きょうも読書

言葉の迷路を彷徨う

石川啄木 『一握の砂・悲しき玩具』

 

貧しさと病苦にあえぎながら
27歳にして世を去った天才歌人

 

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

 

 

生活苦を詠んだ歌人
実は女遊びで借金まみれ
その貧窮は自業自得か

 

 

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石川啄木(いしかわたくぼく)
1886年明治19年岩手県盛岡市生まれ。歌人、詩人。本名は石川一(いしかわはじめ)。1912年(明治45年)結核のため死去。26歳没。写真の左は親友の金田一京助

 寺の住職の一人息子として生まれ、文学を志すも作品は売れず、小学校の代用教員や、小樽日報の記者、東京朝日新聞社の校正係などを務めた。金田一京助など友人から多額の借財を重ねつつ作品を発表するが、肺結核を患い貧窮の中に生涯を閉じる。『一握の砂』『悲しき玩具』など、生活上の詠嘆を題材とした歌集が高く評価されたのは、その死後のことであった。石川啄木の作品は、短歌の「五・七・五・七・七」ではなく、「三行書き」のスタイルで、詩のようなイメージを持たせた口語体の表現が特徴的だ。 (石川啄木 - Wikipedia)

 

 

カンニングがバレて中学校を中退

 「はたらけど  はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり  ぢっと手を見る」この歌のように懸命に生きながらも報われないまま、短い生涯を終えた薄幸(はっこう)歌人という印象が強い石川啄木。だが、実態はだいぶかけ離れていたようだ。幼少期の暮らしは決して貧しくなかった。盛岡中学校中退も期末試験で2度のカンニングが発覚したという理由によるものだ。なお、この中学時代にのちに妻となる堀合節子や親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合いになる。

 

文学活動を始めるも家庭危機に

 19歳で処女詩集『あこがれ』を出版した啄木だったが、この出版費用のため、住職だった父が檀家との間で金銭トラブルを起こして寺を追われる。その一方で、19歳の啄木は初恋の相手である堀合節子と結婚。一家が経済的に追い詰められる中、啄木は母校で代用教員として働き始めるが、それでも困窮を極めてゆく。節子は娘を連れて、生活苦や義母との不和に耐えかね、盛岡の実家に帰ってしまった。

 

女性依存と嫉妬深さ

 妻子がある身でありながら、東京では何人もの芸者と交際するなど、非常に奔放である。一方で、妻子に家出されてひどく落ち込むなど、女性に依存する面もある。手紙から妻と友人・宮崎郁雨(みやざきいくう / 歌人の浮気を疑い絶縁するなど、嫉妬深い顔も見せる。

 

『ローマ字日記』を書き始めたころ

 東京朝日新聞の校正係として働き始めた啄木は、雑誌「スバル」を創刊し、同誌上で小説を発表。家出していた節子も親友・金田一京助らの尽力で帰宅する。のちに赤裸々な日記文学として評価される『ローマ字日記』を書き始めたのもこの頃。そこには、貧乏に耐えながら文学に情熱を注いだ一面とは異なる啄木の素顔が、時に露骨な性描写を交えて赤裸々に綴られている。それによると、他人から借りたお金を女遊びや遊興費に使ってしまったり、仕事を無断欠勤したりと、生活苦にもかかわらず奔放な生活を送っていた。

 

『一握の砂』を1910年に出版

 この頃の啄木は、ようやく歌人として評価を受け、東京朝日新聞の朝日花壇の選者に抜擢されると共に、24歳で初の歌集『一握の砂 (いちあくのすな)』を出版する。とはいえ、貧困から抜け出すには程遠く、さらに啄木は持病の結核を悪化させてしまう。病に倒れた啄木は、妻子と父、親しかった歌人若山牧水に看取られ、26歳の短い人生を終えた。この『一握の砂』は全部で551首が収められ、5部構成となっている。

 

「たかり魔」石川啄木

 啄木はいわゆる「たかり魔」で、困窮した生活ゆえに頻繁に友人知人からお金をせびっていた。特に先輩の金田一京助樺太に出張中にも啄木からの金の無心を受けた。このように啄木は各方面に借金をしており、またそのことを自身で記録している。合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる(2000年頃の物価換算では1400万円ほど)。この借金の記録は、宮崎郁雨によって発表されたが、この後の啄木の評価は「借金魔」「金にだらしない男」「社会的に無能力な男」というのが加わるようになった。

 

