「ら抜き言葉」 文章術
時代が変われば、言葉も変わる
「ら抜き言葉」は標準に?
「見れる」「食べれる」といった「ら抜き言葉」。一部の人には評判がよろしくない使い方だが、文化庁の2015年度「国語に関する世論調査」では、「ら抜き言葉」を使う人が、使わない人の割合を初めて上回った。
言葉は、長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」と、祖父母世代と孫世代が共存するなかでリアルタイムに起こる「世代差」のふたつで変化していく。「行かれる→行ける」の変化が出だしたのは、室町時代ごろといわれる。対して「見られる→見れる」のいわゆる「ら抜き言葉」が登場したのは、大正・昭和時代からだそうだ。
とはいえ、きちんとした文章を書くときは「ら抜き言葉」は、少なくても標準的ではない。文章の印象を損なう可能性があるので気をつけたい。下記は、ら抜きことばの代表例だ。
見れる → 見られる
着れる → 着られる
来れる → 来られる
食べれる → 食べられる
起きれる → 起きられる
考えれる → 考えられる
覚えれる → 覚えられる
信じれる → 信じられる
生きれる → 生きられる
01-0464
映画『ボヘミアンラプソディ』 感想コメント集
フレディ・マーキュリーの生き様と伝説のバンド<クイーン>の32曲で贈るミュージック・エンターテイメント!
YouTube 『ボヘミアンラプソディ』の予告映像にあげられた感想コメント集
クイーン(QUEEN)
イギリス・ロンドン出身の男性4人組ロック・バンド。1973年デビュー。ブライアン・メイ(ギター他)天文学者(天体物理学博士)、大学院では宇宙工学を研究。QUEENが食えるようになるまで、中学校で教鞭を執っていた。フレディ・マーキュリー(リードボーカル、ピアノ)インドで幼少期を過ごす。大学でグラフィックデザインを専攻。ミュージカルやオペラ、バレエに精通。愛猫家、親日家。HIV感染により1991年11月24日死去、享年45歳。ロジャー・テイラー(ドラムス他)歯科医を目指すも生物学専攻へ、理学士。読書家で来日時には遠藤周作の『沈黙』を持参。ジョン・ディーコン(ベース他)ロンドン大学チェルシーカレッジを首席で卒業。歌は苦手で口パクが多かったという。Wikipedia ほか
映画『ボヘミアンラプソディ』予告編 TRAILLERS 2018
映画『ボヘミアンラプソディ』ビデオクリップ
Queen - Live at LIVE AID 1985.7.13
02-2167
小林秀雄 『学生との対話』
全国の大学から集まった学生達との
胸を打つ対話の記録です
小林秀雄(こばやしひでお)
1902 -1983 東京生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒。文芸批評家、編集者、作家。文化勲章受章。代表作に『ドストエフスキーの生活』『無常という事』『モオツァルト』『ゴッホの手紙』『考えるヒント』『本居宣長』など。腎不全により死去。80歳没。
影響を受けたもの、フョードル・ドストエフスキー、アンリ・ベルクソン、アラン、泉鏡花、幸田露伴、志賀直哉など。
批評とは他人をほめる技術だ
小林秀雄は批評家であり、上記の代表作にあるような文章を書き、日本における近代批評の創始者、確立者として大きな足跡を残した。
批評と聞くと、大抵の人は批難、批評、誹謗といった言葉と同じ意味合いで受け取りがちだが、小林秀雄の言う「批評」は違っていた。永年、批評文を書いてきて、小林秀雄が到達した境地は、「批評とは他人をほめる技術である」だった。― 自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものではない事に、はっきりと気付く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ ...と語っている。
質問することの意味
人と人との対話の意味と併せて、本書のもうひとつの大きな目的は、「質問することの意味」だ。講義や講演での質疑応答では「うまく質問して下さい」と条件をつけ、「そんな質問には答えない」とはねつけたりもしている。実はこれも、先に紹介した「批評とは他人をほめる技術である」と根本は同じなのだ。小林秀雄は、若者たちに、「批評とは上手に質問する技術である」と言ってもよかったはずなのである。
答えばかり求めていないか
しかし、質問するということは、決してやさしいことではない。― 質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのです。ベルクソンもそう言っています。僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている。
質問が切実であること
誰のものでもない自分の人生を、溌剌(はつらつ)と独創的に生きていくために必要なことは、答えを手にすることではない、問いを発明することだ、自分自身で人生に上手に質問することだ、小林秀雄はそう言う。そして、上手に質問するにはどうすればよいか、小林秀雄は具体的に教えている。ひとことでいえば、上手な質問か下手な質問かは、質問する当人にとってそれが切実であるかそうでないかだ。右か左か、賛成か反対かと世論調査のように訊く、これがいちばん下手な質問だといい、小林秀雄が最も嫌った質問だった。学生の質問を、自分自身にとっても切実な問題として聞き取った。
*本書の池田雅延「問うことと答えること」より抜粋
04-1408
三島由紀夫『豊饒の海』初の舞台化
又、会ふぜ。きつと会ふ。
4冊からなる大河小説を一舞台作品として創作する史上初の試み。三島由紀夫の「美」の象徴とも言うべき松枝清顕に、東出昌広が出演。
「又、会ふぜ。きつと会ふ。」という言葉を残し、20歳で生命を落とした男、松枝清顕。
彼を生涯追い求める男、本多繁邦。
そして本多の前に清顕の生まれ変わりとして登場する人々。
存在とは、世界とは、美とは、
そして「私」とは ...
