。自分は世界の営みから疎外され、外界との生ける接触感がなく、自分だけが人と異なる内的な自閉世界に住み、生きるためのエゴイズム、生活力が不足していて、人間が信じられず、人間に恐れを抱いているが、けれどどうにかして人間らしい人間になりたい、人を真に愛し、信じたい、自分を偽らず真実に生きたい、弱いけれど美しい人々の味方になりたい、けれどそのため女性にいつもかまわれる人間になったという主人公の性格、宿命を「第一の手記」「第二の手記」で描く。生来の臆病から、主人公の大庭は対人における打開策として「道化を演じる法」を選ぶ。

 

第二の手記

 竹一という友人に道化の陰にかくした自分の本質を見抜かれた衝動や自画像を描いてしまったくだりは、迫力がある。作者はこのような主人公を設定することにより、社会の既成の価値観や倫理を原質状態に還元させ、その本質をあらわにさせる。

 

第三の手記

 この主人公が、自己にあくまでも真実でありながら、人間に対し愛と信頼を求めようとし、そのために人間社会から葬られ、敗北して行く過程を描いている。その敗北の過程を疎外された人間の目を通して、普通の人には見えない社会の偽りを、人間の隠された本質的な悪を浮き彫りにして行く。堀木やヒラメという生涯の敵である、善人の、世間人の皮を被った悪人の本質がはっきりと読者の目にも見えてくる。ケチ、偽善、エゴイズム、卑しさ、意識せざる暴力、それら俗世間の醜さが主人公の目を通して奇怪な陰画のように定着される。

 一緒に入水したツネ子の持つ秋のような寂しい雰囲気、ヒラメ親子のわびしい生活、シヅ子親子のつつましやかな幸福、青葉の滝のようなヨシ子の無垢な処女性の美しさ、これらが心に水のように深く沁み入ってくる。けれどこの美しさは、太宰の魂の美しさは、すべて挫折する。二・二六事件の夜、「ここは御国を何百里」と歌いながら、雪の上に喀血する場面に、心弱く、貧しく美しい日陰者と敗北者と共に歩む、主人公の、いや太宰のかなしさの極限が表現されている。

 アントニウムごっこをして、罪のアントは罰かと思いついた瞬間、ヨシ子が犯される場面は凄絶である。「そのとき、自分を襲った感情は、怒りでも無く、嫌悪でも無く、また、悲しみでも無く、もの凄まじい恐怖でした。... 神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかも知れないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感でした」という文章に、魂の奥底まで凍るようなおそろしい迫力をおぼえる。

 

永遠の代弁者

 当時の文学青年にとって太宰治は特別の存在であった。敗戦の虚脱と昏迷の中で、太宰治の書くものだけが素直に心にしみ通り信じることができた。そこに自分たちの心情を代弁し表現してくれる唯一の作家を見出していた。大げさな言い方に聞えるかも知れないが、自分たちの存在の根拠を生きて行く理由を、太宰の文学に賭けていたとさえ言える。多くの青年たちが太宰治と共に精神的に一体化し、生き死にを賭けていたひとつの時代が確実にあったのです。

  『人間失格』は作者太宰治の内的、精神的な自叙伝である。もちろん私小説と違って事実そのままではないが、より深い原体験をフィクショナルな方法により表現している。それと同時に自閉的な孤独な疎外された現代人の普遍的な人間像をとらえている。この作品は、ある性格を持って生れた人々の、弱き美しき悲しき純粋な魂を持った人々の永遠の代弁者であり、救いであるのだ。太宰治は『人間失格』一遍を書くため生れて来た文学者であり、この一遍の小説により、永遠に人々の心の中に生き残るであろう。
(本書巻末解説より)