傲慢不遜な一面も

 啄木は友人宛の手紙で浦原有明を「余程食へぬやうな奴だがだましやすい」、薄田泣菫与謝野鉄幹を「時代おくれの幻滅作家」と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を侮辱したほか、友人からの援助で生活を維持していたにもかかわらず「一度でも我に頭を下げさし  人みな死ねと  いのりてしこと」と詠んだ句を遺すなど傲慢不遜(ごうまんふそん / 人を見下す態度)な一面もあった。

 

人懐っこさと甘さや弱さを晒せる人間性

 往年の文豪には何かと人間的にクズな逸話も多いが、啄木は飛びぬけている。中原中也と並び、文豪2大クズとも言われる(太宰治を入れると3人)。しかし、このような生活ぶりでも妻への想いと、啄木の人懐っこさや憎まれにくい性格も。彼の人間性が彼の作品の質を落とすものではない。クズだと言われても仕方がないかも知れないが、歌人として詠んだ歌や小説は評価が高いものが多い。自分の甘さや弱さを平然と人前に晒(さら)せる人間性が啄木の最大の魅力なのかも知れない。

 

石川啄木終焉の地

 啄木は肺の疾患と診断され、療養のために東京府小石川区久堅町(現・東京都文京区)へ転居した。しかしそれも実らず、第二詩集『悲しき玩具』を構想中であった明治45年(1912)4月に病状悪化で死去。現在、その地の隣接地に石川啄木顕彰室がある。

 

 

 

『一握の砂』

 

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

東海の小島とは日本のことで、磯は北海道函館の大森浜。若き日々の悲しみを詠んでいる。あふれてくる悲しみに耐えかねて心が沈み、涙に濡れたことを懐かしむ気持ち、北海道函館の大森浜での悲しみを回想して歌っている。

 

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る

啄木の生活苦を歌った一首。啄木は中学を中退し文学を志したが、当時の文壇・歌壇は学歴主義の壁があった。「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」(『一握の砂』)という歌を残すほどプライドの高い啄木は、満足できる職に就けず職を転々とした。

 

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

啄木は母・カツに甘やかされて育っていた。その母に経済面などで苦労をかけ、やせ細らせてしまった。そのことを腕と背中で否応なく実感し、涙を流す啄木の一首。ただし啄木の実妹・光子は、母に迷惑ばかりかけていた兄が母をおんぶするなどありえない、と記している。

 

ふるさとの(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

 ふるさとは啄木の出身地・岩手県である。停車場は東北地方からの鉄道が乗り入れる上野駅を指す。電話が普及していなかった当時、ふるさとの響きが恋しくなった啄木は、それを耳にするためには同駅へ行くしかなかったようだ。

 

 

 

 *参考書籍
『文豪がよくわかる本』(宝島社)
『一握の砂・悲しき玩具』(新潮社)
  ほかにWikipediaなど

 

 

 

 

 14-2954

「真理はあなたを自由にする」 ヨハネ福音書

 
リベラルアーツは人を自由にする」は、「真理はあなたを自由にする」から来ている

 

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国立国会図書館

 

物事の本質を見抜く目

 激変の時代、先が見えにくい時代においては座標軸が不可欠だ。その軸を与えてくれるものがリベラルアーツになる。また、物事の本質を見抜く目、時代を先取りする大局観を養ってくれる。リベラルアーツの起源は、ギリシャ、ローマでは、肉体労働は奴隷に任せ、自由人は「自由七科」と言われる教養を身につけることが求められた。その7つとは、文法、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽だ。
 リベラルアーツのリベラルには、英語の古語において「豊富な」という意味もあり、アーツには「学問」の意味がある。つまり、豊富な学問イコール教養といえる。

 

人を自由にする学問

 リベラルアーツを学ぶ意味は、短期的な成果を追わず、人間としての成長を目指すということ。リベラルアーツは元来、人を自由(リベラル)にする学問という意味であって、自由人と奴隷とを選別する道具としての教養だった。

 

「問う」と「疑う」
 ここでいう「自由」とは何なのか。もともとの語源は、新約聖書ヨハネ福音書の第8章31-32節にあるイエスの言葉、「真理はあなたを自由にする」から来ている。「真理」とは「真の理(=ことわり)」のことである。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ころわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、その時その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから自由になれる、といっているのだ。目の前の世界において常識として通用して、誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり「問う」「疑う」ための技術が、リベラルアーツの真髄だということになる。そして、あらゆる知的生産は「問う」「疑う」ことから始まるのだ。