公演日程 2018年11月3日~12月2日
開場 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
原作 三島由紀夫
「豊饒の海」(第1部~第4部)
脚本 長田育恵
演出 マックス・ウェブスター
出演 東出昌大 宮沢氷魚 上杉柊平 大鶴佐助
神野三鈴 初音映莉子 大西多摩恵 篠塚勝
宇井晴雄 王下貴司 斉藤悠 田中美甫
首藤康之 笈田ヨシ
三島の生涯をかけた遺作
このうえもなく美しく優雅な悲しみに満ちた壮大な物語は、全4部作で1700ページを超える。ルビはあるものの漢字や比喩も多く、敬遠されがちだが読み進むにつれて、もう後には引けない、三島文学にハマってしまう。ちょっと面倒くさい男、清顕が物ごとをどんどん複雑にしていくように感じるも、全てにおいて描写が芸術的で美しい。死や仏教、輪廻がテーマになっているが、4作目の「天人五衰」で全てを虚無にし、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地での自死を選んだことで、結局はどこにもたどりつけない、三島の生涯をかけた作品だったのか。人生において大切なものとは何なのかという、とても強い問いが投げかけられている。
劇場でひとときを過ごすということ
初舞台化された今回の『豊饒の海』は、4部ある作品を一つずつ順に並べていくのではなく、第1部の「春の雪」を全体のベースにし、そこに第2部「奔馬」、第3部「暁の寺」、第4部「天人五衰」を組み込むという方法を取っている。すべての物語が同時に起こっていくという構成だ。劇場で過ごす、その空間と時間は日常に潤いを与えてくれるひとときでもある。
*『豊饒の海』紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
*過去の記事『春の雪 豊饒の海(一)』
豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)
- 作者: 三島由紀夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
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03-1377
帝国主義諸国の植民地政策 小室直樹
獣なみの欧米帝国主義国家
ジェノサイドで世界征服を目ろむ
イギリスの帝国主義など
帝国主義の全盛
ナポレオン戦争以後、ヨーロッパ内の戦争と革命、産業革命の完成にともなう経済の再編など、しばらく国内問題に忙殺されていたヨーロッパ列強も、1878年のベルリン会議のころから帝国主義の全盛期になっていく。彼らは全世界を呑噬(どんぜい / のみこむ)せんと、植民地獲得のために征服の進軍を開始した。
侵略は国家の存在証明
当時のヨーロッパは、帝国主義にあらずんば国にあらずといわんばかりの勢いであった。それまでは帝国主義といえば、英仏の専売特許。帝国主義的侵略はヨーロッパでは、国家の存在証明みたいなもの。老舗の帝国主義国たる英仏露に加えて、より強力となったドイツ帝国が帝国主義レースに参加してくる。とはいっても、世界中のめぼしいところは、みんな英仏のような先進帝国主義諸国が占領してしまっている。
力は正義なり
19世紀末、20世紀初頭のイギリスときたら、切取り強盗、居直り強盗もいいところ。南アフリカのボーア人の国に金とダイヤモンドがごっそり出ることがわかると、さっそく攻め込んだ。ボーア人の国は武名を馳せた民族であっても、結局イギリスの版図となった。
英仏露をはじめ、帝国主義国は力の信奉者である。「力は正義なり」を地でゆくのだ。ボーア人のように勇敢に闘うか、アルゼンチンのようにイギリスを先生とあがめて、その指導のもと南米一の大海軍国にでもなれば少しはましに取り扱ってくれる。これに反し、まともな武力がないとなると、これは奴隷も同様。いったん、帝国主義国家の植民地になったら最後、万事休すであった。
織物産業を梃にしたイギリス経済
イギリス経済をして世界に冠たるものとならしめたのは、マンチェスター、ランカスターなどの織物産業である。織物産業を梃(てこ)にしてイギリス経済は、スペインを追い落とし、オランダを追い落とし、次々に先進諸国を撃破してヨーロッパを征服した。
帝国主義国のやり口
