きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

『キュリー夫人伝』 ラジウムを発見した女性科学者

 

今世紀の原子力・核の時代を切り開き、パリ大学初の女性教授に就任したキュリー夫人

 

f:id:muchacafe:20170810194335j:plain
Wikipedia

マリア・スクウォドフスカ=キュリー (1867-1934)
現在のポーランド出身の物理学者・化学者で、フランス語名はマリ・キュリー。キュリー夫人の名で有名ですね。放射線の研究で 1903年ノーベル物理学賞、1911年にはノーベル化学賞を受賞。今世紀の原子力・核の時代を開き、パリ大学初の女性教授職に就任しました。放射能という用語は彼女の発案によります。

 

あこがれのパリへ

 ポーランドワルシャワで生まれますが、当時はロシアの支配下にありました。マリアは子どもの頃から優秀でしたが、ロシアでは女性は大学に入学することを許されていません。しかし、先にパリに行っていた姉の誘いで、1891年にパリ大学に入学することができました。物理の教師をしていた父親の影響で、人々の役に立つよう科学の勉強を始めます。この頃からフランス風に「マリー」という名前を使っています。

 

ピエールとの出会い

 マリーが研究上の問題で困っていた時に、ピエール・キュリーを紹介されます。その後、ふたりは結婚し、1897年に娘のイレーヌが生まれます。ふたりは、放射性物質の研究を共同で進め、1898年に新しい放射性元素を特定することができました。まず、ポロニウムが発見され、次いで、ラジウムが発見されます。ふたりはこの功績により、一緒にノーベル物理賞を受賞しました。
 余談ですが、ポーランドが生み出した偉人に、キュリー夫人のほか、コペルニクスショパンがいます。「ポロニウム」という名称も、ショパンの「ポロネーズ」も祖国ポーランドにちなんでつけられました。
 この時期、ふたりは精力的にたくさんの論文を書いており、その中にはラジウム照射により腫瘍を殺すことができるという、現在のガンの放射線治療につながる論文などもあります。1904年には次女のエーヴも生まれます。

 

パリ大学初の女性教授に

 それまで順風満帆な研究生活でしたが、夫のピエールが交通事故で急死してしまいます。マリーは、夫ピエールが就いていた大学の後任を要請され、承諾しました。小さな子どもの世話をしながら、更に精力的な研究を続け、1911年に二度目のノーベル賞(化学賞)を受賞します。彼女はその後も放射性物質を使った医療に関する研究などを続けました。1918年にポーランドが独立を回復します。1921年にはアメリカが彼女に研究材料を提供するとともにワシントンへ招待します。

 

放射性物質の危険性

 ポロニウムラジウムを発見した、マリ・キュリー(キュリー夫人)は、亡くなる直前まで研究を続けましたが、自らも長期間に渡って被爆していました。残した研究資料は、100年以上経った現在でも放射線を出し続けているため、容易に手にすることはできない状態になっているそうです。ノーベル賞を二度受賞していますが、夫妻は放射性物質の危険性については理解しておらず、自宅の研究室にはトリウムやウランなどが裸のままで置かれていたそうです。これらの放射性物質は暗いところでぼんやりと発光するため、キュリー夫人の手記には「研究の楽しみのひとつは、夜中に研究室に入ることでした。試料の詰まった試験官が淡い妖精の光のように美しく輝いていました」と書かれています。キュリー夫人再生不良性貧血によって、1934年に66歳で亡くなっています。

 

娘のイレーヌもノーベル賞を受賞

 マリーの研究は、長女のイレーヌ・キュリーとその夫に受け継がれました。このふたりも放射能の研究を続け、のちに放射性元素を人工的につくり出すことに成功し、1935年にノーベル化学賞を受賞しています。もう一人の娘のエーヴは、有名な『キュリー夫人』を書いています。
 「知の巨人」立花隆はこの本を小学校4年生のときに読み、文学と共に科学に興味を持つようになったのもこの本のおかげだろうと述べています。
 

キュリー夫人伝

キュリー夫人伝