 

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

新約聖書 福音書 (岩波文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 03-0873

ツルゲーネフを凌ぐ美男作家 米原万理

 

 

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Anton Pavlovich Chekhov
Wikipedia

 

 

ロシア文学史上
ツルゲーネフを凌ぐ美男作家といえば
チェーホフだろう

青年時代の写真は
ドキッとするほどセクシーだ

 

米原万理「モテる作家は短い!(1999年)」より

 

 

米原万理(よねはらまり)
1950 - 2006年  ロシア語同時通訳・エッセイスト・ノンフィクション作家・小説家。東京外国語大学ロシア語学科卒。主な著書に『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』『オリガ・モリソブナの反語法』など。2006年に卵巣癌で死去。56歳没。

 

日露対訳 チェーホフ短編集【朗読音声付】

日露対訳 チェーホフ短編集【朗読音声付】

 
ツルゲーネフ作品集

ツルゲーネフ作品集

 
ロシアは今日も荒れ模様 (講談社文庫)

ロシアは今日も荒れ模様 (講談社文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 02-0633

「わかりやすく話す」2つのコツ

 

話し上手な人は「。」が多い

① 結論や重要なことを先に伝える
② マルの多い話し方をする

 

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話し上手な人の2つの特徴

 職場などで「何が言いたいのかさっぱりわからいない」「もっと要点を整理して話したらいいのに」などと思ったりしたことがありませんか。自分のことはだれも指摘してくれません。「話しことば」は「書きことば」と違い、話した瞬間に消えていきます。耳で聞いてすぐわかるように話さないといけません。話の上手な人には2つの特徴があります。写真のジョブズはプレゼンやスピーチの名手でした。簡潔でわかりやすく、また感動的なトークも数多くありました。

 

話の全体像を先に伝える

 わかりやすく話すには2つのポイントがあります。1つは、結論や重要なことを先に伝えることです。まず話の全体像を先に伝えること。そして部分的な話をしていく。これで聞き手は心の準備ができます。自分が聞き手だったらやはり大事なことは先に言ってほしいですね。

 

センテンスを短くする

 2つ目は、マルの多い話し方をすること。話の上手な人は一文が短いので、理解しやすく聞きやすい。「~です。~は~です。~でした。そして~でございます」というように読点「。」が続きます。センテンスが長いと、何を言いたいのかよくわかりません。句点「、」ばかりでは、話の行き先が見えません。接続詞で文をつなげるよりも、短く区切って話す方が圧倒的に伝わりやすくなります。

 

文章を書くときにも役立つ

 この2つを意識するだけで見違えるように、わかりやすい話し方になります。また、このことは文章を書くときにも役に立つのです。ここで3つの例題をあげますので、耳で聞いてすぐわかるように直してみてください。

 

例題 ①
午後1時から1時間ほど横浜で用事があるので、夕方の会議は少し遅れると鈴木課長に連絡しておいてください。

 ポイントは、だれに何を伝えるか。「鈴木課長に、夕方の会議に遅れる」ということですね。遅れる理由は、そのあとでよいと思います。さらに、3つに区切りると分かりやすくなります。

【解答例】
鈴木課長に連絡してください。夕方の会議に少し遅れます。理由は、横浜で午後1時から1時間ほど用事があるためです。

 

 

例題 ②
5月30日の金曜日、正午から午後1時まで、会議室と食堂を除く、すべての部屋の蛍光灯の取り替え作業があると、今朝のミーティングで総務部から説明がありました。

細かい説明から入ると、聞き手は理解できません。話の概略「全体像」を最初に伝えると、何をどこまで聞けばよいのか心の準備ができます。そう、全体から部分へです。
ここでの伝えたいテーマは何でしょう。「部屋の蛍光灯の取り替え作業がある」ということですね。情報の出所も早めに伝えます。「今朝のミーティング」より「総務部」が先です。あとセンテンスが長すぎますので、5つに分けましょう。

【解答例】
部屋の蛍光灯の取り替え作業があります。総務部から今朝のミーティングで説明がありました。日にちは5月30日の金曜日。時間は正午から午後1時です。なお、会議室と食堂は除きます。

 

 