イギリスの織物産業は、産業革命をもってしてもダッカのベンガル織物にはかなわなかった。しかし、このままでは世界征服ができない、となるとイギリスはダッカの織工を集めて手を切り落とす。これが、帝国主義のやり口だ。イギリスは民族殲滅の名人なのだ。ヒトラーはユダヤ人を鏖し(皆殺し)にしようとしたが果たせなかった。ところがイギリスは、タスマニア人を本当に鏖しにしてしまった。
*民族殲滅(みんぞくせんめつ)とはジェノサイドのこと。皆殺し、大量殺害を意味し、残らず滅ぼすこと。
猛獣狩りにされたタスマニア人
ではイギリスはなぜ、タスマニア人を鏖し(皆殺し)にしたのか。タスマニア人は原始人に近い人びとで、イギリス人と戦う力もなければ意図もない。だから少しの抵抗もなかった。タスマニア人がイギリス人に鏖しにされたほんとうのわけは、オーストラリアに猛獣がいなかったからである。猛獣狩りはイギリス人のお家芸。殺生が滅法に好きで本国では、貴族は狐狩りをたのしむ。
オーストラリアに漂着したイギリス人。猛獣がいないので退屈で仕方がない。タスマニア島を見ると、原始人が住んでいた。タスマニア人はアメリカのバッファローなみのあつかいで、絶滅してしまった。このようなことはイギリスだけでなく、その他の帝国主義諸国だって、やることといえば、どれも似たもの。
ハワイを奪い女王を島流し
19世紀も末になると、英仏露といったベテラン帝国主義諸国に加えて、ドイツ、アメリカはじめ、めぼしい欧米諸国は続々と帝国主義レースに参加してきた。
アメリカは、モンロー主義をかなぐりすてて、門戸開放主義を標榜するようになった。「門戸開放」とは、てっとり早くいえば、なるべく外国を侵略しましょうということだ。たとえば、ハワイはカメハメハ王朝下の独立国であったが、アメリカはハワイを植民地にして、女王を島流しにした。また、フィリピンをスペインから奪った。
*モンロー主義とは、アメリカと欧州間の相互不干渉を提唱した外交政策
奴隷牧場で大金持ちになった資本家
だが、アメリカはフィリピンやハワイであまり残酷なことはしなかった。それというのも米大陸で、残酷なことはしつくしてきたからである。アメリカがインディアンに対してどういうことをしたか。これはよく知られている。しかし、アメリカ帝国主義の残酷物語で白眉というべきは、奴隷牧場であろう。
アメリカは、はじめのうちこそ黒人奴隷をアフリカから輸入していたが、国内生産を思いたった。奴隷のなかでも、商品として一番高く売れるのが白人との混血児である。そこで資本家は黒人の女性をたくさん集めてくる。そして健康で知能のほうもある程度の白人の男を雇う。この男は奴隷ではなく、れっきとした労働者である。種つけ工ということだ。かくして生まれた子どもは奴隷として高く売れる。こうして奴隷商人いや、奴隷牧場主として大金持ちになった資本家はずいぶんといた。
獣なみの欧米帝国主義国家
欧米帝国主義国家は、大国にかぎられてはいなかった。イタリアはいうまでもなく、ベルギーのような小国ですら、帝国主義レースに参加してきた。老いたりとはいえオランダも依然として帝国主義国家としての地位を保全していた。
大国といわず小国といわず、宗主国の市民が植民地の人びとに対する態度ときたら、まるで人間ではなく、獣なみであった。
中国を分け取りにする帝国主義列強の風刺画
(左から英・独・露・仏・日本)
* 上記の記事は『韓国の悲劇』からの抜粋です
09-2397
石川啄木 『一握の砂・悲しき玩具』
貧しさと病苦にあえぎながら
27歳にして世を去った天才歌人
生活苦を詠んだ歌人
実は女遊びで借金まみれ
その貧窮は自業自得か
石川啄木(いしかわたくぼく)
1886年(明治19年)岩手県盛岡市生まれ。歌人、詩人。本名は石川一(いしかわはじめ)。1912年(明治45年)結核のため死去。26歳没。写真の左は親友の金田一京助。
寺の住職の一人息子として生まれ、文学を志すも作品は売れず、小学校の代用教員や、小樽日報の記者、東京朝日新聞社の校正係などを務めた。金田一京助など友人から多額の借財を重ねつつ作品を発表するが、肺結核を患い貧窮の中に生涯を閉じる。『一握の砂』『悲しき玩具』など、生活上の詠嘆を題材とした歌集が高く評価されたのは、その死後のことであった。石川啄木の作品は、短歌の「五・七・五・七・七」ではなく、「三行書き」のスタイルで、詩のようなイメージを持たせた口語体の表現が特徴的だ。 (石川啄木 - Wikipedia)