例題 ③
このデジタルカメラは、3倍ズームのレンズで、画質も1000万画素と鮮明で、そのうえ値段は39,800円とお買い得の商品です。

全体像を示したあと、細かい説明に入ります。3つぐらいに分けると、わかりやすいです。そのとき「小見出し」をつけると、いっそうわかりやすくなります。販売員がお買い得品のデジタルカメラをPRしています。目的は、お買い得商品のPRです。その理由を3つ挙げています。

 【解答例】
このデジタルカメラは、お買い得品の商品です。理由は3つあります。①3倍ズームのレンズがついています。②画質が1000万画素と鮮明です。③価格が39,800円と安いことです。

 

 

形容詞を使うときは具体的に

 おもしろい、美しいなど形容詞を使うときには注意が必要です。「おもしろい人です」と紹介しても、どんな人かわかりません。具体的なエピソードを話さないとイメージできません。目に浮かぶように話します。

 

話すことは考えること

 センテンスが長いと、話の展開が非常にわかりにくくなります。できるだけ主語と述語を近づけるようにします。「話すことは考えること」、きっとビジネスの場でも役に立つはずです。

 

*例題は「NHKアナウンサーのはなすきくよむ 2003年版」より引用

 

 

 

 

 

 

09-1801

『読書について』 ショーペンハウアー

 

読書は他人の頭で考えることでしかない
必要なのは自分の頭で考えること

ショーペンハウアー哲学を
わかりやすく理解させてくれる
最良の入門書

 

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Arthur Schopenhauer  アルトゥル・ショーペンハウアー
1788-1860  ポーランド・リトアニア共和国グダニスク生まれ。ドイツの哲学者。1820年ベルリン大学講師となったが、当時ヘーゲル哲学が全ドイツを席巻、人気絶頂のヘーゲル正教授に圧倒され辞任し、在野の学者となる。主著は『意志と表象としての世界』。誰とも結婚せず、生涯独身のまま、その一生を終えた。1860年フランクフルトにて肺炎で死去。72歳没。ニーチェワーグナーをはじめ、哲学・文学・芸術の分野で後世に大きな影響をおよぼした。

影響をうけたもの 仏教、ゲーテ、カント、プラトンジョン・ロックシェイクスピアスピノザなど。
影響をあたえたもの アインシュタインフロイトユングモーパッサントーマス・マンマラルメニーチェヘルマン・ヘッセカール・ポパーサルトルツルゲーネフトルストイトロツキーワーグナーなど多数。

wikipedia・本書)

 

 『読書について』
「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ」... 。率直さゆえに辛辣に響くアフォリズム(格言)の数々。その奥底には、哲学者ショーペンハウアーならではの人生哲学と深いヒューマニズムがあります。それが本書の最大の魅力です。(本書)

以下は本書からの抜粋です

 

 

本を読むとは他人の頭で考えること

 本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が自然に融合してひとつにまとまってゆくことはない。

 

多読に走るべきではない

 きわめてすぐれた頭脳の持ち主でさえ、いつでも自分の頭で考えることができるわけではない。そこで思索以外の時間を読書にあてるのが得策だ。読書は自分で考えることの代わりであり、精神に材料を供給する。その場合、私たちに代わって他人が考えてくれるが、その思考法は常に私たちとは異なる。だからこそ、多読に走るべきではない。精神が代用品に慣れて、それにかまけて肝心のテーマを忘れ、他人の考えで踏み固められた道に慣れ、その道筋を追うあまり、自分の頭で考えて歩むべき道から遠ざかってしまわないようにするためだ。

 

反芻し、じっくり考える

 本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻(はんすう)し、じっくり考えたことだけだ。ひっきりなしに次々と本を読み、後から考えずにいると、せっかく読んだものもしっかり根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう。

 

本を選ぶときのコツ

 本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。いま大評判で次々と版を重ねても、1年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。あらゆる国々の、常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品へ振り向けよう。私たちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけである。良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから。

 

反復は勉学の母である

 本を買うとき、それを読む時間も一緒に買えたら、すばらしいことだろう。だがたいてい本を買うと、その内容までわがものとしたような錯覚におちいる。読んだものをすべて覚えておきたがるが、私たちはみな、自分が興味あるもの、つまり自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。
 そのためにも「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな、続けて2度読むべきだ。2度目になると、内容のつながりがいっそうよくわかるし、結末がわかっていれば、出だしをいっそう正しく理解できるし、印象も変わってくるからだ。

 

饒舌な者はなにも語らない

 手練手管を用いる書き手について「饒舌(じょうぜつ)な者は、なにも語らない」という言葉があてはまる。どんな場合でも抽象的な表現を選ぶ。これに対して知者は、より具体的な表現を選ぶ。具体的であるほうが、物事はあらゆる明白さの源泉である直観性になじむからだ。
 真理はむきだしのままが、もっとも美しく、表現が簡潔であればあるほど、深い感動を与える。たとえば人間存在のむなしさについて、どんなに熱弁をふるっても、ヨブの言葉以上の感銘を与えるものがあるだろうか。

「人は女から生まれ、つかのまの時を生き、悩み多く、花のように咲きほころび、しぼみ、影のようにはかなく消えてゆく」
旧約聖書ヨブ記』第14章1~2節)

 

 

後世に与えたはかりしれない影響

 ニーチェショーペンハウアーの主著との運命的な出会いは有名だ。ショーペンハウアーの没後5年たった1865年、ライプチヒ大学の学生だったニーチェは、古本屋の店先で分厚い本を目にした。本をパラパラめくると、「いかなるデーモンが私の耳元でささやきかけたのだろう。とにかく『持って帰れ』と言ったのだ」。その後、ニーチェは寝るまも惜しんでこの書に没頭、「あたかも私のために書いてくれた」かのように感じるほど衝撃を受け、ショーペンハウアーを「教育者」と呼んでいる。

 いっぽうロシアの文豪トルストイは1868年、『戦争と平和』の締めくくりとして「必然と自由」論を執筆しているとき、まさにショーペンハウアーの著作と出会う。「今私はショーペンハウアーは多くの人間たちの中でもっとも天才的な人物だと確信します ...  これは信じられないはっきりと、美しく照らし出された世界です」と絶賛し、大作『戦争と平和』を完結させている。

他にもスウェーデンの劇作家・小説家アウグスト・ストリンドベリやドイツの文豪トーマス・マンショーペンハウアーを「言葉の芸術家」と呼んだカフカや、精神分析の先駆者として尊重したフロイトなど、彼が後世に与えた影響ははかりしれない。

 

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 07-2672

ロシア料理の名店「スンガリー」60周年

 

ロシア料理がこんなに美味しいとは知らなかった
東京で食べられる唯一のお店が60周年
その歴史を見てみよう

 

 

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本格的なロシア料理店

 2017年に60周年を迎えた、歌舞伎町の老舗ロシア料理店「スンガリー」。歌舞伎町に店舗を移転したのは1960年。それ以来ここで営業し、現在は新宿に2軒の店舗を構える。
 本格的なロシア料理を堪能でき、文化人・著名人が訪れて知的な会話を交わし、ロシア人客も多く訪れる店として長い間親しまれてきた。そんな名店スンガリーは「百万本のバラ」を歌った、歌手の加藤登紀子さんがオーナーを務めるお店でもある。初めて来店されるお客様から「ロシア料理がこんなに美味しいとは知らなかった」と言われるという。

 

ハルビン移住から始まった

 スンガリーの歴史は、オーナー加藤登紀子さんのご両親が1935年、日本から旧満州ハルビンへと移住したことから始まった。1943年に加藤登紀子さんはハルビンで生まれる。当時のハルビンはロシア人が多く住み、加藤家もロシア人の住居に間借りしていた。ハルビンに住む日本人とロシア人の仲は親密で治安も良く、インフラも整った人気の街だった。

 

ハルビンを流れる川、スンガリ

 ご両親は、1946年に日本に帰国した後もロシアに対する郷愁の想いや、満州から日本に引き揚げてきたロシア人たちに安定した職場を提供したいという目的もあり、1957年東京新橋にロシア料理店「スンガリー」をオープンする。店名はハルビンを流れる川の名である「スンガリー(松花江)」から名付けた。以後ロシア人スタッフとともに、日本で本格的なロシア料理を提供する老舗店舗としての歴史をスタートさせた。1958年に京橋、そして1960年に新宿歌舞伎町に移転、1967年には新宿西口店をオープン、1972年には京都にキエフ京都店がオープンしている。

 

 

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亀山郁夫ロシア文学者・東京外国語大学名誉教授)

あの東口の地下のほの暗い空間に漂う不思議な雰囲気こそが、母なる湿潤の大地そのもののぬくもりではないか。私の活動拠点は名古屋に移ったが、それでも3か月に一度はそのぬくもりを求めて東口に出る。

 

佐藤 優(作家・元外交官)

スンガリーはウラル風だ。エリツィン元大統領の大好物がペリメニだった。ペリメニソ連時代に人気があったウオトカ「ストリチナヤ」を飲む。こういう風にして、私はスンガリーで至福のときを過している。