カンニングがバレて中学校を中退
「はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」この歌のように懸命に生きながらも報われないまま、短い生涯を終えた薄幸(はっこう)の歌人という印象が強い石川啄木。だが、実態はだいぶかけ離れていたようだ。幼少期の暮らしは決して貧しくなかった。盛岡中学校中退も期末試験で2度のカンニングが発覚したという理由によるものだ。なお、この中学時代にのちに妻となる堀合節子や親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合いになる。
文学活動を始めるも家庭危機に
19歳で処女詩集『あこがれ』を出版した啄木だったが、この出版費用のため、住職だった父が檀家との間で金銭トラブルを起こして寺を追われる。その一方で、19歳の啄木は初恋の相手である堀合節子と結婚。一家が経済的に追い詰められる中、啄木は母校で代用教員として働き始めるが、それでも困窮を極めてゆく。節子は娘を連れて、生活苦や義母との不和に耐えかね、盛岡の実家に帰ってしまった。
女性依存と嫉妬深さ
妻子がある身でありながら、東京では何人もの芸者と交際するなど、非常に奔放である。一方で、妻子に家出されてひどく落ち込むなど、女性に依存する面もある。手紙から妻と友人・宮崎郁雨(みやざきいくう / 歌人)の浮気を疑い絶縁するなど、嫉妬深い顔も見せる。
『ローマ字日記』を書き始めたころ
東京朝日新聞の校正係として働き始めた啄木は、雑誌「スバル」を創刊し、同誌上で小説を発表。家出していた節子も親友・金田一京助らの尽力で帰宅する。のちに赤裸々な日記文学として評価される『ローマ字日記』を書き始めたのもこの頃。そこには、貧乏に耐えながら文学に情熱を注いだ一面とは異なる啄木の素顔が、時に露骨な性描写を交えて赤裸々に綴られている。それによると、他人から借りたお金を女遊びや遊興費に使ってしまったり、仕事を無断欠勤したりと、生活苦にもかかわらず奔放な生活を送っていた。
『一握の砂』を1910年に出版
この頃の啄木は、ようやく歌人として評価を受け、東京朝日新聞の朝日花壇の選者に抜擢されると共に、24歳で初の歌集『一握の砂 (いちあくのすな)』を出版する。とはいえ、貧困から抜け出すには程遠く、さらに啄木は持病の結核を悪化させてしまう。病に倒れた啄木は、妻子と父、親しかった歌人・若山牧水に看取られ、26歳の短い人生を終えた。この『一握の砂』は全部で551首が収められ、5部構成となっている。
「たかり魔」石川啄木
啄木はいわゆる「たかり魔」で、困窮した生活ゆえに頻繁に友人知人からお金をせびっていた。特に先輩の金田一京助は樺太に出張中にも啄木からの金の無心を受けた。このように啄木は各方面に借金をしており、またそのことを自身で記録している。合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる(2000年頃の物価換算では1400万円ほど)。この借金の記録は、宮崎郁雨によって発表されたが、この後の啄木の評価は「借金魔」「金にだらしない男」「社会的に無能力な男」というのが加わるようになった。
傲慢不遜な一面も
啄木は友人宛の手紙で浦原有明を「余程食へぬやうな奴だがだましやすい」、薄田泣菫や与謝野鉄幹を「時代おくれの幻滅作家」と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を侮辱したほか、友人からの援助で生活を維持していたにもかかわらず「一度でも我に頭を下げさし 人みな死ねと いのりてしこと」と詠んだ句を遺すなど傲慢不遜(ごうまんふそん / 人を見下す態度)な一面もあった。
人懐っこさと甘さや弱さを晒せる人間性
往年の文豪には何かと人間的にクズな逸話も多いが、啄木は飛びぬけている。中原中也と並び、文豪2大クズとも言われる(太宰治を入れると3人)。しかし、このような生活ぶりでも妻への想いと、啄木の人懐っこさや憎まれにくい性格も。彼の人間性が彼の作品の質を落とすものではない。クズだと言われても仕方がないかも知れないが、歌人として詠んだ歌や小説は評価が高いものが多い。自分の甘さや弱さを平然と人前に晒(さら)せる人間性が啄木の最大の魅力なのかも知れない。