 

松本零士(漫画家)

あれは18か19歳の時だったか、上京当日のその日の夜、新宿コマ劇場の裏に編集部が連れて行ってくれたのが、その名も懐かしい「スンガリー」。そういう大人の行く場所の体験はこれが生まれて初めてのことでした。

 

加藤登紀子(歌手・オーナー)

このスンガリーには、日本に流れ着いたロシア人たちが毎晩集まり、閉店後に歌ったり踊ったり楽しんでいました。そんななかで、コック長のクセーニヤの長男ビーチャが御茶ノ水ニコライ堂で結婚式を挙げたのです。ウェディングドレスの花嫁を抱き上げて踊るビーチャ。「ゴーリコ! ゴーリコ!(苦しい、苦しい)」と囃し立てられながら、花嫁花婿だけじゃないすべてのカップル達がウオッカを乾杯! その果てしない素晴らしい宴会の一部始終、それが私の歌手としての原点といってもいいかもしれません。

 

 

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ボルシチ

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フレッシュサーモンマリネのブリヌイパンケーキ包み

 

ロシア料理「スンガリー」ホームページ
Russian Restaurant Sungari

 歌舞伎町文化新聞
https://kabukicho-culture-press.jp/all/spot/877

 *上記は「歌舞伎町文化新聞」や「スンガリー60年史」からの抜粋です。

 

松花江(スンガリー)を越えて 少年の見た満洲引き揚げの記録〈1945~46〉

松花江(スンガリー)を越えて 少年の見た満洲引き揚げの記録〈1945~46〉

 

 

 

 

 

 

 

 

07-1628

「学ぶ力」 内田 樹

 

学力低下」という事態の本質は
「プライドが高い」ことにある

 

 

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内田 樹(うちだたつる)
1950年東京都大田区生まれ。日本の哲学研究者、コラムニスト、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学人文学部客員教授東京大学文学部卒。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。主な著書に『寝ながら学べる構造主義』『先生はえらい』『下流志向』『日本辺境論』などがある。
WikipediaAmazon


下記の文章は、内田樹氏が「学ぶ力」とはどのようなことかを論じたものです。学力とは「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化をいい、「プライドが高い」ことが「学力低下」という事態の本質だという。以下は、オリジナル文章より抜粋しています。
*出典:小論文セミナー配布資料より

 

学ぶ力

「学力」とは何か

 日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。この機会に、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。
 そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人が、ほとんどだと思います。本当にそうでしょうか。学力はそのような数値だけで捉えるものではありません。「学力」を訓読みしたら「学ぶ力」になります。私は学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」として捉えるべきだと考えています。数値として示して他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。

 
点数化できない能力

 例えば、ここに「消化力」が強い人がいるとしましょう。ご飯をおなかいっぱいに詰め込んでも食休みもしないで、すぐに次の活動に取りかかれる人はまちがいなく「消化力が強い」といえます。しかし、それを点数化して他人と比べたりしようとはしないはずです。「睡眠力」や「自然治癒力」というのも同様のものだと思います。私は「学力」もそういう能力と同じものではないかと思うのです。

 
昨日の自分と比べたときの変化

 「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。人間が生きていくために本当に必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。

 
無知の自覚

 「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。「無知の自覚」といってよい。これが第一です。「私は知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。


教えてくれる「師」を見つける

 第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、誰に教わったらいいのかわからないという人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
 ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です。会っても言葉が通じない外国の人だったり、亡くなった人だって「師」にしていいのです。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでも、かまいません。生きて暮らしていれば、いたるところに師あり、ということになります。ただし、そのためには日ごろからいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。

 
「師」を教える気にさせる

 第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。こちらには学ぶ気がある。師には「教えるべき何か」があるとします。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
 どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。師を教える気にさせるのは「お願いします」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。

 
私は学びたいのです

 この3つの条件をひと言で言い表すと、「私は学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これが私の考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、これを口にできない人は「学力がない人」です。

 
学力低下」の本質

 「学びたいのです。先生、教えてください」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞(せりふ)は言わずに済ませたい。誰かにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そのように思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうと私は思っています。自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。みなさんの健闘を祈ります。

 

 

*下記著書は今回の記事とは関係ありません

街場の読書論 (潮新書)

街場の読書論 (潮新書)

 
下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

 
 

 

 

 

 

 

 

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