石川啄木終焉の地
啄木は肺の疾患と診断され、療養のために東京府小石川区久堅町(現・東京都文京区)へ転居した。しかしそれも実らず、第二詩集『悲しき玩具』を構想中であった明治45年(1912)4月に病状悪化で死去。現在、その地の隣接地に石川啄木顕彰室がある。
『一握の砂』
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
東海の小島とは日本のことで、磯は北海道函館の大森浜。若き日々の悲しみを詠んでいる。あふれてくる悲しみに耐えかねて心が沈み、涙に濡れたことを懐かしむ気持ち、北海道函館の大森浜での悲しみを回想して歌っている。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
啄木の生活苦を歌った一首。啄木は中学を中退し文学を志したが、当時の文壇・歌壇は学歴主義の壁があった。「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」(『一握の砂』)という歌を残すほどプライドの高い啄木は、満足できる職に就けず職を転々とした。
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
啄木は母・カツに甘やかされて育っていた。その母に経済面などで苦労をかけ、やせ細らせてしまった。そのことを腕と背中で否応なく実感し、涙を流す啄木の一首。ただし啄木の実妹・光子は、母に迷惑ばかりかけていた兄が母をおんぶするなどありえない、と記している。
ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
ふるさとは啄木の出身地・岩手県である。停車場は東北地方からの鉄道が乗り入れる上野駅を指す。電話が普及していなかった当時、ふるさとの響きが恋しくなった啄木は、それを耳にするためには同駅へ行くしかなかったようだ。
*参考書籍
『文豪がよくわかる本』(宝島社)
『一握の砂・悲しき玩具』(新潮社)
ほかにWikipediaなど
14-2954
「真理はあなたを自由にする」 ヨハネ福音書
「リベラルアーツは人を自由にする」は、「真理はあなたを自由にする」から来ている
物事の本質を見抜く目
激変の時代、先が見えにくい時代においては座標軸が不可欠だ。その軸を与えてくれるものがリベラルアーツになる。また、物事の本質を見抜く目、時代を先取りする大局観を養ってくれる。リベラルアーツの起源は、ギリシャ、ローマでは、肉体労働は奴隷に任せ、自由人は「自由七科」と言われる教養を身につけることが求められた。その7つとは、文法、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽だ。
リベラルアーツのリベラルには、英語の古語において「豊富な」という意味もあり、アーツには「学問」の意味がある。つまり、豊富な学問イコール教養といえる。
人を自由にする学問
リベラルアーツを学ぶ意味は、短期的な成果を追わず、人間としての成長を目指すということ。リベラルアーツは元来、人を自由(リベラル)にする学問という意味であって、自由人と奴隷とを選別する道具としての教養だった。
「問う」と「疑う」
ここでいう「自由」とは何なのか。もともとの語源は、新約聖書のヨハネ福音書の第8章31-32節にあるイエスの言葉、「真理はあなたを自由にする」から来ている。「真理」とは「真の理(=ことわり)」のことである。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ころわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、その時その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから自由になれる、といっているのだ。目の前の世界において常識として通用して、誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり「問う」「疑う」ための技術が、リベラルアーツの真髄だということになる。そして、あらゆる知的生産は「問う」「疑う」ことから始まるのだ。
03-0873